山麓の村①

「ありがとう。助かったよ」

 人好きのする笑顔を向けられて、シオンも微笑んだ。

 井戸から住屋まではそこそこに遠い。大きくなった腹を抱えて往復するのは難儀するだろうと、シオンは水汲みを手伝っただけだ。

 その娘とは一番近所で年も近かったため、すぐに仲良くなった。もっとも、逃亡生活をつづけてきたシオンは娘を警戒していたのだが、いつのまにかそんなことは忘れてしまった。

 今日も荒ら屋で二人は針仕事をする。

 嵐が来れば簡単に吹き飛んでしまうくらいの粗末な家だ。雪の重さに耐えきれずに潰れてしまう前に修復を繰り返す。男たちは狩りに行っているから女だけでやるしかない。大事に育ててきた畑は、本格的な冬がはじまる前に深く起こした。あとは遠い春を待つだけだ。

「あんた、手先は不器用なのに針仕事だけは上手だねえ」

 ころころ笑う娘はいつもお喋りだ。

「ねえ、誰に教わったの?」

「死んだ母に」

「そう。いいお母さんだね」

 こちらの身の上をあれこれ問うくせに、自分のことはあまり喋らない。たぶん、両親はもういないのだろう。娘の家族はめったに帰らない旦那と腹のなかの子どもだけだ。

 年はシオンよりも五つ、六つほど若いように見える。何年も着古した貫頭衣、あかぎれだらけの指、どちらもシオンとお揃いだ。

 隙間から入ってくる風に冷えたのか、娘はぶるっと身体を震わせた。薪は無駄に使えないので昼間は火を入れない。

「明日の朝には積もってそうだねえ」

 シオンは顔をあげる。三日前に狩りに行ったスオウもそろそろ戻ってくる頃だ。

「あんたの旦那と一緒だから、あたしは心配してないよ。あの人、狩りは下手っくそだもの」

 そう言って娘はまた笑う。雪がつづけば山には入れなくなるから、二人とも手ぶらでは帰れないのだ。

「狩猟は下手でも血抜きから捌くまでは上手いじゃないか。いつも助けられてる」

「お互いさまだよ」

 よいしょ、と。大きな腹を抱えながら娘は立ちあがる。顔だけ見ればまだ少女のようだ。実際の年はもっと若いのかもしれない。

 娘の細い背中を見送ったあと、シオンは隠してあった剣を取った。

 イスカの王城にいたときは、一日たりとも鍛錬を怠らなかった。逃亡生活をするうちにそんな暇はなくなってしまった。畑仕事の合間に炊事と洗濯を済ませる。山から男たちが帰ってからはもっと忙しい。長い長い冬に備えて獣肉を蓄えておく。雪が降れば今度は雪掻きに追われる。剣を振る時間なんて、どこにもない。

 こうやって、戦士ではなくなってしまうのだろうか。

 シオンは自身の拳を見つめる。重労働のおかげで筋肉は衰えていないだろう。だとしても、以前のように戦士として剣を持てるかどうか。その自信はない。

 もう何年もイスカの王城へは近づけていない。宰相のケイトウはシオンとスオウを野放しにしていないはずだが、こんな東の果てまでは見逃しているのだろうか。あれこれと考えているうちに湯が沸いた。シオンは鍋に山菜をぶち込んだ。

 夜になってスオウは帰ってきた。手ぶらだった。ぽかんとするシオンにスオウは気まずそうに笑った。ああ、なるほど。手柄はぜんぶあの夫婦にやったのだ。

「明日、また山に行く」

 シオンの作った不味い食事もスオウは平らげる。何年もこの生活をしているので、この味に馴れたのかもしれない。

「あの娘はどうするんだ? もうじき生まれるぞ」

 シオンはあの大きな腹を思い出す。いつ苦しみ出してもおかしくない腹だった。

「おばばが死んでから産婆が他にいなくなった。他の女たちに手伝ってもらうしかなくなる」

 言いながらもシオンは別の方法がないかと、スオウに問うている。山麓の村に来て、一番長く季節を見送った。とはいえ、いまさら密告者など現れないとは言えないのは、シオンたちがまだ逃亡をつづけているからだ。

「そうだな……」

 まただんまりを決め込むつもりか。シオンは歯噛みする。本物の夫婦のように口喧嘩とならないのは、早々にスオウが負けを認めるからだ。

「シオン、話がある」

「いましているだろうが」

「真面目にきいてくれ」

 空いた器を片付けようと、立ちあがりかけたシオンをスオウは制する。

「おれと、夫婦になってはくれないか?」

 もうなっている。シオンの唇は動かずとも、目顔でそれを読み取ったのだろう。スオウは苦笑した。

 意味はわかる。子どもの時分はとっくに過ぎてしまった。何年も仮初めの夫婦をつづけているくせに、二人は未だに同衾どうきんしていなかった。

 外では雪が降りはじめた。薪をもっと使わなければ朝までに凍え死んでしまう。

「私に女であれと言うのか?」

 以前、シュロにもおなじ声をした。

「それは、できない」

 シオンはスオウの目を見ずに言った。彼はもう諦めたのだろう。たった二人きりで獅子王の玉座は取り戻せない。それなら、貧しくとも宰相の目の届かないこの村で生きていく。そのうちシオンもあの娘のように大きな腹を抱える。

「カンナが、悲しむ」

 娘として、妻として、母として。生きる道がシオンにはあった。いつかそうなる日が来ることを、カンナは願っていた。一方で、シオンはカンナの最期の声を思い出す。

 取り戻せと、言う声がきこえる。

 シオンと末弟のエンジュを残して、兄たちは死んだ。獅子王の首は三日三晩城門に晒されたという。どれほど無念だったことか。それに、エンジュ。ケイトウは弟を王に仕立てあげるつもりなのだ。

 あの自尊心の塊の弟が大人しく宰相の言うことをきくとは思えない。なら、囚われの身にあるのだろうか。エンジュが無事でも、その妻や子はわからない。

 だから、戻らなければならない。シオンはスオウにそう訴える。十分すぎるくらい長い沈黙を終えて、スオウは唇を開いた。

「おれはあの日、嘘を吐いた」

「あの日?」

「ここは、おれの故郷なんかじゃないんだ」

 シオンはまじろぐ。あまりに遠い過去の話だった。

「おれはあの村の子だった。かあさんはおれを井戸に隠して死んだ。みんなの悲鳴も泣き声も、俺は井戸の底でずっときいていた。そうして、何もきこえなくなって、井戸の水が尽きて、おれは外へと出た。そこからの記憶はない。だからあのとき、お前が助けてくれなければ、おれは死んでいた」

 悔恨のようでいて、怨嗟えんさのようにもシオンにはきこえた。スオウは、宰相と獅子王の前で偽りの言葉をしたのだ。

「卑怯な男だ。おれは。……軽蔑したか?」

 シオンはただ、かぶりを振った。

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