山麓の村②


 その日の夜遅くだった。

 ものすごい音がしてシオンは飛び起きた。外は嵐だ。荒ら屋が潰れてしまったのだと、そう思った。

 身構えるシオンを目顔で制して、スオウが戸へと近付く。誰かが力一杯に戸をたたいているのだ。刺客ならご丁寧に知らせたりはしない。だが、安堵するにはまだ早かった。

「助けてくれ! 急に妻が苦しみだした!」

 飛び込んできたのは身重の娘の夫だった。シオンはスオウを押しのけて男の肩を掴んだ。

「まさか、産まれるのか……?」

「わ、わからない。寝ていたら、突然腹が痛いって呻きだして」

 三人は娘の元に駆け込んだ。シオンは苦しむ娘に呼びかけたが呻くばかりで応えてくれなかった。

 あんなことを言うんじゃなかった。スオウに訴えたのはシオンだが、こんなに早くはじまるとは思わなかった。せめて二日三日後だったなら、村の女たちにも声を掛けられた。

「医者を連れてくる」

 シオンはスオウを見た。山麓の村には一番長寿のおばばがいた。助産から感冒かんぼうまで、具合が悪いときは皆おばばを頼る。こんなちいさな村には医者などいなかったからだ。そのおばばも夏の暑さに負けて逝ってしまった。だからもう、村には頼れる人間がいないのだ。

「この吹雪のなかを、か?」

 言いたくはなかったが、それは自殺行為に近い。医者のいる隣村まで遠く、おまけに外は嵐だ。シオンの思考など皆まで読み取ったように、スオウは笑んでいる。

「むかし、北の地区に行っていたときにこれよりひどい吹雪に遭った。それに……、この様子では、朝まで待っていたら彼女は持たないぞ」

 シオンもスオウも、そして娘の夫も、これから何が起こるのかを経験していない。陣痛がはじまったのが小一時間前だとしても、そこから産まれるまでに娘は苦しみつづける。手助けが必要だろう。それこそ、知識のある人間が要る。

 シオンの返事を待たずに、スオウは隣人の外套を借りて外へと飛び出した。

 追い縋ったシオンは、しかし風の強さに押し戻される。これでは娘が出産する前に荒ら屋が潰れてしまうのが先だ。

 娘の夫はおろおろとするだけで、それが余計にシオンを苛立たせた。落ち着けと、シオンは繰り返す。娘はいつも自分の夫をやさしい人間だと言っていた。シオンからしてみれば、大人しいだけの気の弱い人間にしか見えない。

 落ち着け。シオンは口のなかで言う。残された二人にできることなんて限られている。とにかく、娘を励ますことだ。それから二人で娘の名を呼びつづけた。それは長い長い夜になった。

 この隣人たちには恩がある。

 東の果てに流れ着いたシオンたちを受け入れてくれた。空いている家を教えてくれたし、畑も貸してくれた。身の内を明かさないシオンたちを異端視せずに、歳の近い友人になってくれた。

 娘はお節介なたちで、事あるごとにシオンを気遣った。それはどれも些細な出来事だったが、シオンは彼女のやさしさのすべてを忘れてはいない。

「大丈夫だ。がんばれ」

 そう、シオンはつづける。娘の夫も真剣な顔で、自身の妻を励ましている。

 苦しむ娘にしてやれるのはこれくらいだった。シオンは歯噛みする。もっと若い時分、あのときのシオンがシュロの元に行っていたら、出産もとっくに経験していただろう。詮なきことを考えて、シオンは苦笑する。ここにカンナがいたら、きっと叱りつけられていた。

 湯を沸かして、清潔な布を用意する。いざとなればシオンと男の二人で、赤子を取りあげるしかない。覚悟を決めたところでどうだろうか。素人が手を出すのは却って危険ではないか。逡巡しながらも、シオンはイスカの大地に祈りを唱える。がんばれ。シオンは繰り返す。スオウは絶対に戻ってくる。そう、信じるしかない。

 夜明け前に、スオウは帰ってきた。

 スオウにおぶさっていた老爺は不機嫌そうな顔でいたが、娘を見るなり医者になった。そこからは大忙しだった。

 嵐が過ぎて雪が止んだ。荒ら屋では赤子の泣き声が響いている。みんな疲れ切っていたのに、医者はあれこれと指示する。まったく人使いの荒い老爺だ。動きの遅いシオンを見て娘がくすくす笑っている。スオウも娘の夫も、みんな笑っていた。

 生まれた女の子はカンナという名前になった。

 名付け親はスオウだ。何度も固辞したのに、どうしてもスオウに付けてほしかったらしい。シオンはときどき、隣人宅を手伝いに行く。スオウと娘の夫はまた山に行った。娘が眠っているあいだに、シオンが子どもをあやす。カンナは大人しい子どもで、あたたかくて乳のにおいがした。

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