第四章 過去は海の向こう
第16話
店を出てすぐに辻馬車を掴まえられたのは幸運だった。
歩いて帰ることも考えていたのだが、ラッシュベリーティーハウスで話に興じているうちに、天気はすっかり悪くなっていた。空には厚い雲が立ち込め、店を出たときには既に、小雨がパラパラと降り出していた。
ふたりに私掠船のことを教えるべきだったかもしれない。揺れる二頭立ての馬車の中で、ボクは小さな後悔をする。
海難保険と造船株の仲買人のふたりには、よい情報になったかもしれないのだが、会話が弾んでいたことで切り出すきっかけを見いだせずにいるうちに、解散となってしまったのだ。
今日は自分にとって興味深い情報を幾つか仕入れることができた。ならば、こちらもドラングとのいざこざ以外にも、有意義な情報を提供するべきだった。求めるなら、まずこちらから先に与えるべきだ。
他人の利益となる情報を与える者には、やがて情報が巡って帰ってくるのである。個人で動くボクらのような仕事にとって、仲間とのつながりを大切にすることは貴重な財産だった。
小窓から外を覗くと、もう見知った街並みへと変わっていた。
だがティーハウスからの短い道程の間に、雨はすっかり本降りとなり、馬車の屋根を叩いていた。気温もぐっと下がり、開けた小窓から流れ込む冷気に、思わずジャケットを合わせ両腕を抱いた。
やがて馬車は止まり、御者が扉を開けて開いた傘を差し出す。すっかり後頭部が禿げ上がった御者に少しチップを弾むと、彼は何度も頭を下げた。
雨の中を去っていく馬車を見送った後、ふと傘をあげると、事務所兼住居の軒下に雨を避ける白い人影がある。
ボクは眼を見開く。向こうもこちらに気がついて顔をあげた。
「どうしてここに?」
駆けた。十歩ほどのほんの僅かな距離だったが、傘を逸れた雨が降りかかるのも関わらず、走って軒下に飛び込んだ。
「リルケットさん」
ボクが飛び込むと同時に、軒下とはいえ少し雨に濡れたアルフィアが頭を軽く下げた。
「昨日のこと、謝ろうと思い待っていました」
思いもかけぬ言葉をアルフィアは発した。
初春のこの天気の元でいったい何時間待ちづけていたのだろう。いつもの勝ち気で凜とした様子はなく、唇は真っ青だった。
「な、なぜに。いや、今はとにかく。鍵を開けるから、中に入って。このままでは風邪をひいてしまいます」
急いでポケットから鍵を取り出すと、扉を開けてアルフィアを中へ誘う。
力なく佇むアルフィアを強引にソファーに座らせると、応接室の暖炉とキッチンストーブに火をつけ、ケトルをかける。ケトルのお湯が沸騰する間に、裏口から近所のクラヌス夫人の家に行きミルクを少し分けてもらうと、熱いミルクティーをふたり分、淹れた。
その間もアルフィアは元気なく黙ってソファーに座っている。風邪をひくのではないかという心配もさることながら、しおれた姿の方も気がかりだ。
「飲んで身体を温めてください」
そう促すと、なにも言わずアルフィアはカップを口に運んだ。
併せるようにボクも一口、ミルクティーをすする。
その後、ボクはすぐにカップをテーブルのソーサーの上に戻したが、アルフィアはそのまま両手でカップを持ったままだった。
しばらく静かな時間だけが流れ、ボクがもう一度、カップを手にしたとき、じっと黙っていたアルフィアがようやく表情をゆるめた。
「あの後、フルッツに怒られました」
そう言ってようやくボクの方に視線を向ける。
「リルケットさんもお仕事なのだと。ドラングと握手を交わしたのは別に裏切った訳ではないと。フルッツが私に対してあんなに厳しい物言いをしたのは初めてです」
「でもあれはボクが軽率でした。ボクの方はバーモンダルさんに注意されました。本当はボクの方から謝りに行こうと思っていたところだったのです」
「いいえ。フルッツが言ったことは、私も理屈として頭のなかではわかってはいたのです。ただよほど感情的になっていたのでしょう。申し訳ありません」
だからこそ、ボクの方も気持ちを察しなければならなかったのだ。気持ちがゆるんでいたのと、それこそアルフィアたちに甘えていたのだろう。
だがそれを今、ここで言っても謝罪合戦になりかねず、黙って肯き、アルフィアの言葉を受け取った。
なによりボク自身の気持ちが天気とは逆に晴れ間を覗かせていた。
「それから――」
さらにアルフィアは言いにくそうに言葉を続ける。
「あのようなことを口走っておきながらと思われるでしょうが、よろしければまたリルケットさんにご協力をお願いしたいのです」
言い終わるとじっとボクを見詰めた。
身体が温まったからなのか、それとも懸念していたものが解決したからなのか、その顔はいつもの凜とした表情を見せ始めていた。
「もちろんです」
ボクは立ち上がる。
本来ならば女性に対してはこちらから握手を求めるべきではなく、向こうから手を差し出されたときだけ返すのがマナーである。実際、最初に会ったときはアルフィアから握手を求めてきた。
だが、今回は敢えてボクの方から手を差し出した。そうするべきだと思ったのだ。
そんな礼儀などアルフィアは特に気にもしないようで、一昨日と同じように小さな手で、しっかりと握り替えしてきたのだった。
「ひとつお聴きしたいことがあります」
食事の手を休めてアルフィアが訊ねた。
テーブルの上にはクラヌス夫人が焼いたミートパイが二皿、置かれている。ミルクを分けてもらいに行ったとき、急いで戻り詳しい事情を説明しなかったことで心配したのか、後で夫人がマニシュと一緒にやってきて、差し入れてくれたものだった。いつもならそこでしばらく立ち話でもするところなのだが、今日は普段と様子が違うことを察してくれたようで、ふたりともなにも言わずにすぐに戻っていった。
アルフィアはお昼を食べずにこちらに来たと言うし、ボクもティーハウスに寄る前にフィッシュアンドチップスを囓っただけだったから、この心遣いはとてもありがたかった。
ミルクティーとミートパイが効き目があったのか。すでにアルフィアの様子も普段通りに戻って、いつしか会話に花が咲いていた。
「なんでしょうか」
「少々、意地の悪い質問になりますが、ドラングの保険、本当に扱うつもりですか?」
パイを口に運んでいた手が止まる。
質問の意図がわからなかった。
ひとまずフォークを皿に戻して、どう答えたものかと言いよどんでいると、アルフィアが微笑んだ。
「いえ、別に責めようというわけではありません。商売に関わる人間として、単に興味があるのです。それにリルケットさんがパッセル・ドラングという男をどう見ているのかも気になりますし」
「そうですね、その質問だけなら答えは単純にノーです。ただ――」
「ただ?」
「最初は扱ってもいいかと思っていました」
軽く頭を下げると、アルフィアはいいんですよと制した。
「止められたのです」
そこで昼に訪れたラッシュベリーティーハウスでの出来事を話す。アルフィアは興味深そうに聞いていたが、ボルクウェンがドランク・アンド・マーゴルシュの保険を扱うのを止めようと決断した話しでは特に関心を示した。
「リスクですか」
そう言って何度も感心するかのように頭を振った。
「面白いですね」
アルフィアにとっては、ボクのような個人財形相談やボルクウェンのような保険仲買人の仕事というのは、自分とは異なる商売の世界なのだろう。逆にボクにも、その辺りの考え方の違いを理解しようとしているアルフィアの姿が面白い。
「それで目が覚めたんです。それに、ボクはああいう手合いは元々、好きじゃないんです」
「嫌いなんですね」
「そもそも国際的に大きく商売を行う商人が好きじゃないんです。今だから言えますが、本当はアルフィアさんがこちらを訪ねてきたときも、分野違いもさることながら、ブラングリュード商会の規模を知って、それだけでお断りしようと思ったのです」
少し興が乗ってしゃべりすぎたかもしれない。
しまったと思ってアルフィアの顔色を窺ったが、特に気にした様子もなく、むしろ向こうから訊ねてきた。
「何か深いわけがおありのようですが、それは以前、リンハラで暮らしていたときのことが原因ですか?」
ボクはゆっくり縦に首を振る。アルフィアはかなり洞察に優れているようだ。
「そうです」
「リルケットさんは私には窺い知ることができないことをたくさん体験されているようで、あなたがリンハラで何を見聞きしてきたのか、とても興味深いですね」
「でも、楽しい話しではないんですよ」
それどころか、思い出すのも避けている記憶だ。
夢に見ればいつも悪夢。できることなら、そっとしていて欲しい思い出だった。
「もちろん構いません」
だが、きっぱりと断定してくるアルフィアの口調に流されてしまい、ボクは記憶を探るように言葉を続けた。
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