イスカとウルーグ①

 久方ぶりに地下聖堂へと入った。

 没薬ミルラのにおいがする。聖堂へと近づくほど甘ったるい香のにおいが強くなる。

 没薬ミルラの精油を好んだのは初代王イスカルの妻だというが、シオンには考えられない。先に逝った妻の御霊を慰めるためだったのだろうか。イスカルの遺志を継ぐ歴代の王たちは、律儀にその掟を守っている。獅子王――スオウもそうだ。

 やはり、ここは好きになれない。

 天井が低く窮屈なのもあるが、それ以上にここの空気が嫌いなのだ。

 聖堂に入ることが許されているのは限られた者のみで、いまではシオンとスオウの二人だけだった。

 先客の姿はすでになく、しかし没薬ミルラのにおいが充満している。スオウは真面目で律儀な男だ。歴代の王の魂を慰めるべく、足繁く通っているらしい。

 シオンもまた祈る。左手を開き、右手には拳を作る。戦士の祈りの動作が終わっても、シオンはしばしそのままでいた。

 ここには初代王イスカルの他にもたくさんの者たちが眠っている。

 イスカルが愛した妻女、その子どもら。獅子王を継いだ者、その家族たち。シオンの父親であった獅子王も、兄たちも、そして母もここにいる。

 シオンは祈る。彼らのために。それから、もう一人のために。

 エンジュの身体は妻女に返してやったので、ここにはない。けれど、魂はどこへ還ったのだろうと、シオンは考える。もしも皆と一緒にここで眠っているのなら、シオンは招かれざる客だ。

 気まぐれなんかでここに来るんじゃなかった。

 シオンは苦笑する。イスカはようやく安定した。たくさんの血が流れすぎた。後悔はない。だけどこうも思う。スオウはそうではないのかもしれない。義理弟エンジュを斬ったその手を、忌まわしく思っている。

「あいつは馬鹿だ」

 シオンは独りごちる。スオウが来ていなかったら死んでいたのはシオンだ。それに、きっとスオウも倒れていた。イスカはふたたび乱れて、またいくさがはじまる。

 粛正は終わった。エンジュに関わっていた者のほとんどが死んだ。妻女と子らは南へと返した。もう会うこともないだろう。

「待ちくたびれたぞ」

 最初に迎えた声はシュロだった。

 成人した息子たちに西の部族を任せたシュロは、余生をたのしんでいる。それにはまだ早すぎると、幼なじみをイスカの王城へと呼んだのはシオンだ。

「線が細すぎる。ちゃんと食わせているのか?」

 ラギはまもなく七つになるが、おなじ年の子に比べてちいさい。痩せっぽちで大人しく、まるでシオンが拾った頃のスオウのようだ。

「だからお前に頼んだ。子どもの相手をしてくれてもいいだろう?」

 少女の時分のシオンはしつっこくシュロに付き纏っていた。対してシュロは子どもの相手をしないの一閑張り、だが若い盛りを過ぎた戦士は、子どもらを鍛えなければならない。そうやって、シオンもシュロも、スオウも強くなった。

「そろそろ座学の時間も終わる。あれはまだちいさくて泣き虫だが、稽古を付けてやってくれ」

「そのつもりだ」

 遠慮は要らない。そう、告げるシオンにシュロはにやっとする。

「まあ、それはいいとして。お前、南の一件はどう始末を付けるつもりだ?」

「南?」

 目を瞬かせるシオンにシュロは真顔になった。



 







 

「スオウはいるか?」

 執務室に押し入るシオンだが、そこにスオウの姿はなかった。文献に目を通していたセルジュがこちらに視線を向ける。

「しばらくは戻りませんよ。ご友人に会いに行ったのでは?」

 では、行きちがいになったのだろう。シオンは舌打ちする。怒りの矛先は別にスオウじゃなくてもいい。

「……なにか?」

「南で争いがあったそうだな」

 セルジュはようやく手を止めた。声を待たずにシオンはつづける。

「なぜ、私に何の報告もしなかった?」

「言えば、あなたは自ら南に向かったでしょう?」

「当たり前だ!」

「それでは困ります」

「なんだと?」

 セルジュは無遠慮にため息を吐いた。失望の証だ。

「シオン殿は獅子王の奥方です」

「だからなんだと言うんだ」

「弟君の妻女らを南に返したのは、あなたと獅子王だ」

 シオンは絶句する。嫌な予感が止まらない。

「ウルーグと戦争をするつもりですか?」

「馬鹿な。なぜ、話がそんなことになる?」

「慎重にならねば、それだけの事が動くということです」

 先ほどから質問を質問で応えるのを繰り返しだ。シオンは力任せに壁を殴った。鼻から荒い呼吸を繰り返し、頭が冷えるまで狭い執務室を行ったり来たりした。シュロとセルジュの声を脳内で再生させるには、時間が必要だった。

 事の発端は些細なことだったという。南は、隣国ウルーグとの国境近くであり、小規模な小競り合いはめずらしくなかった。

 今回も同様の事例だったが、ウルーグ側がイスカの領域に侵入し、ひとつの村を占拠した。ここまで大胆なやり口ははじめてだった。

「どちらが先に攻めたなんてどうだっていい。問題なのは、そのやり方だ」

 シオンの拳が震える。怒りはまだ収まっていない。

「先にイスカの集落を押さえたのはウルーグです。が、たしかにシオン殿の言うとおり、あれはやり過ぎだ」

 掠奪、陵辱、虐殺。それらはすべてイスカの戦士たちの行いだった。若い戦士たちは血気盛んで正直だ。しかし、若者たちを鼓吹こすいした者がいる。

「エンジュの妻女は南の出身だ。たしか……、弟がいる」

「捕縛し、ただちに処分しました」

 事もなげに言う。シオンは失笑しそうになった。

「あれらを返したのは間違いだった。お前は、そう言いたいのか?」

「いいえ。まったくの無関係だとは言いませんが、エンジュを慕っていた者がいるのは事実です」

 エンジュは南を味方に付けていた。あるいは、純粋にエンジュの強さに憧憬どうけいした者たちだったのかもしれない。

 小一時間後にスオウが戻って来た。セルジュの姿はいつのまにか消えていた。

「奴らはどうも私のやり方が気に入らないらしい」

 自嘲するスオウにシオンは眉を寄せる。エンジュの義理の弟。敬愛していたのなら、エンジュを殺した獅子王に恨みを抱くだろう。

 はたして、それだけか。

 イスカの男は強き者を好む。幼いエンジュがスオウを愛したように、その若者もまた。だとすれば、エンジュの意志を継いだと考えるべきか。

 そこまで考えてシオンは眉間を揉む。わからないことだらけで、頭がおかしくなりそうだ。

「それが、どうしてお前を失脚させるのに繋がる?」

「内乱どころか、隣国をも巻き込みたいらしい。若い者たちの考えそうなことだ」

 獅子王を玉座から引きりおろすだけの武力を持たないとなれば、他の方法を選んだというわけだ。だが、どうにも釈然としない。シオンは考えていることのすべてを口に出す。

「そのようなことを、若い連中だけで思いつくだろうか」

「わからない。だからこそ、動けない」

「らしくもない声をするな。王がそれでどうする」

 声を大きくするシオンに、スオウはかぶりを振る。 

「王とて人間だ。お前ならば、よく知っているだろう?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る