彼女の問題 1




 百年近く生きてきて、自分の無力さも何度か感じてきた。


 百年近く生きてきて、様々な恐怖も何度か感じてきた。


 しかし、これら二つが同時に襲い掛かって来ることは片手で数える程度にしか無かった。





 ――――だから片手で数える程度だったそれが、今日、まさか更新されるとは思ってもみなかった。














 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――















『…コンニ……チハ……わ?……なんだこれ…"は"を"わ"って読むのか?………――――』

 溜め息を一つ、パタンと音を鳴らし、本を閉じる。表紙のタイトルは『人間語 日本語編【初級】』―――――つい先日、宅配便で届いたものだった。



『―――意外と厄介だな』

 椅子にもたれ掛かりながら、少し回転させてソファを見る。彼女は、そこに居た。段々と、そこに居ることが当たり前になってきた。今日の本は、今までと違い、私の趣味が反映された"漫画"雑誌だ。文字は分からなくとも、絵のニュアンスで読めるだろうと踏んで引っ張り出してきた。少々埃っぽかったので、休日中に日干ししてから渡してやった。

 彼女も私も、もう寝る用意は出来ている。床に就くまでの経過は、彼女自身の判断に任せているので問題ない。今でさえ監視付きという窮屈な生活だと言うのに、さらに就寝時間までも強制してしまうのは可哀想だ。


『……』

 再度、流し読みの感覚で本を開き――――閉じてしまった。ニュアンス自体は似ているとはいえ、言語の習得は困難な作業だった。…初級とされているこの本にすら、手間取っている始末だ。

 それとも、あまり自分に学が無いせいだろうか。もしかすると、他の人外ならすらすらと覚えられるのかもしれない。……しかし、誰かに見せるのも気が引ける。差別意識が薄れてきているとはいえ、他の人外にこんな本を見せれば、訝し気な反応を返されるに決まっている。何故に他種族の言語を覚える必要があるのかと聞かれて、ただ人間とコミュニケーションを取りたいからだ、とは流石に言えない。特に蝋燭の友人には、この間関わり過ぎるなと念押しされたばかりだ。







 ―――余計なことは一旦忘れようと、休憩代わりに今日の日記に移る。間違っても"逃避"ではない。休憩だ。



 日付を記入し、簡単に今日あったことを綴り始める。…と、書き始めたばかりだったが、ふと思うことがあり最初のページを見直してみた。

 最初期のページ…そこに綴られているのは、彼女がここへやってきた日の記録だ。見返してみると、随分と味気ない文に感じる。次の日記も次の次の日記も、まるで会社の報告書のようだ。

 それに比べ、先日の日記は私の感情や彼女の感情が付け足されており、味気がある…とまでは行かないが、薄味程度の価値は有りそうだった。時間が経つにつれ、こういった箇所にも慣れが出てきたのだろう。


『…これで、三か月か』


 初日と今日の日付を見直せば、日記から約三か月が経過したことを教えられた。最近、今までより時が経つのを早く感じる。


 ……改めて考えると、よく毎日こうも飽きもせず、書き続けられるものだと自分に感心する。ノートも、後が無くなって来た。

(足りなくなる前に、買ってくるか)

 明日の帰りにでも買いに行こうと思い、今日の分を書き綴って行く。このペンも、段々と掠れてきていた。


















 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――













 ――――妙な寝苦しさを覚え、深夜、不意に目が覚めた。




『…――……?…』



 完全に眠っていたと思うのだが、何故か、どこからか酷い苦し気な声が聞こえてきた気がしたのだ。…意識が覚醒するのに十分なほど、辛そうな声だった。だからこうして目を覚ました。

『…なんだ?』

 元々眠りがそこまで深くないせいか、瞼が開いてからの行動は早かった。素早く起き上がり、声の方向を探す。今日は月が見えているせいか、部屋はあまり暗くない。―――御蔭で、場所の特定は難しくなかった。



「…っ……――…」



 私から少し離れた場所、私の隣のベッドから、声は聞こえていた。この家の生物で、私以外の音源。そんなもの、一つしかないだろう。

 監視対象である、彼女の声だ。


「……――」

 布団を放り出し、繭のように縮こまる彼女から声は聞こえる。伝わって来る音は―――はっきりしておらず、声と言うより呻きに近いものだった。息も荒く、辛そうだ。




 数秒様子を見ていたが、苦し気な声は止みそうにない。

(…どうする…起こすか…?)

 葛藤しながらもベッドから足を下ろす途中――――そこで、声は止まってしまった。

(起きたか)

 目を覚ましたのか、と彼女に近づくが、聞こえて来たのは静かな寝息だけだった。何事も無かったかのように、穏やかで静かな寝息だ。


 逆に不気味に感じるくらい、何も無かったかのように眠っていた。

『………』

 落ちた布団を掛け直し、自分のベッドに潜り込む。…それから少しの間、様子見を続けていたものの、いい加減眠気が強くなってきたので同様に床に就く。念の為に、身体は以前彼女へと向けたまま眠るつもりだ。

(いつからだったか……)

 彼女の"コレ"についてだが実は――――初めて見るものでは無かった。…初めてでは無いと言っても、知ったのは最近だ。彼女は夜、睡眠途中にうなされていることがあるのだ。最後に聞いたのは数日前。言葉のニュアンスからして、何かを恐れているような、苦痛のようなものだったと記憶している。他に覚えていることと言えば、昼寝などの際、"コレ"に襲われることは無いということくらいか。





 このように私も、そこまでの理解を持てていない。最初は私にこうして監視されているせい、つまりストレスが原因かと思ったが、その線は薄そうだ。本心は伺い知れないが、私に意思表示をする時は至って普通だったように記憶している。加えて、もう三か月近くが経過するのだ。初期ならいざ知らず、そろそろ環境に慣れて来た頃合いだろう。…本心は、伺い知れないが。


(……彼女は、夢を見ているのか?)

 脳内の議題を変え、別の疑問に意識を集中させる。夢は夢でも、夜中にうなされるということは"悪夢"だろうか。…そうだとすれば、多少の不安がある。

 人外は「夢は夢」と割り切りのいい者が多いが、中には夢は何かしらの暗喩だと考える者もいる。近い未来、不快な出来事に遭遇するとか、そういう類のものだ。


『……』


 私はどちらかと言えば割り切りの良いタイプだが、仮にこれが何かの暗喩だったとすれば―――こう考えると、どこか不安に思う。良くないことが起きるから気を付けろ、と忠告されている気分になって、不安が増す。

『…寝るか』

 今考えても埒が明かないことを悟り、今日は寝ることに決めた。電子時計をみれば、もう日を跨いでいる。

(そもそも根拠が無いだろうに)

 所詮、確証も無いウワサのようなものだ。考えるだけ、無駄だ。そう言い聞かせてしまえば、全て終わりだ。




 布団を頭から被り、瞼を閉じる。明日も仕事だ。






















「…――……―――……――…」

『……――全く…』


 念の為、念のため再び起き上がり、彼女の呼吸を確認してから――――


『………寝るか』

 今度こそ、床に就いた。
















 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――













 彼女との生活が慣れて来たせいで忘れ掛けていたが、彼女は無理矢理人間側から採取されてきたタイプだったことを、今更になって思い出した。

 私は彼女がココにやって来るまでの経緯を知っている訳では無いが、無理強いされて連れ来られたことは、ほぼ確定と言える。―――細胞実験のテストに使われるということは、そういうことだろう。人間は人外と構造が似ているせいもあってか、実験には便利な道具と認識している者も少なくない。





 …そこで、だ。実験されていたということは、言い方を変えれば研究されていたということ。研究されていたのなら、何かしら資料があっても可笑しくない。寧ろ研究資料を作らないで実験を行うなんて話、ヤブでも無い限り聞いたことが無い。

 しかし研究資料なんて物、私には手に入れることが出来ない。私は研究者でも何でも無いのだ。ツテも――――無くは無いが、あまり使いたくは無い。


『―――あの、部長』

「ん、ああ、どうした?」


 そういう訳で、昼休みの時間を利用し、上司のデスクへと私は向かった。研究資料を手に入れたいのなら、この上司に頼み込むのが一番と言える。理由は簡単、彼が私と彼女を引き合わせた元凶だからだ。








 ――――要件を話したところ、何となく顔が曇った気がした。僅かながら、しかし確かな不快の色が見える。

「…あー…あの人間の資料……まぁ、一応持ってはいるよ」

 元々は俺の役目だし、と首筋を摩りながら上司が言う。面倒そうな顔と声をしてるのは言うまでもない。とはいえ、私より何百歳か上の筈だから"差別意識"があっても可笑しくは無い。古参の人外にはよく見られる傾向だ。

 人間とのいざこざがまだ根付いているのを実感させられる――――彼女と過ごす前の私なら、気にも留めなかっただろうが。



 慎重に、言葉を選ぶ。

『でしたら、少しの間だけ拝借できませんか』

「…あの人間に何かあったのか?」

 予め予想していた質問だ。何も聞かずに「はい」と渡してくれるような人外、見たことも聞いたことも無い。


 すぐさま口を開く。

『実は数点、"あの人間"について気になることがあって。…大したことでは無いんですが、ついでに境遇なども知れた方がこれから先、"楽"に過ごせそうですし』

 出来るだけ会話のテンポを速めに、次の質問をさせないように気を付ける。あまり長時間話していると、自分を"取り繕って"いられなくなりそうだ。

 このタイプと話す際、特に人間絡みの際は、人間を中心とした考えを抱いていること、これを悟られてはいけない。そうしなければ、彼女との関係性を妙な方向で勘ぐられるかもしれない。…そういう状況は、嘘の苦手な私では分が悪いのだ。だから"取り繕って"いられない。







『――――で…どう、でしょう。少しだけ拝借できますか』

 勢いに任せて説得を押し切った。心臓が高鳴っていることに気付いた。

 上司の目には、最初から最後まで疑問の光があった―――渋々といった様子だった――――が、頷いては貰えた。

「…俺としても、異常があると困るからな……面目立たないし、立場的にも…渡すべきだよな…」

『……?』


 妙な引っ掛かりを覚えた。視線が安定しておらず、その言葉自体、私に向けていて私に向けられたものではないような……そんな印象を目と声から感じた。



「じゃあ、帰りまでにまとめておくから。帰宅の時、デスクに来て」

『……』

「…どうした」

『……はい…すみません、ありがとうございます』

 一瞬、上の空だった自分を呼び戻し、頭を下げる。

 機嫌を損ねたかと表情を盗み見るが、既に彼の目は私を見ていなかった。

「…ん」

 返答も短く、足早にどこかへ去っていく。休憩時間はまだ残っているので、自販機にでも行くのだろうか。禁煙中という話を聞いていたので、喫煙室には行かないだろう。





 その姿を見送ってから、私もその場を去り、足早に廊下へ向かう。先程の発言が少し引っ掛かっていたが、別に気にするほどでもないと私も区切りをつけた。これから午後の分の仕事が始まる。余計なことを考えては、身が入らない。

(…全然禁煙できそうにないな)

 彼女の為に止めようと思っていた禁煙は、もう何度も三日坊主で終わっていた。そろそろ本気で始めるべきと言い聞かせて、何日経ったか。…ただし、今回ばかりは、散らかった脳内を片付ける為にも一服の必要があるだろう――――誰に向けるでもない言い訳をして、喫煙室への道を歩き始めた。











 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――











「個体情報は貰っていないから、俺が渡せるのはこの研究資料だけだから」

 差し出された青のファイルを頭を下げながら両手で受け取った。

 感謝を強調するべく、もう一度頭を下げる。

『ありがとうございます。出来るだけ、早めに返却します』

 仕事中、何故今の今までこの資料を渡してくれなかったかを考えたが、簡単に何か理由があったからだという結論で私は済ませた。

 彼女を私に預けた初日からずっと持っていたのだ。それには何か理由があったのだと私は踏んだ。だから帰宅後、重要点を急ぎ写すつもりだった。…予想がもし合っているのなら、いつ返せと言われても可笑しくない。







「…あー……いや、いい」

 ―――歯切れ悪くも彼がそう言ったのを聞き、一瞬上の空になった。



『………?』

 自然と眉が潜んだのを感じた。


「…いや、持ってていいから。ほら」

 ぐいっ、と胸へ押し付けられ、肩を叩かれた。

「監視が完全に終わるまで、返さなくていいから。だから、持っとけ」

『……』

 ならどうして初日に渡してくれなかったのかと問いただしたい所だが―――流石に上司に向かってヒラが言える言葉では無い。



 素直に感謝しておく。

『…すみません、ありがとございます』

「…ん」

 返答はやはり短い。

 既に帰宅準備は出来ていたのか、コートを羽織ると、直ぐに鞄を持って立ち去ろうとした…のだが、数歩進んだところで振り返り、口を開いた。

「あとソレ、本当に研究段階での資料だからな。…あの人間についての諸々は、載ってないからな……じゃ…お疲れ」

『…お疲れさま、でした』

 簡単な挨拶を交わし、私の声も殆ど聞かないまま、急ぎ足で去ってしまった。…様子からして、何か急ぎの用があったのかもしれない。


(少し悪いことをしたか……まぁ…いいか)

 簡単に疑問を片付け、手元の資料に目を移す。―――厚い表紙とは真逆に、資料本体はあまり多くはないらしい。

 しかし資料は資料だ。あまり部外者に見られるのも良くないと思い、急いでデスクに戻り、私物と共に鞄に突っ込んだ。










 ―――――――――――――     ――――――――――――― 









 素早く挨拶を行い、部署から早足で出る。そして、玄関先まで来たところで鞄を開き、中を探り始める。勿論、目的は先ほどの資料だ。社内の玄関先で読むべきでないことは分かっているが、今日は常識より、好奇心が優先される日らしい。手を止めようとは思わなかった。

 早速表紙を捲って一ページ目。並べられた目次を、目で追っていく。


(行動から食事についてまで……意外と役立ちそうだ)


 日常生活には役立ちそうな内容だが、そこまで重要なことでは無い。今知りたいのはもっと別のものだ。

 引き続き、文字を追う。

(…これか?)

 目次のさらに下。そこの『重要項目』と太字で書かれた集団の中で、一つだけ、小さく赤丸がついているのを発見した。

(タイトルからして…合っていそうだ)

 題名の隣のページ数を確認し、パラパラと捲っていく。紙に皴が出来た気がしたが、そこまで気には留めなかった。






 ファイルの中を進んで行き、赤丸の項目に辿り着く。太字の題名の下に、なんとも微妙な量の記述があった。

(…研究資料なのに、この程度なのか?)

 若干の不満を覚えつつも、記述を読み進めていく。―――初めは項目の確認だけをと思っていたのだが、自分の"立場"的にも、その先が気になって仕方がなかった。

(前半だけ読んで…後は帰宅してからだ)

 自分に言い聞かせながら読み進める。いつもより眼の渇きが早いように感じた。






















 ――――記述の前半だけを読み終わる。今はここで区切りとし、後は自宅で確認することにした。




 ファイルを鞄に入れながら外に出ると、空を仰ぐ。生憎、夜空は雲に覆われ、星は見えない。



『………良かった』

 独り言と溜め息が自然に零れた。―――両方とも、安堵から来るものだった。

 足を自宅へと向け歩き出す。日記用のノートとペンのことを思い出したが、それは明日以降に回すことに決めた。



 帰宅途中は、自分でも分かるくらいの"急ぎ足"になっていた


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人外男と検体女子高生 スド @sud

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