書き下ろしSS「本当のいいわけ」



 必要な資料を求めて、積み上げた本に手を伸ばした。

 はずだったのに。


「お前は、何度呼ばれりゃ気がつくんだよ」


 うんざりした声が、リディの頭上に降り注ぐ。手の甲には、ほのかにあたたかい乾いた感触。

 リディのものより幅の広い、ごつごつした大きな手。

 椅子に腰掛けたままリディが振り返ると、アルヴァンが獣の耳を下げながら窓をついと顎で指し示していた。


 アルヴァンの城――書斎にしている三階半のバルコニーから見える空は、夕日の朱を夜の紺が今にも呑みこもうとしている。ちらほらと、星の瞬きさえ覗いていた。

 解読を始めた昼前には窓から十分な明かりが差していたのに、今では机いっぱいに溢れかえった事典や羊皮紙にも影が差している。

 外の様子とは反対に、階下からはがちゃがちゃと食器を運ぶ忙しない音が聞こえた。


 ブランに言われて、夕食に呼びに来たのだろう。リディはアルヴァンに聞こえるかどうかの小さな声で、「ありがとう」と答えながら手を引く。

 けれど、アルヴァンの指にさらに力がこもっただけだった。


「離して。私は、少し資料を片づけてから――」

「駄目だ。お前には前科があるからな。どうせ、また続きに戻るつもりなんだろうが」


 リディは微かに頬を赤らめながらも、眉根を寄せた。

 確かに、今までも「すぐに行く」と言った後、再び本の世界に舞い戻ってしまったことは何度かある。

 リディは手を振りほどいて立ち上がると、これ見よがしに目の前の本を閉じた。


「今日はすぐに行くわ」

「どうだかな。ったく、どれだけ早く魔法が解きてえんだ」

「私は最初から、〈一刻も早く〉と言っているつもりだけど」

「そんなに俺とキスするのが嫌なのかよ」

「あっ……当たり前でしょう!?」

「勉強熱心だな、〈賢者〉様は」


 いつもの嘲笑にむっとした表情を浮かべながら、また別の本を山に積み上げる。


 ――呼吸するように魔法が使えるアルヴァンには、わからないわよ。


 魔法理論の勉強を始めたのは、魔法が使えるようになるのではないかという淡い期待からだった。けれど、その期待が打ち砕かれてもリディは勉強を止めなかった。


 ライオールの王宮で生き残るには、魔法に関することで役に立つしかない。

 そうでなければ、狡猾な貴族たちの思惑に巻き込まれて、ただの政治の道具にされ潰されてしまう。

 だから来る日も来る日も、必死で勉強したのだ――今と同じように。


 ――いいえ、違うわね。


 机の端に除けていた本を拾い上げる。教科書のようなヴィロンの子ども向けの入門書。

 きっと誰かが使い古したものが巡ってきたのだろう。表紙はかすれ、本文には拙い文字で時に熱心に、時に楽しそうに書き込みがされていた。

 薄くなった表紙の文字を、ゆっくりと指でなぞる。


 ――最初は生き残るために、必死に……でも、今は。


 それだけじゃない。

 かたん、と風で窓が小さく鳴る。

 自分でも不思議なほど、ためらいなく言葉が出た。


「……だから」

「あ?」

「好き、だからよ」


 新しいことを知るのが、学ぶのが。

 リディは築き上げた山に、丁寧にその入門書を積み上げる。

 片づけを終えて振り返ると、窓からの夕日が長い影を差していた。

てっきり、アルヴァンは笑うだろうと思った。いつものように意地悪く。

 けれど、その唇は微かに開いているだけ。目を見開いたまま、耳も尾もぴくりともしなかった。


 ――私、なんだかものすごく恥ずかしいことを口走っ……た……!?


「もう下りないとっ……」


 リディは、知らず浮かべていた穏やかな笑みを掻き消す。顔を隠そうとした手を掴まれて、体ごとぐいと引き寄せられた。

 見上げるとすぐそこに、紺青色の瞳があった。

 どこか苦しそうに細めた目は、微かに赤みがかっている。


 ――夕日……?


 そう悠長に思う間にも唇が近づく。

 何をする気かは、説明されるまでもない。


「!?」


 リディは息を呑みながら、後ろに倒れんばかりの勢いで身を引いた。


「今日はもう、朝にキ……したでしょう! 何を考えて――」

「お前が馬鹿みたいに呆けた顔してるからだろ」


 ――それは、人にキスする理由にはならないわよ……!


 怒気のこもったリディの視線を受けながら、アルヴァンはやっと――いつものように意地悪く笑った。


「リディ様、アルヴァン様。もう先に食べちゃいますよー」

「っ、今行くわ!」


 階下から響いてきたブランの言葉に、リディは上ずった声で返事をする。柔らかな髪を振り乱して、アルヴァンより先にバルコニーを出た。


 危なかった。一瞬、反応が遅れていたら。

 ――遅れて……いたら!?


 背後から靴音が聞こえて、リディはいつの間にか止めていた足を速めて階段を駆け下りる。動悸で苦しい胸を怒りのせいだと思いながら、触れ合わなかった唇をそっと指で拭った。

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ケダモノと王女の不本意なキス 松村亜紀/ビーズログ文庫 @bslog

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