指名①

「兄者はまだ帰ってこないのか?」

 エンジュはシオンのところに来ると、いつもそう言う。いちいち答えるのも面倒で、シオンは四つ下の弟を無視する。

 この春、シオンは側女のカンナから教わった針仕事をつづけている。

 三日と持つまいと、投げやりだったカンナはちゃんと教えてくれるようになった。エンジュは姉者がようやく女になったとはやし立てる。針に集中していると余計なことを考えずに済む。雑念が生まれた途端に痛い思いをしたシオンは、三度目となればさすがに懲りたのだ。

 スオウはまだ戻らない。

 座り通しだったので足が痺れた。気分転換も兼ねてシオンは部屋に出る。いつのまにかエンジュも帰ったらしい。

 在りし日の自分のようだと、思う。幼なじみのシュロに纏わり付くシオン。しっつこく粘っても、あれ以来シュロはシオンの相手をしてくれなかった。たぶん、それが正しかったのだ。

 当てもなく回廊を彷徨っているうちにそこへとたどり着いた。

 無意識だったので、シオンは苦笑する。あの欄干らんかんを飛び越えたシオンはまだ幼かったし、スオウもシオンよりずっとちいさかった。

 四年が過ぎた。シュロは年に一度しかイスカの王城に来なくなった。老いた父親に代わって西の部族を率いているし、妻女は二人いる。何人目かの子どもが娘だったらしく、嬉しそうに話すシュロの顔は父親だった。

 兄貴分として接していたシュロとスオウの関係は対等になった。

 字も読めなかった子どもは、新しい知識を貪欲に吸収した。背丈もあっというまにシオンを追い越して、いまはほとんどシュロと変わらない体軀たいくをしている。歳だってシュロとおなじだ。スオウを年下だとばかり思っていたシオンは、なんだか寂しくなった。

 成長したのはあの二人だけだと思うと、胸が苦しくてやりきれなくなる。

 背は伸びた。だが、筋肉の付き方は男のそれとまるでちがう。代わりにシオンの身体は丸みを帯びるようになり、ひと月ごとに股が血で汚れるようになった。

 いまのシオンは弟のエンジュにさえも敵わない。

 シオンが足を痛めたのは二年前だ。大人しくやさしい顔立ちをした少年が精悍せいかんな青年へと変わった。その前にシオンはスオウに挑んだものの、あっけなく倒された。手加減はなしだ。だからそのとき、シオンは思い知ってしまった。

 子どもでいられる時分じぶんは過ぎてしまった。

 スオウが本気でシオンの拳を受けてくれたのも、彼が正直なたちだったからだ。彼はシオンに怪我をさせてしまったと悔やんでいたが、これでよかったのだと思う。それ以来、カンナの小言も減った。

 足はもうすっかり良くなっていたのだが、男に混じって稽古をつづけるのは止めた。

 代わりに側女とすごく時間が長くなり、炊事や針などの女の仕事が増えるようになった。そのせいかカンナの機嫌はすこぶる良い。シオンはときどき、自分の心が死んでいるみたいに感じる。

 あくる日も、エンジュはおなじことを言いに来た。

 シオンは無言で追い返すつもりだったが、つづいての来客には驚かされた。

「なんだ、エンジュもここに居たのか」

 シュロが突然来るのはいまにはじまったことではない。幾何学きかがく模様の絨毯の上には、さっきまでシオンが触っていた裁縫道具が散らばっている。シュロはにやっとした。

「兄者が帰ってきたのか?」

 エンジュはシュロの声を待たずに出て行った。

「まったく、あいつはいつもこうだ」

「おまえがエンジュの相手をしないからだろう?」

「子どもの相手はしないんだよ」

 五番目の子どもの首がようやく据わったらしい。西では族長と務める傍らでちゃんと父親の仕事もしているのかもしれない。

「スオウは?」

「宰相に挨拶だ」

 ならば、そのまま獅子王にも会ってくるのだろう。シオンは肩で息を吐く。スオウがイスカの王城を離れて二年、そのあいだ一度も手紙のひとつを寄越さなかった男だ。シオンのことなど忘れている。

 シュロはシオンの隣に腰を下ろすと、辺りを見回した。

「カンナはどうした?」

「腰が痛むと言って奥の部屋で休んでいる」

「ひさしぶりにカンナの饅頭が食えると思ったんだがな」

 五人の子を持つ親のくせに、こうした子どもっぽい笑みもする。シオンも笑った。

「それで? カンナの代わりにお前が針仕事か? 足はもう治ったんだろう?」

「……まあな」

 シオンはそれとなく視線を逸らす。足ならとっくに治っている。鍛錬もつづけている。ただ、シュロに挑むつもりはない。それだけだ。

「で? 成果は得られたのか?」

「上々だ」

「だろうな。でなければ、スオウは戻って来ない」

 シュロはちょっと驚いたような表情をする。

「なんだ、拗ねていたのか。置いて行かれたことを根に持ってるとはな」

「そうじゃない」

 しりを蹴るかわりにシュロを睨みつけた。シュロはまだにやにやしている。

「おまえが勝手にスオウを連れて行ったんだ」

「濡れ衣だな。俺を誘ったのはスオウだ」

「どうだか」

 シオンは肩を竦める。毎年のようにイスカでは旱魃かんばつが起きる。獅子王と宰相、並びに他の重鎮たちは何日も軍議室に籠もる。だが、良き案など出てこない。特に被害の酷かった北の地区でさえも見捨ててしまった。

 シオンとスオウ、それにシュロは額を合わせた。

 備蓄の余力のある王城から支援物資を届ける。ただイスカのすべてを救うにはとても足りない。ならば北だけでもと、身を乗り出すシオンにシュロは嘆息してスオウは渋い顔をする。北だけを救ってどうなる? 他の奴らは納得するまい。たちまちに叛乱が起きる。短慮を咎められてシオンは歯噛みする。では、見捨てておくというのか?

 北に行く。シオンにそう告げたとき、スオウはもう旅支度を調えていた。

 獅子王と宰相が動かないのであれば、若い自分たちが行動を起こす。援助が不可能ならば、己の手を使っていちから畑を作れば良い。それこそ、浅はかな考えだとシオンは反対したものの、スオウはただ微笑むだけだった。

 スオウとシュロは無二の友だ。そうしてスオウはシュロを連れて北に旅立ってしまった。もっとも、シュロはときどきスオウを置いて西へと戻り、イスカの王城にも来ていたのだが。

「エンジュはどうだ?」

 シオンは視線をシュロへと戻す。子どもの相手をちゃんとするスオウとちがって、エンジュはシュロに懐いていなかった。それでも、一応は気に掛けてくれているらしい。

「ケイトウが見てる」

「へえ……?」

 含み笑いするシュロをシオンは睨む。座学の時間が嫌で逃げていたシオンと、それすら強さに繋がるのならとケイトウに師事するエンジュ。たぶん、いまのシオンでは四つ下の弟にも勝てない。

「宰相が子ども好きだったとは意外だな」

「エンジュの目標はスオウだけだ。宰相は、スオウに一目置いているから」

「なるほどね」

 そろそろ獅子王への挨拶も終わった頃だろう。無駄話も終わりだとばかりに、シュロはやおら立ちあがる。

「知っているか? スオウは北で大層人気だった」

 眉を寄せるシオンにシュロはつづける。

「言い寄ってくる娘が何人いたことか。だのに、あいつは嫁を取らなかった。娘と一緒に土地をやると言われてもだ。……どうしてだと思う?」

「知るか」

 スオウもシュロのように、子の一人くらいいてもいい歳だ。そしてシオンもおなじようだった。ただし、こちらは貰い手がいなかったのだが。

「惚れた女でもいるんじゃないかね」

 シュロはシオンの肩をたたきながら部屋を出て行く。シオンには思い当たりがなかった。

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