023

 あれから平坂は自分でも調べてみたが、大江の言うとおり、饗庭からわたされていた錠剤は胃腸薬ではなく、免疫抑制剤シクロスポリンZだった。

 平坂は饗庭の研究室に出向いて、彼に直接その事実を突きつけた。

「いったいどうしてですか? なぜアタシにウソを?」

 饗庭は悪びれた様子もなく、「ああ、とうとうバレてしまったか……。いや、私は反対したのだがね。当人にはチャント伝えたほうがいいと。しかし黄泉君や上の連中が、絶対に真実を教えてはならんと、隠せというのだからしかたがない」

「上の連中?」

「アステリオス製薬の重役連中さ。社のメンツを守るため、禁忌の研究に許可を出した者たち。もっとも、正しくは殺人鬼逮捕の強力な助っ人となる人材をよみがえらせるという口実で、私の研究に許可を出すようゴリ押しした――というところだが」

「禁忌の研究って、アタシを目覚めさせるコトが?」

「私の理想を理解できない者からすれば、禁忌らしい。不謹慎を承知で言えば、私は〈人形つかい〉に感謝さえしている。ヤツが事件を起こさなければ、私の〈プロジェクト・ガネーシャ〉が日の目を見るコトはなかっただろう」

 そういえば、最初のとき饗庭がそんな話をしようとしていたのを思い出した。あのときは黄泉にさえぎられて、結局そのまま忘れてしまったが。

「いったい何なの? その〈プロジェクト・ガネーシャ〉とかいうのは」

「〈プロジェクト・ガネーシャ〉の最終目的は、精神サイコの実在を証明するコトだ。それは君という成功例によって果たされたのは、すでに承知しているだろう。脳を、いや脳にかぎらず全身の組織を丸ごと新しいパーツと総入れ替えしたうえで、君は君のままだったのだから。テセウスの船が、間違いなくテセウスの船であるように」

 そこまでは理解できる。だからこそ平坂という脳不全患者を実験台にし、脳をふくめて培養したクローン臓器を移植した。そう信じていた。

「だけど、おかしいわ。もしアタシ自身のDNAからクローニングした臓器を使っているんだったら、免疫抑制剤なんてシロモノに頼る必要はないハズでしょ?」

「そうだ。もともとは君に話していたとおり、脳不全患者の回復にはクローン培養した脳を使おうとしていた。……しかし、その試みは上手くいかなかったのだ。大脳、小脳、脳幹、間脳、中脳、延髄、橋、下垂体、視床、視床下部、扁桃体、海馬――パーツごとの培養は、だいぶ以前から技術的に可能だった。だが、それらを組み立てて頭蓋のなかへ納めても、脳死した人間が目覚めるコトはなかった。何度試してみても、人工的に造った脳は機能してくれなくてね」

 話がイッキにキナ臭くなってきた。クローン脳の培養は実質不可能。となると、今、彼女の頭蓋に納められている脳は――

「しかたなく、私は考えかたを変えた。そもそも、もとの脳そのものを再生できるワケではないのだ。遺伝子的に同一で拒絶反応の心配がないという以外、クローン脳に意味はない。――ああ、それと未使用という利点もあるか。そう、本当に利点はたったそれだけなのだ。精神サイコが実在するのなら、脳は単に肉体の機能維持としての役割しか持たない。だが当初の私は、遺伝子的に本人の脳であるほうが、精神サイコがなじみやすいのではないかと考えていた。勝手にそう思い込んでしまっていた。そんな前提はどこにも存在しないというのにな。科学者たるもの、あらゆるものを疑ってかかり、実証された事柄のみを信じるべきだろう。みずからの誤謬に気づくコトができ、〈プロジェクト・ガネーシャ〉はいよいよ実現のときを迎えたのだ」

「……じゃア、やっぱりアタシに使用したのは、他人の脳ってワケね。いったい誰を殺したの? 答えなさい」

 何も知らなかったとはいえ、誰かを犠牲にして助かっておきながら、今さら正義ぶったところで、偽善にすぎないのかもしれない。

 けれども平坂は刑事として、いや探偵として、殺人犯が野放しにされている事実を看過できない。大江のコトで決断できていないくせに、偉そうに言えた立場ではないが、今は見逃してほしい。

 饗庭は苦笑して、「君は何かカンチガイをしているのではないかね?」

「カンチガイ、ですって? どの口がほざくの? この期に及んでごまかせると思ったら、大間違いなんだから」

「私が君の頭蓋に他人の脳を入れたと思っているようだが、それは誤解だ」

「違うっていうの?」

「アタリマエだ!」意外なほど激高した饗庭に、平坂は気圧される。「まさかそんな、非人道的なマネをするワケがないだろう! おお、口にするのもおぞましい! ……私は断じて、悪のマッドサイエンティストなどではないよ。人並みに善良な人間のつもりだ。〈プロジェクト・ガネーシャ〉とて、精神サイコの実在を証明するのはむろん自分自身の悲願だが、その成果が人助けの役に立てばいいと思っている。嘘ではない。恩着せがましいと思うだろうが、事実として君のコトも助けたじゃアないか」

「それは、まァ……その、ごめんなさい……」何だか申し訳なくなって、つい謝ってしまった。おかしなハナシだ。ここには彼を厳しく糾弾しに来たハズなのに。

 だがその真摯な言葉に、そのゆるがぬ瞳に、いっさいの偽りはないと、平坂は確信した。刑事のカンだ。

 しかし、だとすれば、なおさらワケがわからなくなってしまった。クローン脳も、ほかの人間の脳も使っていないのなら、いったいこの頭蓋に納まる脳は、どこからやって来たというのか。

「謝る必要はない。私が真実をひた隠していたのが悪いのだ。上の連中の反対を押し切ってでも、君に伝えるべきだったのだ。それは今からでも遅くないと信じている」

「だったら、もったいぶってないで、いいかげんアタシに教えてよ。その真実ってヤツをさ」

「いいだろう。しかしそれにはまず、必要な予備知識について説明しておこう。君は収斂進化を知っているかね?」

「ううん。知らないわ」

「端的に言うと、まったく別種の生物が似たような器官・外見を獲得するコトだ。例えばモモンガとフクロモモンガはうりふたつの姿で、まったく同じように木と木のあいだを滑空するのだが、それぞれ真獣類と有袋類で、まったく別の種だ。これはつまり、木と木のあいだを移動するという同じ目的のために、両者が同じ手段を選んだため、結果として似通ってしまったというワケだ。目的に対する手段は無数に存在するかもしれないが、効率的にという条件が加われば、おのずと絞られてしまうものなのだよ。ここまではいいかね?」

「ええ。ようするにアレでしょ? 宇宙人の姿を想像するとき、地球人と同じ二足歩行にしちゃうのも、同じ理屈よね。なぜなら知的生命体として進化するためには、脳が大きくなる必要があるけれど、その重さを支えるためには、どうしても二足歩行じゃないと難しいから」

「すばらしい。やはり君は賢い女性だ。そこまで理解が早いなら、さほど気をつかう必要はないな。さて、人類がほかのサルどもと違い、万物の霊長として進化できたのは、二足歩行をはじめたからだ。なぜ二足歩行を手に入れられたのかは、今この場では関係ないので割愛させてもらう。君も言ったように、二足歩行でなければ大きな脳を支えられない。二足歩行を手に入れたからこそヒトの先祖にあたるサルは、脳を肥大化させる余裕を持てたのだ。この順序は逆ではありえず、脳が大きくなったから二足歩行せざるをえなくなったワケではない。言い換えれば、サルが二足歩行をおこなえば、ヒトへ進化できるとも言えるだろう。――ところで、サルの芸を見たコトは?」

「小学校の修学旅行のとき日光で」

「見たコトがあるのなら実感していると思うが、サルは明らかに人語を理解できている。特に類人猿のばあいは。にもかかわらず、なぜサルがしゃべれないのかというと、声帯が発音できる構造ではないからだ。たったそれだけの違いにすぎないのだよ。ヒトとサルの差など」

「ナルホドね、だったら――」もし、と続けようとして、平坂は絶句した。

 ひと足先に、悟ってしまった。饗庭が語ろうとしていた〈プロジェクト・ガネーシャ〉の真実を。なぜテセウスの船ではなく、あえてガネーシャの名を冠しているのかを。

 予感が当たっていてほしくない。実際聞いてしまえば、それが確定してしまうような気がして。

 けれども、無表情な肉付き面の下に隠れた、平坂の気持ちを察するコトなく、饗庭は容赦なく核心に触れる。

「もしサルにヒトのカラダを与えたとしたら、何の支障もなくヒトとしてふるまうコトができるのではないか? 私はそう仮説を立て、検証した」

「チョット待っ――」

「ゆえに平坂らいかう、今現在、君の頭蓋に納まり、君のカラダを動かしているのは――オランウータンの脳髄だ」

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