第2話 ヒーロー

The boy becomes a hero


 後編


 目が覚めると、そこにはよく見知った天井が広がっていた。

「俺、どうなったんだっけ?」

「慧! 起きたの!?」

 耳元で騒がしい声がして、首だけを動かしてその方向を見てみれば、サイドテールを振り乱して幼馴染の少女がこちらを覗き込んでいる。

「……雪嘉?」

「この馬鹿! 格好つけて人に散々心配かけさせて……!」

 雪嘉の声は震えている。

 泣いているのかも知れないが、わざわざそれを確かめるほど悪趣味ではない。

 それよりももっと気になることがあって、慧は身を起こそうとするが、「いっ……!」上半身を激痛が走り抜け声にならない悲鳴を上げて慧の身体は再びベッドに倒れ込む。

「ほら、無茶しないの。あんた酷い怪我で丸一日寝込んでたのよ」

「ルーヴは?」

「あの精霊なら今は寝てるわ。一度は起きたんだけどまた体力が尽きたみたい。ま、治療の邪魔だったからちょうどよかったけど」

「雪嘉がやってくれたのか?」

 全身には包帯が巻かれ、じんわりとした熱が温かい。魔術を込めた霊薬か何かで治療してくれたのだろう。

「あたしも霊薬ぐらい作れるってのを実践したかったからね。あんたを実験台にしてやったの」

「そっか。やっぱり雪嘉は凄いな。ありがとう、助かったよ」

「ばっ……! 実験台だって言ってんでしょ! それにあんたとあたしの間に遠慮なんか……」

 顔を真っ赤にして雪嘉は口を噤む。

 もうそんな関係ではないと、彼女もよく理解していた。

「それにしても、この部屋もあんまり変わんないわねー。まだヒーロー、好きなんだ?」

「悪いかよ。五人戦隊とかは卒業したぞ」

「マスクライダーは?」

「……日曜の朝は暇だから」

 前者は金曜の夕方、後者は日曜の朝にやっている特撮番組で、子供の頃は好きだったが今はそれほど熱心には見ていない。――たまに気が向くとテレビの前に座っていることもあるが。

「オタクねー」

「人の趣味にケチ付けるなよ」

 もう一度身体を起こそうとして、全身に力を入れると「ひゃっ」と何故か、雪嘉が奇妙な声を上げた。

 指先から伝わる熱は、霊薬に浸した包帯ではない。

 いつからそうなっていたのか、雪嘉の柔らかな手が、慧の手を握っていた。

「こ、これはっ、違うから! 魔力を行き渡らせて、効果を高めるために握ってただけだからね!」

「う、うん」

 必死で釈明する雪嘉に、慧はただただ頷き返す。効果の程は知らないが、本人がそう言っているのだからそうなのだろう。

「そう言えば、鬼はどうなった?」

「……判んない。あたしが付いた時には誰もいなかったけど、精霊は倒したって言ってた」

「後もう一人、男が倒れてなかった? ガッハッハって笑う変な奴なんだけど」

「いたのはあんた達二人だけよ」

 だとすればマグナは恐らく無事なのだろう。

 先に意識を取り戻して何処かに身を隠したか、どちらにせよあの男が死んでいるとは考えにくい。

「慧」

「ん?」

「あんまり無茶しないでよ。あんた弱いんだから」

「無茶はするよ。弱いから尚更ね」

「それは……」

「慧!」

 雪嘉が何かを言いかけると、勢いよく部屋のドアが開け放たれてそれは遮られた。

 やってきたのは当然、銀色の髪に薄い褐色の肌の少女、ルーヴ。紅い瞳で真っ直ぐに慧だけを見て、猪のように突進してくる。

「慧。やっと起きた。お前邪魔」

 ルーヴは雪嘉の額に手を当てると、ぐいと後ろに押し退けてしまう。

「ちょっと!」

 尻餅を付きながら抗議する雪嘉を完全無視して、ルーヴは慧の枕元に近付いて手を握る。

「慧、起きた。ご飯食べよう」

「精霊! 慧はまだ病み上がりなんだから無茶させるんじゃないわよ! だいたい、ご飯なら作っといてあげたじゃない!」

「うん。美味しかった。じゃあ、もう帰れ」

「慧! こいつ何なの!?」

「……いや、だから精霊なんだけど」

「もっとまともな奴召喚しなさいよ……」

 呆れて項垂れる雪嘉。

 召喚する対象としてはこの上なく当たりなのだが、雪嘉が言いたいのはまた違うことだろう。

「ルーヴ。雪嘉は俺達の為に頑張って治療してくれたんだから、あんまり邪険にするなよ」

「べ、別にあんたのためじゃないし!」

「慧のためじゃないって。じゃあ帰れ」

 二人の連携で、流れるように慧の気遣いは無に帰った。

「雪嘉には世話になったんだから、ルーヴもお礼を言いな」

「……ありがと」

 目を逸らし、もの凄く嫌そうに礼を言うルーヴ。間違いなく、感謝の気持ちなど微塵もない。

「こ、こいつ……」

「慧。まだ痛い?」

 一応お礼を言ったことで慧への義理は果たしたのか、ルーヴは雪嘉を無視して慧の方へと振り返る。

「痛いには痛いけど……よっと」

 ベットの端に手を掛けて、今度こそ上半身を起こす。

 痛みはあるが、ゆっくりとなら充分動けそうだ。

「慧。別に寝てていい。何かしたいことあれば、わたしが代わりにやっておく」

「お前、家事できないだろ?」

「……こいつがやっておく」

 雪嘉を指さす。

「やらないわよ! 人のことなんだと思ってんのよ!」

 いつになっても終わらない二人の会話を切り裂くように、一階から玄関チャイムの音が聞こえてくる。

「はーい」

 自然と返事をして出ていく雪嘉。

「おい、雪嘉。子供の頃ならともなく今は……」

 止める間もなく下に降りていってしまった。子供の頃、よく遊びに来ていた時には何度か見た光景だった。

「仕方ない、追いかけるか。いてて」

「慧。肩」

 言われるままに肩を貸され、ルーヴに引きずられる形で下へと降りていく。

 怪我をしているといは言っても決して広くはない家。一階の玄関までは二分と掛からなかった。

「雪嘉。お客さんだろ? 何黙って……」

 廊下の先、開かれた玄関。

 その扉の前に立っているのは、白い髪の青年だった。

 年齢は二十台中ごろ。整えられた髪に、清潔感のあるスーツ姿。

 整った顔立ちは男性でありながら奇妙な色かを纏うほどに美しい。

 彼の前に立つ雪嘉は、無言だった。

 怯えたような、叱られるのを待つ子供のように縮こまっている。

「やあ」

 低いがよく通る声が、空気を震わせる。

 爽やかな笑みを浮かべた男は、その美貌の所為か何処か冷たい印象すら与える。

「初めましてだね。霧代慧君。僕の名前は久良岐紅錬くらき こうれん。久良岐家の五代目の当主と言えば、大抵の事情は理解してもらえると思う」

「……どうも」

「雪嘉が世話になったみたいだね」

 ルーヴの手を離れ、壁に手を付きながらゆっくりと紅錬に近付いていく。

「いえ、むしろゆき……御代のおかげで怪我の治りも早かったので、助かりました」

 彼が久良岐家の当主ならば、雪嘉の婚約者で間違いない。そんな彼の前で雪嘉を呼び捨てにすることなどできず、咄嗟に苗字呼びに切り替える。

 それを聞いた時の雪嘉の表情に気付いたのは、この場では紅錬だけだった。

 雪嘉の横を通り抜け、紅錬の前に歩み出る。

 彼の視線は一瞬だけルーヴに向けられたが、すぐに慧へと戻っていった。

「これはお見舞いの品だ。受け取ってくれ」

「あ、ありがとう、ございます」

「ひよこ饅頭の抹茶味だ。味わって食べてくれ。それよりも」

 受け取ろうとした慧の手を、紅錬の大きな掌ががっしりと包み込む。

「うん、うん。素晴らしい手だ。魔力の残滓が残っている。常に鍛錬を欠かさない、魔術師の手と言えるだろう」

「え、は? なんです?」

「惚けるとは人が悪いな、慧君。君は現代の魔術史に置いて、世界で最初に鬼を倒した魔術師だ。つまり、我々からすれば英雄にも等しい」

「いえ、そんな……。俺の力じゃないですし」

 ちらりと視線はルーヴを見やると、彼女は不機嫌そうに目を眇めている。どうやら、紅錬が手を握ったのが気に入らないらしい。

「精霊の力なのは間違いないだろう。だが、それを引きだしたのは紛れもなく君の勇気だと私は信じている! そう、どんな強敵にも負けずに立ち向かう勇気こそが、我々人類に残された最後の希望にして、幽世から現れた魔を払う最強の力なのだ!」

「は、はぁ……」

 手の冷たさとは裏腹に、随分と暑苦しいが、おかげで最初の怜悧な印象は大分薄れた。

 久良岐家と言えば日本の、関東一帯の魔術師達の間では、最古にして最大と呼ばれる名家である皇(すめらぎ)家に連なる家系。

 慧の霧代家も長い歴史と実績を持つが、それでさえ皇はおろか、久良岐家にも及ばない。

 河川敷では意地を張って、雪嘉によく知らないと言ったがそんなことはない。むしろ魔術に関わるものでその名を知らない者はいないほどの家柄だ。

「さあさあ慧君。もしよかったらお茶でも飲みながら私に鬼と戦った武勇伝を説くと語ってくれたまえ! 今日はそれを楽しみにここまでやってきたのだからね」

「紅錬様。あの」

 家の中に上がり込んできそうな勢いの紅錬に、横合いから雪嘉の控えめな声が差し挟まれた。

「慧はまだ怪我もあるし、体力も戻ってないですし。あんまり無理をさせるのは」

 その雪嘉の声色は控えめで、慧の知っている強気な彼女からは想像もできない。やはり婚約者の前ともなれば、お淑やかになってしまうものなのだろう。

「む、それは確かに。嗚呼、非常に残念だ。たった数人で鬼に立ち向かい倒した勇者の話を聞けると楽しみにしてたのに。そうだ! よかったらメールアドレスを交換しようじゃないか!」

「べ、別にいいですけど……」

 勢いに押されて、アドレスの交換を果たしてしまった。

「うむ、収穫は上々。ついでと言うわけではないが、幽世と戦う魔術師のネットワークも一つ、繋がったということだ」

「いや、でも俺は……」

 役に立たない、落ちこぼれ。

 慧がそう言おうと口を開くと、その前に二人の間に歩いてきたルーヴが無理矢理手を離させる。

「繋ぐのは駄目」

「おっと。君は件の精霊だね。成程、研ぎ澄まされた刃のような美しさと強さを兼ね備えている。君もどうかな、私とメールアドレスを……」

 紅錬のことは完全無視して、ルーヴは慧の手を握る。

「これでいい」

 感触を確かめるように何度か握っては放すを繰り返して、どうやら満足したらしい。

「こいつ、携帯持ってませんよ」

「それは残念だ! では今日はそろそろお暇するとしよう! 雪嘉」

「は、はい!」

「私は別に君がここに遊びに来ることを咎めはしない。だが、他の家の連中がどう思うかは別だ。次からは、くれぐれも気を付けてくれ。もしくは私に何か一言言ってくれれば、便宜を取り計らおうではないか!」

「ご、ごめんなさい」

「うむ。素直に謝れるのはいいことだ。それでは慧君、また会おう!」

 颯爽と振り返り、玄関から出ていく。

「それじゃ、慧。……また」

 雪嘉もその後を追うように出ていって、玄関には慧とルーヴの二人が残された。

「……なんだったんだ?」

 久良岐家当主、久良岐紅錬。

 雪嘉の将来の結婚相手。

 少し話しただけだが、どうやら慧が思っていたような魔術師的な、冷たい人物ではないようだった。

 それにほんの少し安心すると同時に、彼が握った手の冷たさは、今感じているルーヴの熱があっても、忘れられそうにない。

「慧。これ、食べよう」

「お前、もう少し色々考えような」

「任せて」

 自信満々に胸を張るルーヴだが、これ以上に信用できない言葉もあるものだろうか。


 ▽


 翌日、怪我が治りきらず学校を休んだ慧は朝からずっとここ数年間、半ば開かずの間となっていた父の書斎に籠っていた。

 六畳ほどの部屋は、両壁にまるでこちらを威圧するかのように本棚が立てられ、そこには大量の書物が収められている。

 本の劣化を避けるために一つだけの窓は厚いカーテンで遮られ、唯一置いてあるのは濃い茶色をしたマホガニー製のテーブルと椅子だけだった。

 そこにある父の蔵書の大半は魔術に関係のあるもので、子供の頃はよくこの部屋で魔術の勉強をしてきたものだった。

 慧が基礎的な魔術を学ぶと共にここにある本達は次第に用済みとなり、父から見放された今となっては滅多に訪れることもなかった。

 その中で、かつて読んだことのある本、または子供の頃は興味の持てなかった、難しそうな書物を選んで目を通していく。

 魔術の成り立ち、幽世について、精霊と呼ばれる存在。

 そのどれもが一度は目を通したもので、目新しい知識を得ることはなかった。

 一応、改めて精霊がなんであるかを知れたのは収穫だったのかも知れないが。

 今度は魔術の教本に目を通す。

 霧代家に縁のある人物が書いたそれは、父が得意とし、慧も何とか操ることができる、極めて簡単な現象執行魔術について書かれていた。

 杖や符など、魔術に適した道具に自分の魔力を浸透させ、火や水などを呼び出し操る。

 魔術師ならば誰でも扱えるような簡単な術だが、その反面極めれば実に強大な力を手軽に発揮できる。

 アークメイジである慧の父などはその最もたるものだ。

 改めてかつて読んだ内容を復習しながら、慧はどんどんと気分が落ち込んでいた。

 ここに読んである内容を正しく理解し、実践したのに、結果が出なかった。

 勿論前提として、魔術は誰にでも使える力ではない。所有する魔力量は人によって大きく差があるし、魔術を発動させるために力を練り、発現させるのにもセンスを要求される。

 だが、大抵の場合それは血統によって磨かれていくものだ。

 父も母も、優れた魔術師だった。母は結婚し一線を退いてから価値観が変わり、魔術至上主義ではなくなったが、それでも優秀な血統である父の伴侶として選ばれた由緒正しき血筋の持ち主でもある。

 その子供である慧には、二人から与えられたものは何一つなかった。

 無意識に唇を噛んでいることに気付いて、一度休憩しようと顔を上げたところで、書斎の扉が開く音がする。

「慧?」

「ルーヴ?」

「ごはん」

 携帯電話を覗くと時間は既に昼を回っていた。朝起きてからずっと籠っていたため時間の流れも気にならなかったらしい。

「ゴメンな。今用意するから、ちょっと待っててくれ」

 本当に犬猫を飼っているようだと苦笑しながら答える。

「作ってきた」

 続くルーヴの言葉は、失礼ではあるが慧にとっては信じられないものだった。

 盆を持ったルーヴが部屋に入ってくる。

 その上には確かに、湯気を立てているカップが二つと、皿の上に雑に重ねられたサンドイッチが乗っていた。

「料理? お前が?」

 思えば、全く気にしていなかったが朝から随分と静かだった。朝食を食べさせてから、「今日は調べ物があるから大人しくしてろ」と言ったきりだったことを思い出す。

「随分大人しいと思ったら、そんなことしてたのか」

「わたしは戦い以外でも慧の役に立つ」

 えっへんとでも言わんばかりに胸を張る。

「ありがとな。じゃあいただくよ」

 盆がテーブルの上に置かれ、慧がサンドイッチを掴むと、横に立ったままでルーヴも同じように手を伸ばす。

「……ルーヴ、近い」

「うん」

「食べにくくないか? そもそも立ったままだし」

「でも慧の近くで食べられる」

「リビングで食べてきてもいいんだぞ」

「やだ」

 ばっさりだ。最早予測していたことではあるが。

 仕方がないので適当な本を見繕って、一階のリビングで食べることにした。

 広々としたリビングのソファに座り、ついていないテレビを目の前にして本を呼びながらサンドイッチを齧る。

 ルーヴはその横で、慧にぴったりとくっついて食べている。慧が膝の上で捲る本のページを目で追ってはいるが、内容を理解しているかどうかは怪しいものだ。

 理解していなくてもこの程度の魔術ならば使えてしまうのかも知れないが。

「これ、お茶じゃないのか?」

「お茶の入れ方が判らなかった」

 お湯を沸かすところまではできたらしい。

 お湯を飲みながらサンドイッチを食べ、本を読む。

 いつの間にか座っているルーヴは楽な姿勢を模索し始め、ついにはソファに横になり、慧の膝を枕にしはじめた。

「おい」

「退屈」

「テレビでも見てろよ」

 リモコンを手に取り、テレビをつける。

 ルーヴは物珍しそうにそちらに目を奪われたが、騒音を避けて静かに本を読むために慧が二階へと移動しようとすると、「慧が行っちゃうならつけなくていい」と、自らテレビを消してしまう。

「お前な……本当に精霊なのか?」

「うん」

 本をぱたんと閉じると、膝の上のルーヴが何かを期待したように顔を上げる。

 持って来た、精霊の本――厳密には『魔術世界の成り立ち』と題された本のあるページを開いて見せる。

 曰く、この世界は二つの世界と通じている。

 片方は人の住めない暗黒の世界。この世から追放された幻想が住まう、幽世。

 そしてもう一つが、神や天使、精霊が住まう世界。

 近代魔術が確立して程なくして、ある魔術師が精霊と接触したことで、そこは知られることになった。

 それまでは物や現象に宿る存在でしかなかった『精霊』は、異なる意味を持つようになった。

 天空に住まう神々に等しき者達より遣わされ死、創造と破壊の使途と。

 もっともそのこと自体は魔術師達の間では通説として伝わっている話であり、特別珍しい情報ではない。結局のところ、気紛れな精霊がなんであるかを知ったところで魔術の上達には繋がらないのだ。

 一応、まだ知らなかった魔術を幾つか知ることができた。呪い除けや身体強化など、それほど重要性の高いものではないので今まで放置してきたが、練習し習得すれば何かの役には立つかもしれない。

「別に慧は強くならなくていいのに。わたしがいるから」

「そんなわけにはいかないだろ。自分自身の力で戦ってこそ意味があるんだから」

「わたしは慧の力。慧の剣。だからわたしの力は慧の剣」

「……そうは言うけどな……」

 ふと、慧は考える。

 どうしてルーヴはこんなにも自分に尽くしてくれるのだろうかと。

 召喚術者と呼び出された相手ともなればそこに主従が生まれるのは当然のことだ。召喚術にそう言った魔術は自然と組みこまれている。

 しかし、それが知識あるものの場合は少し事情が違ってくる。

 彼等は何らかの代償と引き換えに、力を貸してくれる。

「お前、なんで俺の力になってくれるんだ?」

 膝の上のルーヴを見下ろしながらそう尋ねると、彼女も同じように慧の瞳を真っ直ぐに見つめる。

「……覚えてない?」

「覚えてって……何を? 俺がお前と会ったのはこの間が初めてだろ?」

「……なら、いい」

 不機嫌そうに、ルーヴは頭を上げて立ち上がる。

 何故彼女がそうしたのか判らずに首を傾げていると、ポケットに入れている携帯電話に着信があった。

「誰だよ?」

 時間は昼過ぎ。二日も学校を休んでいるので、ひょっとしたら恒也辺りが心配して電話を掛けてくれたのかも知れない。

 そんなちょっとした期待と煩わしさは、ディスプレイに表示されていた名前を見て一気に吹き飛んだ。

《霧代達臣》(きりしろたつおみ)

 それはもう長いこと会っていない、慧の父の名だ。

「……はい」

 心臓の鼓動が早まる。

 耳に当てる電話を握った手は、小さく震えていた。

「久しぶりだな、慧」

「はい。父さんはお元気でしたか?」

「無駄話をするつもりはない。既にあちこちから情報が入ってきている。精霊を召喚したそうだな」

 声色は冷たく、そこに親子の情など一切ないと言わんばかりだ。

 猛獣を前にした小動物のように、慧は緊張しながら父の言葉を待つ。

「お前が精霊を召喚したのは、こちらとしては予期せぬ幸運だ。幽世の者達と戦う戦力としても、霧代の名をより広く知らしめるための材料としてもな」

 心なしか、父の声は柔らかい。

 そんな風に彼が喋っているのを聞いたのは、まだ本当に幼い頃、慧が魔術師として才能がないと判る前のことだった。

「久良岐の当主とは会ったな?」

「紅錬さんですよね?」

「そうだ。彼は何故かお前を高く評価している。今後しばらくは、久良岐の指示に従って幽世の魔物と戦え」

「戦、う?」

 慧の驚きは恐怖からではない。

 こうして父から何かを言いつけられること自体が、実に数年ぶりのことだ。

「戦いが精霊の更なる力を呼び覚ますかも知れぬ。ある者は精霊を自らの王権として、観賞用と思っているのかも知れぬが、あれは所詮道具だ。使わなければ意味がない」

「判りました」

 父と、偉大なる魔術師である霧代達臣とこんなに長く喋っている。

 その事実が、慧に最初とは違う震えをもたらした。

「と、父さん」

 無言で達臣は続きを促す。

「ルーヴと……精霊と戦って、初陣を勝利しました。相手は鬼です」

「知っている。アダプト級の魔術師が束になっても敵わない強敵であったとな。それを打ち果たせるほどの存在を召喚したことは功績に値する。よくやったな」

「は、はい!」

「これで皇も霧代に文句は言えまい」

 皇家はもともと幽世の魔物に対抗することには前向きで、最初にその襲来が予測された時には各家を集めて緊急会議を開いた。

 ところが、家々はそんなことに興味はなく、一応形だけの協力を取り付けることしかできなかった。例え強い力と影響力を持っていたとしても、魔術師同士は決して慣れあうことはない。お互いの裏をかくために常に罠を張り巡らせている。

 電話が切られる。

 丁度そのタイミングで、何処かに行っていたルーヴは部屋に戻ってきた。

 妙に嬉しそうな慧を見て、不思議そうに首を傾げている。

「慧。何かいいことあった?」

「あったよ! あったんだ! 父さんに褒めてもらえた。魔術師として任務を貰えたんだ。ルーヴ、お前のおかげだよ、ありがとう!」

 ぎゅっとルーヴの手を握る。

 普段ならばそうすれば嬉しそうにするルーヴだが、今回ばかりは眉を顰めるばかりだった。

「これで父さんの役に立てる。俺も魔術師の一人だって認めてもらえるんだ!」

 慧の喜びに同調するものは誰もいない。

 ただ、ルーヴだけが不安そうに瞳を揺らしているばかりだった。


 ▽


 それから数日後の夜、時刻は既に十一時を回っている。

 駅から少し離れたところにある商店街は、昼間とは打って変わって人の気配が殆どない。

 閉店しシャッターが閉まった店が立ち並び、自販機と街灯の小さな灯りが辛うじて道を照らしているそこは、まるで死者の街のように見える。

 その店と店の間、歩道に挟まれた道路の真ん中を慧は疾走していた。

 霊薬のおかげもあって怪我はすっかり治りきり、もう痛みは一切ない。

 心の中で雪嘉に感謝しながら、横を走るルーヴに目配せをする。

 ルーヴはこくりと頷くと、慧達の数歩先を走る影に向けて飛び出した。

 人でない彼等は人間である慧よりも素早く動くが、ルーヴはそれよりも早い。

 二人組の片方の背に剣を突き立てて着地すると、一気にそれを引き抜く。

 街灯の下で真っ赤な血が空中に線を描くように飛び散った。

 同族の死に立ち止ったその姿は、全身を濃い体毛に包まれた、まるで獣が二足歩行しているかのような生き物だった。

 厳密にはそれは間違っていない。獣人と呼ばれる、幽世の住人であり世界中で目撃される魔の者だ。

 人間を遥かに超える力、本能に抗えない凶暴性と危険性は高いが、鬼と互角に渡り合うルーヴの敵ではない。

 鋭く伸びた爪が力任せに振るわれても、それがルーヴの身体を掠ることもない。

 相手の大ぶりな攻撃を避けたルーヴは、無表情でその胴体を切り裂き、息の根を止めた。

 そうして獣人が崩れ落ちたのを確認してから、慧は緊張を解いた。

「ルーヴ、ご苦労様」

「ん。この程度は敵じゃない」

 剣を鞘にしまい、息一つ切らすことなくルーヴは慧の隣にやってくる。

 紅錬からメールが送られてきたのは、父との電話が終わってすぐのことだった。

 幽世から現れる者達を排除するのに力を貸してほしいとの内容に、慧は二つ返事で了解した。

 今の自分にはルーヴがいるし、実戦を通した修練ならば魔術の実力を上げることに繋がるかも知れない。

 何よりも、慧自身が幽世から人々を護るのに必要とされていることが嬉しかった。

「ルーヴ、帰ろう」

「うん」

「帰ったら明日の準備して……。やることが色々あるな」

 幽世の魔物達は基本的に、夜にだけ出没する。

 魔術師達は何も、幽世の魔物達に対して何も対策を打たなかったわけではない。多くの家が結界を張り、大半の場所は結界に覆われている状態を作り上げた。

 特に昼間は結界が強まり、また目立てばすぐに魔術師達の目に留まると判っているのか、魔物達は結界が弱まる夜に活動する。

 それは一つの成果と言えるが、裏を返せば大抵の魔術師がそれに協力することで、幽世の侵攻に対して手を打ったことになってしまった。

 言葉とは裏腹に、不思議と辛くはない。

 落ちこぼれと呼ばれ、いないものとして扱われていた日々が、少しでも報われていると感じていた。

 勿論それがルーヴありきのことであるのはよく判っている。

 それでもこの街を、誰かを護るために必要とされている事実は、慧の心を確実に溶かしていた。

「ちょっと待った」

 立ち止まり、携帯電話を開く。

 ルーヴはその数歩先で立ち止まり、どうしたのかと振り返った。

「紅錬さんに終わったって連絡しておかないと」

 成果はすぐに報告するようにと言い含められていた。人ならざる者の死体をいつまでも残しておくわけにはいかないからだ。恐らく久良岐の家に関わるものがやって来て、処分してくれるのだろう。

 ディスプレイの上に指を滑らせメッセージを入力する。

 送信が終わったのと、店と店の間の路地から妙な物音が聞こえてきたのはほぼ同時だった。

 人間離れした瞬発力で、慧が路地から影が飛び出してくる。

 人間より一回り大きなそれは、先程倒した連中と同じ獣人だった。

 数歩先を歩いていたルーヴも、油断しきっていた慧も反応が遅れる。

 爪が慧の腕を切り裂き、痛みから手放した携帯電話が地面を転がっていく。

「慧!」

「ルーヴ、気を付けろ! 一匹じゃない!」

 ルーヴの背後から、今度は別の獣人が襲い掛かる。

 そんな奇襲でルーヴを倒すことなどできはしないにしても、彼女に一瞬の隙を生み出した。

 獣人が吼える。犬の雄叫びのような咆哮が意味するのは、更なる増援だった。

 足音が響き、あちこちから足音が近付いてくる。

「不味い……!」

 ルーヴがこちらに来れない状況ならば、自分の身は自分で護るしかない。

 慧は取りだした符で結界を張り、目の前の獣人と距離を取る。

 獣人に鬼ほどの力はない。鳳几には一瞬で砕かれた結界も、その爪を防ぐには充分に役立ってくれた。

 その間にもう一つの符で攻勢に出る。

 符から放たれた炎が獣人に絡み付き、激しくその身体を燃え上がらせる。

 炎に包まれた獣人は苦しみながらも、予想外の攻撃を仕掛けてきた慧への怒りを漲らせ、攻めの手を緩めない。

 必死でその爪や拳を裂けながらルーヴの方へと視線を向けると、既に獣人の増援が到着し、その数は十匹は超えている。

「慧!」

「俺のことはいいから、ルーヴはそっちに集中しろ!」

 慧と相対する獣人が、獣の口で笑う。

 この目の前の弱っちい人間は、こともあろうに自分から獲物になってくれたのだと。

 炎は確実に獣人から体力を奪うが、もう一手が足りない。

「もう一撃、今度は直接!」

 炎に燃える腕が、慧の頭の真横を通過する。

 飛び散る火の粉と熱に目をやられそうになりながらも、どうにか相手の目の前まで近付いた慧は、符を直接その腹に押し付ける。

 炎ではなく、小さな爆発が獣人の身体を吹き飛ばし、店のシャッターにぶつかり地面に落ちた。

 ルーヴの援護に向かおうとする慧だったが、獣人はまだ倒れない。

 シャッターを蹴って飛び出すと、怒りと憎悪を込めて慧へと爪を振り下ろす。

「まだ倒れないのかよ!?」

 爪の一撃こそ避けたものの、続けて放たれた蹴りが腹に突き刺さり、その場から吹き飛ばれた慧はガードレールにぶつかって地面を転がった。

「がっ……!」

 肺から空気が一気に漏れ、視界が明滅する。

 目の前が真っ白になったのは一秒もなかっただろう、その間に獣人は慧の目の前に立っていた。

 炎に燃えるその身体が、自らに手傷を負われた生意気な獲物にとどめを刺すために爪を振り上げる。

 息を呑む慧だが、それ以上その獣人が動くことはなかった。

 その獣人の胸から剣が突き出ている。

 紅い剣は、ルーヴのものだ。

 慧が一匹の獣人に苦戦している間にも、彼女は十匹を片付けていた。

 剣を引き抜かれ、ゆっくりと獣人の身体が倒れていく。

 全身に返り血を浴びたルーヴは、慧の無事を確認すると、それまでの無表情から一転して、小さな安堵の笑みを浮かべていた。


 ▽


 いつもと違う夢を見た。

 まだ幼い、小さな少年だった慧は、幼馴染の雪嘉と一緒に裏山へと冒険に出かけた。

 草木を掻き分け、泥まみれになるのも構わずに二人は歩いていく。魔術の修行のための山も、子供にとっては壮大な冒険の舞台となる。

 木漏れ日を進み小さな川を越えて、しばらく歩くと、二人は下界を見下ろせる開けた場所に出た。

 子供達ははしゃぎ、今まで見たこともない景色に心を躍らせる。

 いつもは巨大な壁のように立ちはだかる建物たちが、まるで小人の住処のように小さく見える。

 いつも通っている学校も、買い物に出かける商店街も何もかもが、手の中に入る程度の大きさしかない。

 二人はいつまでも、楽しそうな声を上げていたが、やがて透き通った昼の光は翳り、夕焼けが世界を赤く染めていく。

 座ってお喋りをしながら過ごしていた二人の子供達はそこで初めて、帰り道が判らないことに気が付いた。

 後ろを振り返れば、薄暗くなった木々の間がまるで怪物の口のように待ち構えている。

 特に泣き虫な幼馴染の少女はもうそれだけで泣き出してしまっていた。

 泣きじゃくる幼馴染を宥めていると、不意に視界の端に何かが見える。

 思わず慧がそれを口にしてしまうと、雪嘉は更なる恐怖に支配されて、より大きな泣き声を響かせる。

 そんな彼女の頭を撫でてやりながら、注意深く慧は今来た道を目を凝らしてよく見つめた。

 木の裏に何かがいる。

 それは獣ではなく、もっと違う何かが。

 こちらの様子を伺っているのか、少しだけ顔を覗かせたのは、見たこともない少女だった。

 銀色の髪に、褐色の肌。

 年齢は慧と同じぐらいか、少し下かも知れない。

 木の裏から半分だけ覗いたその瞳は不安そうに揺れている。

「お前も迷子?」

 声を掛けられて、木の間から少女が歩み出てきた。

 こくりと頷きながら、慧のすぐ傍までやってくる。

 息が止まるほどに、美しい少女だった。

「何処から来たんだよ?」

 ふるふると、彼女は横に首を振る。

 雪嘉は驚いて慧の後ろに隠れてしまったし、少女もまた泣きそうな顔をしている。

 こんな時、慧が好きなヒーローならどうするだろうか?

 彼等は悪と戦うだけじゃない。人が困っているときに手を差し伸べて、正しい道へと連れていくのだ。

 背中に隠れる雪嘉の手を握り、ぐっと引っ張った。

「け、慧……?」

「帰ろう。夜になったらもっと危なくなるし」

「でも、道……それにその子も」

「下に向かってればいつか帰れるよ。ほら」

 右手に雪嘉。

 空いた左手を少女に差し伸べる。

「三人いるし、こうしてれば怖くないだろ」

 おずおずと少女の手が慧に触れる。

 指先に触れた彼女は雪嘉と違ってずっと冷たかった。

「お前、手冷たいなぁ」

「今は暖かい」

 少女が慧の手を強く握る。

 ――それからのことはよく覚えていないが。

 散々道に迷った挙句、父の追跡魔術により無事に救出された。

 父は呆れ、母は怒り、それでも雪嘉と手を繋いで護り続けたことを褒めてくれた。

 いつの間にか少女は消えて、その記憶も全て覚えていなかった。

 慧は知らないことだがその日、一度だけ世界が揺らぎ、『外』からの侵入者が多発した日だった。

 その日に観測された歪みから、幽世からの侵略者がいずれ現れること、そしてそれとは違う世界に住まう『精霊』と呼ばれる存在がいることが明らかになった。


 ▽


 人の気配と、ベッドが軋む音がして慧は目が覚めた。

 目の前に広がっているのは前を開けてはだけた慧のジャージと、その奥に見え隠れする控えめな膨らみ。

 下着も一緒に買ってやったはずなのに、何故か付けていなかった。

 今、ルーヴは丁度慧の顔の辺りと交差する形で四つん這いになっている。

 彼女の頭は窓のところにあり、カーテンを開け放って何かを見ていた。

 時間はまだ遅く、二人が眠ってから一時間程度しか経っていなかった。

 あれからすぐに紅錬に報告し、家に帰ると傷の手当てをしてすぐに眠りについたのだった。

 怪我こそしたものの、紅錬からは褒められ、そればかりか更なる活躍をも期待された慧はかなり上機嫌で床につくことができたのだが。

「ルーヴ。何やってんだお前? 後、隠せ」

「星とか、見たかった」

「お前の部屋にも窓はあったと思うけど?」

「慧と一緒がいい」

「俺が起きなかったらどうするつもりだったんだよ?」

 答えず、ルーヴは黙って窓を覗いている。

 彼女が小さく身じろぎするたびに、ジャージの閉じる部分がゆらゆらと揺れて、青少年にはよくない誘惑を掛けてくる。

「あーもう! 取り敢えず退いてくれ!」

 自分の上から退去させて、一先ずベッドから降りる。

 目の毒をいつまでもちらつかせる彼女には布団を被せることにした。

「何処行くの?」

「お茶入れてくる。お前、すぐに出てけっていってもいかないだろ?」

「うん。慧、賢い」

 全く悪びれる様子もないその顔に、うんと渋いお茶を入れてやろうかとも思ったが、やめておいた。

 改めて二人でお茶を飲みながら、ベッドの上から窓の外を眺める。

 慧の部屋の窓は、裏山の方を向いている。今日は雲も出ていなので小さな山の全容がよく見渡せた。

「お前さ」

 夢で見たあの日を思い返す。

 だが、それすらも真実であったかどうかは疑わしい。昔のことを夢に見て、それにたまたまルーヴが入り込んだだけかも知れなかった。

「昔、俺と会ったことあるのか?」

「ある」

 なんでもないことのように、ルーヴは答える。

 余りの呆気なさに、これ以上何を聞こうとしていたかすら忘れてしまった。

 十年前、何の影響があってか判らないが、一人の精霊がこの世界に逸れて出てきた。

 彼女は力なき精霊で、元居た場所に戻れば、下手をすれば消滅していたかも知れない。

 それでも、その時手を握ってくれた少年の熱が恋しくて、もう一度彼に会いたくてずっと待ち続けていた。

 無論そんなことは慧は知らないし、ルーヴも語ることはない。再会できた以上、それは大した問題ではない。

「慧」

 慧が何か言おうとすると、先んじてルーヴが口を開く。

 両手に包むように持ったお茶を一口飲んでから、いつになく真剣な表情で。

「戦うのはやめて」

「……それは俺が弱いからか?」

「……そうだけど、違う」

 沈黙が訪れる。

 ルーヴは次の言葉を探していた。不器用な彼女なりに、どうすれば慧を傷つけずに済むかを必死で考えていた。

「例え慧が強くても、わたしは慧が傷つくのが嫌」

「それは、お互い様だろ」

 ルーヴの言葉に意味はない。

 お互いの腕が触れ合う距離にあっても、その心は余りにも遠い。

 人と精霊、力ある者とない者、そして足掻く者と見下ろす者。

 どれだけ対話を重ねても、その距離が縮まることはない。

「俺だってルーヴが傷つくのは嫌だ。だから努力するんだろ、強くなろうって」

「……ヒーロー」

 ルーヴの唇から漏れた言葉に、慧の心臓が高鳴る。

 聞こえなかった振りをしてお茶を飲むが、彼女の視線は最早星を見てはいない。

 慧の方を真っ直ぐに、何か言いたげに紅い瞳が揺れている。

「わたしが慧をヒーローにさせてあげる」

「ヒーローってのはそう言うんじゃないよ」

「わたしは強いから、慧のために戦うから。だから、慧は戦わないで。きっと、死んじゃうから」

 治癒魔術で治された傷口にルーヴは顔を寄せる。

 雪嘉の霊薬ほどの効果がない慧の魔術では、完全な治療は成されていない。

「ありがとな」

 慧の手がルーヴの髪に触れる。

 彼女は驚いた顔で、それでも抵抗なくそれを受け入れていた。

「お前の気持ち、凄く嬉しい。でも、無理だ」

 片手に持ったカップが揺れる。

「そう言うんじゃないんだよ。俺が憧れて、約束したからさ。誰かを護るヒーローになるって」

「……でも、それは……」

「無茶はしないよ。ルーヴもいるし」

「……それは……うん」

 ルーヴの何か言いたげな表情が消えることはなかったが、結局彼女はそれ以降の言葉を飲み込んだ。

 厳密には今のルーヴにそれは言葉にできないだけではあるのだが。


 ▽


 それから数日後、日曜日を迎えた慧は玄関チャイムの音で起こされた。

 あれから連日、夜に紅錬の指示を受けて戦いに駆り出されていたせいか、なかなか疲れを取ることができず、起きたのは太陽が頂点に昇った頃だった。

 寝ぼけまなこのまま、ゆっくりとした動きで一階へ降りて、玄関へと向かう。

「今出まーす」

「よう。やっぱり寝てやがったな?」

「だらしないねぇ。早起きは三文の徳って知らないのかい?」

 扉を開けて、慧は絶句して、眠気など一瞬で吹き飛んだ。

 何故かそこに、恒也が立っている。 

それは別にいいが、恒也の横に立っていた人物が衝撃的過ぎた。

「お、やっぱ約束忘れてただろ? 携帯に連絡しても起きないから寝てるんじゃないかと思って正解だったぜ」

 今はそんな言葉も耳に入らない。

「お前……!」

「久しぶりだね。って言っても数日しか経ってないか。やー、ここ探すのに随分と苦労したよ」

「なんで……!」

「この子、お前の知り合いだろ? なんか道に迷ってたみたいだから一緒に来たんだ」

「そうそう。いやぁ、親切な人間がいて助かった助かった」

 先日死闘を繰り広げた鬼は上機嫌にそう言うと、慧の横をすり抜けて家に上がろうとする。

「お邪魔しまーす」

 その後に続いて恒也も靴を脱ぎ、家の中に入っていった。

 勝手知ったるなんとやら、何度か家に遊びに来ている恒也は案内するまでもなく廊下を進んでリビングへと向かう。

「慧?」

 その時ちょうど、二階からひょっこりとルーヴが顔を出す。

「あ、ルーヴさん。お邪魔してます」

「……慧の友達?」

「そうっす。この前会ったじゃないすか」

 こくりと頷いて、続いて視線はその前を歩く小さな鬼へと注がれた。

「……鬼?」

「やー、数日振り。そんな怖い顔しないでくれよ。今日は喧嘩じゃなくて、遊びに来たんだからさ。お土産もあるんだぜ」

「……その匂い……。ドーナツ?」

「ご名答! ささ、お茶でも入れてこいつを楽しもうじゃないか!」

 完全に慧を置いてけぼりにして、話は進んでいく。

「……なんなんだよもう」

 ルーヴにその気がない以上、鬼には逆らえない。そもそも一般人の恒也を巻き込むことはできないので、仕方なく全員分のお茶とお菓子の準備をすることになった。

 お盆にそれらを乗せてリビングに行くと、既に恒也と鳳几がソファを占拠し、その手前の床に座ったルーヴはガラステーブルの上にあるドーナツの箱を凝視していた。

「さて、慧君。俺が今日何しに来たか、覚えてるかね?」

 勿体ぶって、恒也がそんなことを聞いてくる。

「……今朝までは忘れてたけど、発売日今日だったね」

「そう! 今日は俺達二人が映画館で号泣したあの不朽の名作、ナイツ・オブ・ユニバースのBlu-ray、DVDの発売日だ!」

「号泣したのは恒也だけだろ」

「お前だってちょっとは涙ぐんでたじゃねえかよ! 彼女の前だからって格好つけんな」

「だから彼女じゃ……」

「おおー! これが噂のでぃーぶいでぃーって奴か! アタシ、見るの初めてだよ」

「へへっ、こいつはちょっと違うんだなぁ。Blu-rayの綺麗さはDVDの比じゃないんだぜ。しかも慧の家はテレビがでかい!」

 胸を張って言いながら恒也はBlu-rayを再生機器にセットしに行く。

 それにしても幾ら恒也が細かいことは気にしないとはいえ、幾ら何でも鳳几と馴染み過ぎではないだろうか。

「あ、心配すんなよ。軽い幻術でアタシの角は見えないようになってっから」

 まるで慧の心を読んだように鳳几がそんなことを言った。

「ほれほれ、慧も座れ座れ」

 ルーヴの横に座り、ドーナツとお菓子を四人分の皿に分ける。

 そんなことをしている間にも再生は始まり、最初は喧しく騒いでいた恒也と鳳几も次第に画面に集中していった。


 ▽


 さて、それから二時間後。

 ナイツ・オブ・ユニバースは終わり、今は真っ暗な画面に英語でスタッフロールが流れている。

「何回見ても感動するぜ」

 涙声で恒也が呟く。どうやら二度目にも関わらず泣いてしまったらしい。

「いやぁ、なかなか面白いじゃないか。あんな風に悪役をばったばったと薙ぎ倒すのはスカッとするねぇ。アタシも暴れたくなってきたよ」

 それは勘弁してほしい。

 実際、鳳几もだいぶ気に行ったようで、クライマックスのアクションシーンなどは身体を前に傾けて食い入るように見ていた。

 一方ルーヴは楽しかったのかそうでもないのか、ドーナツを食べ終えた後はひたすら退屈そうにして、最終的には慧の膝の上に頭を乗せて横になっていた。

「アクションもいいけど、やっぱりあのシーンだよ。主人公のジョナサンとヒロインが別れるシーン。一回見てるはずなのに、やっぱり泣きそうになっちまったよ」

「うーん。アタシはそこはいまいちだなぁ。ちょっと軟弱すぎるよ、ジョナサンは。無理矢理掻っ攫っちまえばよかったのにさ!」

「いやいやいやいや、あそこで別れたからストーリーに深みが出るのさ。お子ちゃまには判らないかぁ」

「ハハッ、アタシをお子ちゃまかよ。別にいいけどさ」

 議論を続ける二人を背に、後片付けをするためにルーヴの頭を退かして立ち上がる。

「なんで」

 ルーヴが立ち上がると同時に、鳳几と恒也の方を見て疑問を投げかけた。

「どうして、二人は一緒にいなかったの? 多分、好きあってたのに」

 ルーヴがそんな質問をすることが意外で、慧も立ち止まって二人の回答を待った。

「さあねぇ」

 鳳几はどっかりと、ソファに身体を沈めながらそう答えた。

「アタシには判らないなぁ。想像もできないよ」

「そりゃ、一緒にいたらお互いに危険が及ぶからだろ? ジョナサンはヒロインを護るために、別々の道を進むことを選択したんだ。くぅ~、男だねぇ! なぁ、慧!」

「急に俺に振るなよ。確かに格好良かったけどさ」

「一緒にいると、危険……」

 ルーヴは噛みしめるように、その一言を口にする。

 それはお互いの意見をぶつけあい、白熱する恒也と鳳几の二人に掻き消されて、誰の耳に届くこともなかった。

 それから一時間ほど雑談をして、恒也はBlu-rayを持って家に帰っていった。どうやら違う作品も見たくなったらしく、家に帰って一人で観賞会をするらしい。

 玄関まで恒也を見送って部屋に戻ると、ソファに身を沈めたままの鳳几が、笑顔で慧を迎えた。

「さてさて、邪魔者はいなくなったね。って言い方も失礼か。なかなか面白かったし」

 咄嗟に慧は身構える。映画鑑賞中、一度トイレに行く振りをして念のため持って来た符を握り、魔力を込める。

「そんな怖い顔するなよ。喧嘩しに来たわけじゃないって言ったろ? 今日は挨拶しに来たんだ」

 ソファに足を投げ出して横になる鳳几。その姿からは戦う気は全く見えない。

 慧の後ろにくっついているルーヴも、特に身構えた様子はなかった。

「慧。アンタ結構、幽世の魔物を殺ってるっみたいだね? いやいや、別にそんな怯えなくていいさ。神域の化け物を従えてるってもアンタ程度の魔術師に殺られる雑魚のこのなんか知らないからね」

「幽世の魔物は、厳重な包囲網に阻まれて殆ど被害を及ぼせない。それどころか今は各個撃破されてる」

「そーそー。困ったねぇ。実はさぁ、結界が破壊されたのはいいんだけど、アタシが表に出れたのが運がよかったみたいでさ、他の連中が思ったようにこっちに出てこれないんだわ」

 まるで世間話でもするように言いながら、鳳几は空になったお茶のお代わりを求めてきた。

 来客用の湯呑を受け取ってキッチンへ向かうと、鳳几もソファから立ち上がり話を続ける。

「――で、今はアタシらも潜伏中ってわけ。そう言うのが得意な奴がいるおかげでこうしてドーナツを買うこともできるようになったんだ。いやぁやっぱり千年前とは全然違うね。慣れるのに苦労したよ」

 ドーナツの空箱を握り物して、ゴミ箱に放り投げる。

「ってことで今日は、アタシがまだ生きてるってことと、本隊が来るまで停戦ってのを伝えに来たのさ。アタシは別に暴れてもいいんだけどね、連れが煩くてさ。一度負けたんだから大人しくしてろって」

 新しくお茶を入れた湯の身を渡すと、それを上機嫌に一口で飲み干し、テーブルの上に置く。

「わたしは確かに、お前の首を斬った」

「鬼がその程度でくたばるわけないだろ? あの状態で心臓までやられたら危なかったけどね」

 ルーヴの疑問に答えると、鳳几は慧を押し退けてリビングから出ていく。

「それじゃあ、言いたいことも言ったし。今日はお暇するよ。ほれ、玄関まで見送っておくれ」

 言われるままに、慧は玄関まで鳳几を見送る。

 靴を履いて、ドアノブに手を掛けてから、鳳几は再度慧の方を振り返った。

「停戦っても勘違いすんなよ。ここんとこで暴れてる雑魚は幽世から来ててもアタシの仲間じゃないかんな? 好きに殺しちゃえよ。でもな」

 鳳几の顔が変わる。

 牙を剥きだしにして、今日一日見せることのなかったあの獰猛な笑みに。

「慧。アンタは弱いなりに、アタシに認めさせんだ。あんまり阿呆なことしてんじゃないよ」

「幽世の奴等を狩ってることか? だったらお前に指示される筋合いはない。あいつらが人に危害を加えるからやってるんだ」

「……そーじゃないんだけどねぇ。まあいいや。それで駄目になるのも人間らしくて一興かな」

 その言葉の真意を確かめる前に、鳳几は外に出て、これ以上の問答を止めるために音を立ててドアが閉じられた。

 訪れた静寂の中、慧は彼女の言葉を頭の中で反芻するも、答えが出ることはなかった。


 ▽


 鳳几が家にやってきた日から数日間、慧とルーヴはそれまでと変わらない日々を送っていた。

 昼間は学校に行き、夜は紅錬の手伝いをして魔物を狩る日々。

 戦いの中で慧は少しずつではあるが実践を学び、確かな成長を噛みしめていた。

 その日も同じように紅錬のメールを受け、逸れでた幽世の魔物を退治する。いつもと少し違うのは、普段は姿を現さない彼が陣頭指揮を執っているということだった。

 事が終わる頃、既に時刻は十一時を回っていた。霧雨が降り注ぐ駅前の街並みはどんよりとしていて人の姿はない。

「こっちは全部終わりました」

「そうかそうか! いやご苦労様だ。やはり君は優秀だな。霧代家のご子息というのがよく判るよ!」

 電話口では紅錬がいつもの通りに陽気に語りかけてくる。お世辞なのかもしれないが半端者の慧にすらそんな言い方をしてくれるのは、彼の器の大きさなのだろう。

「慧君、どうかな? もし君に時間があるのならば、少し付き合ってくれないだろうか?」

「え、あ……。別に大丈夫ですけど」

 幸いにして今日は金曜日の夜。明日は学校が休みなので、夜更かしをしても問題はない。

 横目でルーヴを見れば、慧の手を握ったままふるふると首を横に振っているが、彼女の我が儘はいつものことなので無視することにした。

 指定された場所は、駅前に立てられた六階建ての大型のビルだった。慧が子供の頃には多くのテナントが入り、何度か家族で訪れたこともあったが、管理者がいなくなったのか、今では廃ビルとなっている。

 真っ暗なビルに、裏手の非常階段を上がる音だけが響く。四階に付いた辺りで休憩がてら景色を見下ろせば、まだ街には僅かではあるが灯りが燈っていた。

 何も知らずに生活する人々の平和を護る。そんなことをしている事実が、慧の心を震わせた。それこそ、慧が望んでいた姿でもあったからだ。

「ルーヴ。疲れてないか?」

「大丈夫。でも帰りたい」

「あんまり我が儘言うなよ。紅錬さんは俺なんかを使ってくれるんだから、しっかり挨拶はしとかないと」

 それきり、ルーヴは押し黙る。

 六階を越えて、二人は屋上へと辿り付いた。

 強い風に身体を打たれ、思わずよろけそうになりながら上がりきると、そこには紅錬が一人で立っていた。

 以前会ったときと同じスーツ姿の偉丈夫は、慧の目から見てまさに魔術師の家系、その当主に相応しい貫禄がある。

 それだけではない。

 そこに立つ彼の姿は夜に溶け込みながらも決してその存在感を薄れさせることはない。まるでそこにあることが当然のように。

「こうして会うのは久しぶりだね! 慧君、ここ数日の間での君の活躍は素晴らしいものだ! 果たして何匹の幽世の魔物を討滅してくれたものか」

「いえ、そんな……。俺なんかまだまだです」

「そう謙遜したものではないよ。寒かっただろう? 飲んでくれたまえ」

 缶コーヒーを二つ、紅錬が手渡す。

 慧は傍に寄ってそれを受け取って、一つを少し後ろに立ったまま黙っているルーヴに手渡した。

 同時にプルタブが開かれて、二人は一口飲む。ブラックの苦味が口の中に広がり、慧は無意識に顔を顰めていた。

「……にが。毒?」

 ルーヴは早々に呑むのを諦めていた。

「それで、話って何ですか?」

「そうだったね。うむ、果たしてどこから話せばいいものか……。生憎私は話ベタなもので悩んでしまうよ」

 懐から自分の分のコーヒーを取りだして、紅錬は喉を潤す。

 それから改めて慧に向き直り、真剣な表情を作った。

「こんな言い方は心苦しいのだが、慧君。君は霧代家からの受けはそれほどよくはない。これは間違っていないね?」

「……それは、はい」

「そんな顔をしないでくれ。これは決して暗い話ではないのだ。霧代家は魔術の研究、解明には大きな発言力と実績があるが、決して実戦的な家柄ではない。だからこそ、こうして前線で戦う勇気を持つ君は評価されないと私は踏んでいるのだ」

「……俺に魔術の才能がないのは事実ですから」

「残念ながら、私にはそれを否定してやることはできない。だが!」

 紅錬の手が伸びて、慧の手を握る。

 ずっと夜の中にいた所為か異常に冷たいその掌は氷のようで、申し訳ないと判っていても慧の背筋を悪寒が駆け巡る。

「君には勇気がある! 決して負けず、そして逃げない心の強さがあるのだ!

 そこで慧君。私は君を久良岐家に迎え入れたい。私達の研究してた魔術を受け入れて、更なる力を手に入れるのだ」

 ゆっくりと二人の手が離れる。

「紅錬さん……。ありがとうございます。でも、無理ですよ、俺には」

「私はずっと憤っていた。幽世の者達に対抗するために魔術の最古の名門、皇家が関東一帯の魔術師の当主を集めた会議でも、誰も彼もが消極的な意見しか口にせず、己の手の内を明かそうとしない! 彼等は無関係の人々が巻き込まれるよりも、自らの魔術が外に漏れることを嫌がったのだ!」

 怒りを含んだその勢いに慧が驚いていると、今度は一転して優しく、勇気付けるように語りかけてくる。

「無理ではない。無理ではないぞ慧君! 私は君の心を、勇気を信じている。君こそ私と共に忌むべき魔物達からこの世界を護るヒーロー足りえる男だと!」

 慧の両肩に手を掛け、紅錬が語りかける。

 その声は魔性の響きで、少しでも気を抜けば心を許してしまいそうになるほど甘い香りがした。

「紅錬さん……」

 頷きかけた慧を正気に戻したのは、目の前を一閃した剣線の光だった。

「慧に何するつもりだ?」

 二人の手は離れ、ルーヴは剣を持ち臨戦態勢で紅錬を睨みつけている。

「おやおや、凶暴なことだ。決して悪いようにはしないよ。神に誓おう。私は彼が望むもの、力を与えるだけだ」

「黙れ!」

 激高したルーヴの目にも止まらない剣捌きが、紅錬の腕を傷つける。

 慌てて手を引っ込めた紅錬は呆れ顔で慧を見た。

「慧君。すまないが、君の精霊を大人しくさせておいては貰えないだろうか?」

「ルーヴ! 大人しくしてろ」

「やだ。あいつは慧に危害を加える。慧を人じゃなくするつもりだ」

 いつの間にか霧雨は止み、雲が切れて月の光が降り注ぐ。

 眩いばかりの月光の下に覗いたのは、斬られた個所が瞬く間に再生してく紅錬の姿。

 そしてその口元に覗く、決して人のものではない鋭い牙だった。

「こ、紅錬さん……。貴方は……」

「うむ、うむ。別に隠していたつもりもないし、君達を騙してもいない。久良岐紅錬は間違いなく、君達と共に幽世の魔物と戦う同士にして……」

 夜の闇が騒めく。

 きいきいと喧しく集まってきたのはこの街に生息する蝙蝠達だ。

「夜に生きる者。君達の言葉ならばこう呼ばれているね。吸血鬼、ヴァンパイアと」

 闇夜に輝く瞳、傷つけられてもすぐさま再生する身体。

 目の前の人物は人間ではない。幽世の魔物にして人に害を成す者、夜の王ヴァンパイア。

 伝説の怪物を目の前にして慧は言葉を失う。

「慧君、君に問う。私の眷属として生きるつもりはないか? そうすれば君に唯一足りなかったもの、力を約束しよう。かつて許嫁だった雪嘉君も一緒だ」

「雪嘉!? ひょっとして雪嘉も……!」

「ふははっ、それはどうだろうな? 眷属となれば教えてあげようじゃないか」

「……それはできません」

「そうか。残念だよ」

 その言葉は嘘ではない。

 心底落ち込んだ様子で紅錬は項垂れる。

 しかし、すぐに顔を上げると、再びその瞳は嫌な光を放っていた。

「君の協力が得られないのならば仕方がない。その精霊は力尽くで連れて帰るとしようか」

 言い終えるのとほぼ同時に、ルーヴの剣が紅錬の首を刎ねた。

 仰向けに倒れた紅錬の身体は、まるで霧のように夜闇の中へと溶け消えていく。

「素晴らしい! やはり君は凄いな、精霊! ルーヴ君と言ったかな? 私の、いや人類の剣となるのに相応しい!」

「……わたしは慧のもの。そんなのは知らない」

 いつの間にか月は隠れ、空は分厚い雲に覆われている。

 その闇の中、反響するように紅錬の声だけが響き渡っていた。

「どういうことですか!? 紅錬さん、貴方は幽世の魔物だったんですか!?」

「それは違うぞ、慧君! 私は身体こそ魔物だが心は違う。君と同じ人間だよ! ただ少しばかり、目的のために犠牲にした部分はあると自覚しているだけさ」

 再び紅錬の姿が現れる。

 間髪入れずルーヴはそこに剣を振り下ろすが、今度は簡単にはいかず、長く伸びた爪でそれを受け止める。

「うんうん。非常に強い。このまま戦っていては私は不利だろう」

 空いた方の手が開かれ、その前に赤い魔力の輝きが灯る。

 それは陣を描きだす。まるで血で描かれたような、紅き魔方陣を。

「私は半端者の吸血鬼でね。純粋な能力では幽世のそれに比べて遥かに劣るだろう。彼等はその名の通り夜の王、一方の私は所詮紛い物のなりそこないに過ぎない。しかし!」

「ぐ、あ……!」

 全身が重く、熱い。

 身体の中を流れる血を、焼けた鉄にでも入れ替えられたような痛みを受けて、慧は呼吸もままならず地面に崩れ落ちた。

「久良岐の魔術は吸血鬼由来の血を操る血魔術。対抗策がなければほらこの通り。私の《ブラッド・オーダー》の前に身動きも取れないだろう?」

「慧!」

「動かないことだ、精霊! 私が力を込めれば、残念ながらそれだけで慧君は全身の血を暴れさせ死に至る。君の剣はそれより早く私を斬れるかも知れないが……」

 伸びた爪で、紅錬は自らの首筋を傷つける。

 頸動脈に深く突き刺さったそこからは瞬間的に大量の血が流れだすが、すぐに治癒された。

「私を殺しきることはできないだろう」

 苦しい、声にならない呻き声が漏れ出ては闇の中へと消えていく。

 叶うことならば血を全て吐きだして楽になってしまいたいと思ってしまうほどの苦痛が、慧の心を蝕んでいた。

「そんな怖い顔をしないでくれたまえ。君さえ力を貸してくれれば、慧君にこれ以上の被害は与えないさ」

 ルーヴに何かを言おうとしても、最早声を出すこともできはしない。

 紅錬は一度だけ慧を見て、すぐにルーヴへと視線を戻した。

「それにこう考えてはどうかな? 君が慧君の元を離れれば、彼はこれ以上の無茶をすることはなくなるだろう。その上で、ルーヴ君の功績は全て彼のものになる。彼は精霊を呼び出した魔術師として栄誉を得るだろう! 勿論、私にとっては既に慧君は偉大な魔術師なのだけどね!」

「ルー……!」

 絞り出した声は、形にならない。

 必死で顔を上げる、ルーヴに訴えるために。

「……わたしがいなければ、慧は危険じゃなくなる……」

 ルーヴは視線を逸らす。

 それは今日まで彼女が絶対にしなかったことだった。

「心を痛めていたのは私とて一緒だ。慧君の心には敬服するが、残念ながら彼は余りにも無力! ……しかし! しかしだよルーヴ君。君の心次第では慧君は最も欲しがっていたものを手に入れるのだ!」

 抗議の声を放つこともできない。

 いつの間にか月は隠れ、重苦しく空に広がった雲からは、先程の霧雨とは比べ物にならないほどの大粒の雨が落ちてきた。

(ルーヴ、行くな! そいつの言うことなんか無視しろ!)

 心の中でどれだけ叫ぼうと、それはルーヴに届かない。

 むしろ思えば思うほど苦しみが増し、慧の意識は少しずつ薄れていく。

(そんな顔するな!)

 ようやくルーヴが慧の方を見たとき、彼女は泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。

(……そんな顔…するな……)

 世界が混濁する。

 苦痛に耐えきれなくなった身体が、意識を手放すことでどうにか楽な最期を迎えさせようとしていた。

 薄れゆく意識の中で最後に慧の目に入ってきたのは、小さくだが確かに頷いたルーヴの姿だった。


 ▽


 しとしとと冷たい雨が降りしきる。

 慧が次に目覚めたのは、自室のベッドの上だった。

 閉じられたカーテンの向こうからは、聞いているだけで気が滅入るような雨音が絶えず響いている。

 静かに、ゆっくりと扉が開かれる。

 ルーヴはそんな扉の開け方はしない。

 顔を覗かせたのは、かつての許嫁で幼馴染の少女。

「雪嘉……!」

 ベッドから上半身を起こして、彼女を出迎える。あれほどの痛みが嘘のように、今は健康そのものの身体となっていた。

「紅錬さんから話は聞いたわ。ルーヴのこと」

 頭の中がカッと熱くなる。

 思わず雪嘉に掴みかかってしまいそうなほどの怒りが全身に巡るが、そんなことをしても意味がないと自分を抑える。

 そう、雪嘉も慧と同じだ。

 無力故に、自分で自分の道を決めることもできない、弱い子供だった。

「雪嘉は……」

 慧の疑問を先回りしたように、雪嘉は首を横に振る。

 彼女は紛れもなく人間だった。吸血鬼の眷属ではない。

「わたしは贄だから」

「……え……?」

 嫌な言葉が聞こえた。

 その意味を理解するのを脳が拒んでいる。

 それも長くは続かない。魔術を学んだその知識は、すぐに雪嘉と贄、その二つの言葉を結び付けた。

「幽世の結界が破壊された次の満月、吸血鬼の力が最大に高まる。その夜に純潔の乙女の血を喰らうことで、久良岐の魔術は完成する。だから、わたしは彼に選ばれた」

 慧の決して悪くはない頭は、それだけで全てを理解してしまった。

 慧が出来損ないだったことにより、雪嘉の実家である御代家は大打撃を受けた。名家である霧代に嫁がせてその威光を得ようとした計画が失敗したからだ。

 だから、御代家は次の計画を立てた。

 それは吐き気がするような、間違っても親が子にするようなことではない惨劇。

 お互いの家の同意とはいえ婚約を破棄された雪嘉を、久良岐の魔術完成のための生贄として売ったのだ。表向きは新たな嫁ぎ先として。

「そんな……! 雪嘉、なんで言ってくれなかったんだ!」

「……言ったら、何か変わったの?」

 雪嘉の声は重く、泥のように慧の心に絡み付く。

「あんたがわたしを攫ってくれた? 違うわよね。あんたはわたしがどうなろうと知ったことじゃなかった。自分の中のつまらない理想にしがみついて、あたしのことなんて……!」

「違う、違うよ雪嘉!」

「違わない! 違うんだったら……!」

 雪嘉は言葉を飲み込んだ。

 その先を言ってしまえば、慧をもっと傷つけることになる。

「雪嘉はいいのか? だってこのままじゃ、雪嘉は吸血鬼の眷属になっちゃうんだぞ?」

「いいも悪いも、それしかないじゃない」

「そんなの間違ってる! 今からでも遅くはないから、両親に……」

「あんた、同じ立場でお父様に言える? 自分の我が儘で今更生き方を変えられる?」

 慧が答えを言い淀むと、雪嘉は更に責め立てた。

「言えないでしょ。魔術師ってそう言うものだもんね。家の方針、当主の命令には絶対だもん。だからあんたは、あたしとの絆だって容易く捨てたんじゃない!」

 その一言は、慧の胸を貫くに充分な威力を持っていた。

 反論がないところを見て、雪嘉は気が済んだのか緩慢な動作で背を向ける。

 その寸前、彼女の目元に光るものが見えたが、慧にはそれを拭ってやることなどできそうになかった。

「……紅錬さんが気を利かせてくれてね。あんたが無事かどうかの確認のついでに、お別れを言いに来ていいって許してくれたの。……次の満月には、わたしは完全にあの人のものになっちゃうから」

 立ち直れない慧を余所に、雪嘉はドアノブに手を掛ける。

「……それじゃ、サヨナラ。あの精霊のことは悪いようにしないって、紅錬さんからの伝言」

 立ち上がって、雪嘉を引きとめるべきなのだろう。

 頭では判っているのに、慧の身体は動かない。

 自分の冷静な部分が、例えここで雪嘉を止めても何も起こらないと分析する。

 そしてその結果に対して反論ができない以上、慧はどうすることもできなかった。

 ルーヴのいない慧は、無力すぎた。

 雪嘉の姿が消えて、扉が閉じられる。

 しばらくはその無機質なドアを見て呆然としていた慧だったが、やがてどうしようもないほどの感情の波が流れ込んでくる。

 その感情は笑いであり、哀しみであり、悔しさであり、怒りだ。

 自分が可笑しい。

 なんて馬鹿なんだと、己を嘲笑する。

 偶然精霊を手に入れた程度で、強くなったつもりでいた。ずっと憧れていたヒーローに近付いた気でいたんだ。

 本当は、ずっと同じ場所で足踏みしていただけだというのに。ルーヴという光があったせいで、少しでも前に進んでいると錯覚していただけだ。

 その結果がこれだ。全てを失った。

 そればかりか、幼い頃に失いかけて、それでもまだ何とかなったかも知れないものすらも、もう取り返しがつかない。

「……うぅ、うわああぁぁぁぁぁぁぁ!」

 声にならない嗚咽は、次第に泣き声となって静かな部屋に響き渡る。

 もう、慧の手の中には何もない。

 無力である。それだけで全ては滑り落ちていった。

 それを一人でもう一度拾い集められるほど、慧は強くない。

 空から落ちる雨は重苦しく、世界を灰色に染め上げていく。

 まるでこれからの慧の見る景色のように。

 慧が憧れ、集めてきたヒーロー達は、何も言ってはくれない。ただ黙って、本棚から彼を見下ろしているだけだった。


 ▽


 それから長い間を、慧はベッドの上で過ごした。

 実際のところは三日しか経っていないが、慧にとってはまるで一ヶ月もそうしていたように感じられていた。

 数日振りに呆然としていた意識が戻ったのは、一階に人の気配を感じたからだった。

 勿論ルーヴはもういないし、雪嘉でもない。

 それでも無視するわけにはいかないと、気力を振り絞って身体を起こして一階へと降りていく。

 精神がここまで肉体に影響を及ぼすのかと驚くほどに、身体が重かった。

「こんちわー」

 控えめに、玄関から男の声がする。

 開きかけたドアから顔を覗かせているのは、級友の少年。

 その後ろから見える夕日が、数日振りの光となって慧の目を容赦なく焼いた。

「お、いたいた。元気か? ……って、見りゃ判るか」

 恒也は慧の顔色を見て全て察したらしい。

「携帯に連絡入れても全く反応ないからさ。心配して見に来ちまったよ」

「わざわざありがとう。お茶でも入れるよ」

「いやいや、構いなさんな。病人に無理はさせねえよ。顔見れただけで充分さ。それにどうせルーヴさんに手厚く看病されてんだろ?」

 不意に飛び出した名前に、慧は無様に反応してしまう。

 すぐにそれを取り繕うとするが、妙なところで鋭いこの友人を誤魔化しきることはできそうにもなかった。

「なんだ? 喧嘩でもしたか?」

「……近いかな。彼女、今は家にいないから」

「はーん。ま、慧は女心ってのが判らないだろうからな。さっさと謝って許してもらえよ」

「それ、お互い様だろ?」

 恒也は気を悪くした様子もなく、ニッと笑いかけてくれる。

「ほれ、土産。休んでて暇だろうから見てていいぜ」

 差し出されたのはナイツ・オブ・ユニバースだった。

 表紙では全身タイツに身を包んだヒーローが、勇ましい表情でポーズを取っている。

 それを受け取りながら、慧は頭の中に浮かんだ疑問を目の前の友人にぶつけてみることにした。

「恒也はさ、ヒーロー好きだよな?」

「おうよ。俺の人生はヒーローと共にあるって言っても過言じゃないぜ」

「恒也にとってヒーローってなに?」

「俺にとっての……?」

 慧の表情から何かを察したのか、恒也は腕を組んで真剣に考え込む。

 十秒ほどうんうんと唸ってから、何か思いついたかのように目を見開き、真っ直ぐに慧を見た。

「判らん! だってさ、弱気を助け悪を倒すナイツ・オブ・ユニバースも格好いいけど、夜の闇に紛れて法律じゃ裁けない悪に鉄槌を下すミスター・オウルマンだって立派なヒーローだろ? 相反してるけどどっちにも正義があって、どっちも俺にとっては格好いい。だから、つまり……」

 照れくさそうに笑いながら、友人は言葉を続けた。

「信じた何かに向かって、自らの意思で突き進んでいけるってことじゃないか? って、なんでこんな恥ずかしいこと言わなきゃならねえんだよ!」

 照れ隠しに怒った振りをする恒也を見て、慧はようやく笑いが込み上げてきた。

 別段笑い過ぎたわけでもないのに、目尻には涙が浮かび、それを拭おうともしないまま、真っ直ぐに恒也を見る。

「ありがとう。恒也も立派なヒーローかもね」

「へっ、俺程ヒーローに詳しければ、実質ヒーローみたいなもんだからな。慧も精進したまえよ」

 冗談めかしてそう言った友の目を見ながら、慧は強く頷く。

「頑張ってみるよ、俺も」

「まずは身体治せよ。今度はルーヴさんも楽しめそうなやつ、見繕って持ってきてやるからさ」

 それから軽く挨拶を交わして、恒也は帰っていった。

 踵を返すと、慧は来る時とは別人のような足取りで部屋へと戻って行く。

 準備が必要だ。

 今宵は満月の夜。

 失ってしまったものを取り戻すために。

 偶然の出会いではなく、慧自身の力で前に進むために。


 ▽


 一先ず慧が向かったのは、裏山にある例の洞窟だった。

 そこで数日の間に鋳造していた符を全て取りだして、ポケットにしまい込む。これを全て使い切れば慧は当分、ただの一般人になってしまうが今はそんなことは気にしていられない。

 符を回収して洞窟を出ると、空はすっかり夕日に染まっていた。

 決意を込めて一歩を踏み出すと、正面に見知った影を見つけた。

 洞窟を挟む小川の畔で、草の中に腰かけて清流に足を付けている少女の姿がある。

 見た目は無邪気に川で遊ぶ童女だが、その中身は凶悪そのものの鬼、鳳几は慧を見つけるともう何度か目にしたことのある牙を見せつけるような笑いを浮かべる。

「やあやあ、人間。調子はどうだい?」

 何処までこちらの事情を知っているのか、鳳几は白々しくそう尋ねた。

「よくはないかな。緊張で死にそうだよ」

「カカッ。そりゃ心配しなくていいよ。精霊を取り戻しに行くんだろ? だったらアンタが今から踏み込むのは間違いなく死地さ。あの西洋の怪物に問題なく殺してもらえるだろうさ」

「なんで知ってるんだよ? ストーカーか?」

「ストー……? まあいいや。アタシは結構アンタらのことは気に行ってるからね。仲間に頼んで監視させてたんだけど……。随分とつまらないことしてるじゃないか」

「そっちの方がよっぽどつまらないことしてるじゃないか」

 小さな足で水をぱしゃぱしゃと跳ね上げる鳳几を無視して、慧は先に進もうとする。

「鳳几様を無視するとはいい度胸じゃないか。後ろから刺されても知らないぞ?」

「ルーヴがいなかったら、俺がお前に勝てるわけないだろ? 後ろ向いてても正面からでも一緒だよ」

 背中越しにそう言われて、鳳几は腹を抱えて愉快そうに笑った。

 こうまで割り切った考え方をされるのは初めてのことだ。目の前の人間は、どうやら鬼が怖くないらしい。

「やっぱりアンタ面白いなぁ。じゃあ遠慮なく、殺らせてもらおうか……ね!」

 水飛沫が上がる。

 鳳几は座ったままの姿勢から飛び上がり、拳を向けて真っ直ぐに慧へと襲い掛かった。

 背中を向けている慧は例え気付いたところで、どうしようもない。

 一秒もせずに鳳几の拳は慧の後頭部を果実のように叩き割ろうとしたが、そんな彼女は空中で何かにぶちあたり、無様にも地面を転がっていった。

「あはははははっ! ようやく出てきた! 覗き見なんて趣味悪い真似はやめなよ、魔術師!」

 泥まみれになった顔を上げて鳳几が愉快そうに言うと、葉っぱが揺れる音がして、木の上から何かが落ちてくる。

 慧の正面にしっかりと着地を決めて、奇妙なポーズで佇んでいるのはあの日以来一度も会うことがなかったマグナだった。

「久しいな小僧! このマグナ様を覚えていたか? 忘れたところで再び思い出させてやるだけだがな、がっはっはっは!」

「生きてたんだ?」

「俺様があの程度で死ぬわけがなかろう。流石に傷が癒えるのにはそれなりに時間が掛かったがな。そして借りを返すために貴様の家に大量のドリアンを送りつけてやろうと思ったら、今度は久良岐の連中と一悶着起こしているではないか!」

 無事だったことには安堵する。一応は、彼に命を救われているのだ。

「でもドリアンはやめろよ」

「ガッハッハ。考えておこう。さて、それよりも本題だ。俺様は気が短いし更には気紛れなのだ」

 本題と言われても慧には何故マグナがここにいるのか全く見当がつかない。敢えて言うとすればまだここに無断で住んでいるかどうかの心配ぐらいのものだ。

「久良岐の一党だがな。連中は今日、大規模な幽世討伐を行ってから、儀式を完成させるらしい。その場に居るのは久良岐の婚約者の娘と、貴様の精霊だ。場所は……」

「なんでそんなことを知ってるんだ?」

「当然だ。久良岐家が精霊を手に入れたとなればその情報はどれだけ必死で秘匿しようと隠しきれるものではないからな。そうなれば様々な組織や一族が久良岐を監視対象にする。俺様はそれをちょっとばかし利用しただけだ」

「あんた凄いんだな……。質問はもう一つある。なんで俺にそれを教えてくれるんだ? そのメリットは……」

「それこそ最初に言った通りだ。気に入らん話だが、貴様には命を救われた。その恩を返すだけの話。俺様は義理堅いのだ」

 ふんぞり返ってそう告げるマグナ。

 そこでちょうど、慧の携帯電話が嫡子を告げる。

 ポケットから取り出して、着信相手を見て、慧は絶句した。

 表記されていた名前は霧代達臣。

 何故、このタイミングで父が連絡を寄越したのだろうか。

 慧の中で急速に膨らんだ嫌な予感は、電話を取ることで的中した。

「はい」

「ことの次第は久良岐から聞いている。監視を付けていたが、まさかとは思うが余計なことをしようとしているのではないだろうな?」

 厳しく諫めるような声。

 その戒めは鎖のように慧の心に絡み付き、考えを放棄させようとしていた。

「……ルーヴのことですか?」

「名前などに興味はないが、その精霊だ。アレを久良岐に渡すことで連中は霧代と協力体制を取った上で、幽世との戦いに当たる形になる。そうすれば霧代家は戦力を使うことなく戦ったという事実を得ることができるのだ」

 父の声は重々しく反論を許さない。

「……その話は聞いていません」

「出来損ないに語る必要はないと判断してのことだ。それとも貴様、精霊を呼び出した程度のことで家の決定に口出しできると勘違いしていたのか?」

 父の、その周囲の者達の冷たい眼光が慧の記憶の奥底から蘇る。

 たったそれだけのことで少年は、一切の思考を放棄してただ黙っていることしかできなくなった。

 頭の中で幾つもの言葉が回っては消えていく。父をどう説得したものかと必死で考えても、答えは出ない。

「慧。余計なことはするな。今動かれては霧代と久良岐に余計な亀裂が入りかねん。折角奴等を利用できる機会なのだぞ」

 近くで大きな音が響いた。

 ハッとして顔を上げると、マグナが銃を空に向けて放っていた。

「今の音は何だ?」

「……なんでもありません」

 マグナはにやりと不敵に笑い、その横で鳳几も同じような顔をしている。

 人を子馬鹿にするようなその表情を見て、人気持ちも知らないでと苛立ち、そして慧の心は決まった。

「父さん。その言葉は受け入れられません」

「なんだと?」

 父の声にまるで溶岩のような怒りが滲む。

「ルーヴは俺が呼び出した精霊です。あいつをどうするかは俺が決めます。それに、雪嘉も」

「いい加減にしろ、慧。今は子供の我が儘を聞いている時ではない。魔術師は一丸となって、幽世の者達に挑まねばならんのだ」

「息子を騙して、女の子を泣かせて、挙句お互いに協力する気もないのに利用しあって、それが一丸ですか?」

「……慧」

 父の声が、怒りに熱された空気の震えがこれが最後だと告げていた。

 きっとこれから先の一言で、父は慧を本当に息子とは見ないだろう。

 下手をすれば、出来損ないとはいえ霧代の魔術が漏れることを恐れて抹殺されるかも知れない。

 でも、そんなことはもう関係なかった。

「俺は嫌です。そんなのは認めたくない。だから、自分の意思で信じる道を行きます」

 霧代慧は今、決別した。

 力なき故に背を向けていた日々と。

 家の道具ではなく、魔術師ですらなく。

 自らの意思で信じる道を歩むために。

 重苦しく、息を吐く声。

 慧が次の言葉を待っていると、横合いから伸びた手が携帯電話を奪い取った。

 それを手にしたのは鬼の少女。鳳几は何処に向かって喋ればいいのか一瞬迷ってから、正面に持って喋りはじめる。

「おい、人間の魔術師。アタシは鬼だ。一言だけ言わせろ」

 電話の向こうで父が絶句している。鳳几はそんなことはお構いなしに続けた。

「つまらない、くだらない。アンタ達は千年経っても成長しない大馬鹿野郎どもだ。お互いで騙しあって、手柄を取りあって、いったい何のためにそんなことをする? その力は、研鑽してきた技の数々はアタシ達化け物を殺すためのものじゃないのか! だというのにつまらぬ権謀術数でそれを台無しにする」

「人に成りきらぬ化け物の分際で……」

「図に乗るなよ人間!」

 大気が震える。

 鳳几の叫びは咆哮となって、裏山の木々を揺らし、近くにいた生命の気配はそれを受けて一目散に逃げ去っていく。

 鳥が飛び去る音が消えてから、ゆっくりと鳳几は語りはじめた。

「誰が人に成りきらぬものだ! 鬼は元より人を遥かに超えし者、神々に唾吐く孤高なる反逆者ぞ! 愚かな人間共よ。貴様等は一番の英雄から武器を取り上げ、挙句群れるしかできぬ身でありながら互いを利用するだけしかしない。そんなもので幽世の魔物が倒せるものか。塵芥に等しき生命の分際で、我等を侮るな!」

 言いたいことを言ってから、鳳几は携帯電話を慧に投げてよこす。

 既に通話は途切れ、その向こうからは何の反応もない。

「あー、気持ちよかったぁ!」

 晴れ晴れとした顔で、鳳几は天を仰ぐ。

 何か言ってやりたかったが、その前に横目でこちらを見て、屈託なく笑いかける。

「さ、これ以上の道草は充分だろ? 行きなよ、人間共。

 もう一度言うよ。アタシはアンタ達二人を気に入ってるんだ。だから一緒じゃないと意味がないんだよ。現代にて今のところ唯一鬼殺しの名を持つ英雄は、二人で一つなんだからね」

「……ありがとう」

「ヘヘッ、敵に礼を言われるのは変な気分だね。でも、悪くない。精霊を取り戻したら言っといておくれよ。また殺りあおう、今度はアタシが勝つってね」

 頷いて、マグナを先頭に二人は去っていく。

 その後ろ姿を見送りながら、鬼は満足げに手を組んで頭の後ろに持っていく。

「そうそう。これでこそ還ってきた甲斐があるってもんさ。人間共、必死で足掻いて挑んでくるがいいさ、怪物達にね」


 ▽


 そこは街外れの工場跡だった。

 破壊された天井、張り巡らされた鉄骨、今や光を放つことはない蛍光灯。

 何本もの柱の合間には既に動かなくなって埃を被った工業機械や重機がそのまま放置されている。

 開け放たれた入り口からは風によって運ばれた砂が積もり、最早屋内であることの意味を完全に消していた。

 あちこちに瓦礫や木材が散乱するそこには、当分人が立ち入った気配はない。

 その工場の外側が慧とルーヴの再会の地であったことは、当然紅錬は知らない。

 時間は既に夜半を回り、崩れた天井からは満月が覗く。

 この上なく魔力が充実した夜だった。

 狩りを行い、成果は充分。新たなる力に捧げる供物としては申し分ない。

「ルーヴ君。今日もお見事だったよ。後でチョコレートをあげよう」

「……興味ない。わたしは壊して殺すだけ」

 この始末だ。

 慧の傍を離してからこの精霊とはまともに意思の疎通もできない。一応彼の命を護るためか戦いこそはするが、それ以外では全く無感情に見える。

 魔力は弱まり、すぐにでも消えてしまいそうなほどに弱々しいがその反面戦闘能力は凄まじく、まるでリミッターが外れたかのように暴れまわり、魔物を殺し尽くす。今宵も彼女が殺した数は十を超えていた。

 そしてもう一人、自らの傍らに立つ少女に視線を向けた。

 御代雪嘉。

 長く続いたが既に殆ど勢力を失った御代家から捧げられた少女は、その命を持って御代と久良岐を結び付け、お互いの繁栄を約束するだろう。

 権力闘争に敗れ勢力こそ失ったが、御代家に代々伝えられてきた魔力の純度は高く、吸血鬼の贄としてはこの上なく魅力的だ。

「雪嘉君。勘違いしてはいけない。君は死ぬわけではないのだから」

 声を掛けられた雪嘉は大きく身を竦ませる。

「私の眷属となって長い時を生きるのだよ。確かに君の意識は消えてしまうが」

 安心させるために肩に手を置く。

「君のことは大切にすることを誓おう。なんなら、彼の……慧君の傍で彼を護ってもらうのも悪くはないね」

 冗談とも本気ともつかない、趣味の悪いその一言に、ルーヴはほぼ反射的に剣を振るっていた。

 怒りのままに振るわれた神速の太刀は紅錬の片腕を切断し、夥しい量の血が床に垂れていく。

「ハハハッ、これはちょうどいい。……時間だ」

 斬られた手が霧になって消える。

 瞬きする間もなく、紅錬の手も元に戻っていた。

 床に落ちた血が見えない何かになぞられるように床に巨大な魔方陣を描いていく。

 その真紅の陣は月光を浴びて、この上なく不気味に輝き脈動していた。

「雪嘉君、中央に」

 全てを諦めた雪嘉は言われるがままだ。

 彼女をできるだけ怯えさせないように、優しい動作で肩に触れた。

「そう言えば、聞き忘れていた」

 首筋に牙が届く瞬間、紅錬は思い出したかのように顔を上げる。

「雪嘉君。慧君に対する遺言はどうする? 私が責任を持って彼に伝えよう。魔力の満ちる時間は余り長くはないが……。まぁ、三十分ぐらいなら時間はあるし、手紙でも……」

 その悪趣味な提案に、我慢できず雪嘉は声にならない嗚咽を漏らす。

 もう虚勢も諦めもなかった。流れ出る涙を拭うこともせずに、必死で声を絞り出す。

「……慧…助けて……」

「これは困った。物分かりのいい雪嘉君がこの土壇場で我が儘を言うとは……。しかし、残念だけど諦めてくれ」

 遺言はないと、紅錬は判断した。

 逃げようとする雪嘉を強引にその場に拘束する。幾ら雪嘉が暴れても吸血鬼の力からは逃れることはできない。

「では雪嘉君。これまでの人生にお別れを。そしてここから始まる新たなる生に乾杯しようじゃないか」

 祝杯を上げるワインでも持って来ておくべきだったか。

 そんなことを思いながら、紅錬の牙が白い喉に迫る。

 ルーヴはそれを止めようとしたが、慧のことを思うと手出しすることはできない。どんなに早く剣を振っても、紅錬を一撃で殺すことができない以上、慧を危険にさらすことになる。

 見えない衝撃が紅錬を撃ち抜き、彼が吹き飛んだのは、牙が喉に触れるほんの一ミリ手前のことだった。

 空中で姿勢を変えて、紅錬はすぐさま立ち上がる。

 見えない弾丸が飛んできた方向に、無造作に魔力を放つ。同じく不可視の衝撃波は床を抉り、壁を破壊しながら進んでいく。

 問題なのは紅錬を撃った曲者ではない。

 彼は、入り口から堂々と入って来ていた。

 それは紅錬の目にはまさに、勇気ある者の行進のように見える。

「やはり、やはり来てくれた!」

 導いたわけではない。

 彼がここでルーヴを召喚したように、紅錬がこの場所を選んだのは、ここがこの辺りの街では最も魔力が集まりやすい場所だからだ。

 霧代家の所有する山よりこちらの方が外界から流れ込む魔力が濃い。幽世の魔術や召喚魔術を使うのならばこの場所の方が優れていた。

「霧代慧! 私の期待した通りだ! 君はやはり奪われるだけではなかった! それでこそ鬼を退けた英雄だよ!」

 霧代慧は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 果たして無策の特攻かそれとも何か考えがあるのか。

 いずれにしても紅錬の頭の中にはもう、彼のことしかなかった。


 ▽


 果たしてこれはどういうことだろうか?

 紅錬の前に立った慧には、困惑だけがあった。

 何故、この場に邪魔をしに来たはずの自分を彼は歓待しているのだろうか。

 全身で喜びを露わにする白髪の偉丈夫は、奇妙を通り越して不気味ですらあった。

 その瞳は喜びで真紅の輝きを帯び、急ぎ雪嘉の血を吸わねば力を得ることができないことすらも忘れているようだった。

「よく来たね、慧君! こんな場所じゃなければお茶の一杯でも出して歓迎したいところだが、生憎とトマトジュースしかない。飲むかい?」

「俺はあんたと冗談を言いあいに来たんじゃない。ルーヴと、雪嘉を返してもらいに来た」

「ほう」と、紅錬の目が細まる。

 その瞳はやはり人間の物ではなく、彼が人外であることを語っていた。

「ルーヴ君はいいとしよう。彼女は君が呼び出した、確かに所有物と呼べるかも知れない。しかし、雪嘉君はどうかな? 彼女は久良岐家のものだ」

「どっちも違う。ルーヴにも、雪嘉にも好きに生きる権利があるだろ。久良岐も、霧代も、御代も関係ない」

「あるさ、あるとも! その家に生まれたのだ! 子供が一人で自由に生きられるわけがない。庇護を受ける代わりに尽くすのは道理ではないかな!?」

「別にそれが正しいかどうかは問題じゃないんだ」

 普通の家庭ならば、それは間違っている。

 魔術師の家系ならば、正しいかも知れないが、今の慧にとってそんなことは問題ではない。

「俺が気に入らないんだ。そんなのは嫌だから、ぶち壊しに来た」

「く、ははっ! 素晴らしい!」

 吸血鬼の牙が覗く。

 夜の王は慧の言葉を聞いて、余りのおかしさに笑いを抑えることができないでいた。

「君は最高だよ慧君! いや、霧代慧。ならばこの夜の王の力、摂理を外れた醜き不死者の力を持ってして、屍を晒すといい!」

 ブラッド・オーダーが発動する。

 掌に広がった紅い魔方陣は高速回転して、見えざる糸で慧の身体の中の血を暴れさせ蹂躙する。

 下腹に力を込め、奥歯を強く噛みしめる。

 予め身体に貼り付けてあった符が、相手からの危害に反応して魔術を発動させた。

 全身を打ち抜く苦痛だが、それでも前回よりは遥かにマシだった。

 慧の全身全霊を込めた呪い除けの符によって、ブラッド・オーダーを耐えることに成功していた。

「ブラッド・オーダーを耐えるか!」

「ルーヴ!」

 あらん限りを込めて叫ぶ。

 あの鬼は言っていた、慧は一人ではないと。

 半人前以下の魔術師だが、精霊と共にあれば鬼すらも退けるのだ。

 一瞬躊躇ったルーヴだが、慧の瞳を見てすぐに動きだした。

 そこにある覚悟を悟ったのだ。ルーヴが紅錬を倒す間ぐらいは持ってみせると。

「ああああぁぁぁぁあぁぁぁぁ!」

 ブラッド・オーダーの拘束が強まる。

 棘付きの鉄線で全身を締め上げるような痛みは、次第に体内へと押し入ってくる。

「慧を苦しめるな……!」

 魔術を発動させながらも、紅錬は優雅な動きでルーヴを迎撃する。

 長く伸びた爪は、彼女の剣を受け止めるだけの硬度がある。

 そして夜の吸血鬼の力は、精霊と相対しても押し返せるだけの膂力を持つ。

「やはり違う。私の元にいたときとは動きが別人だ。より人間的で、流れるようで、見るものを魅了する。決して人には到達できぬ頂、神域にあるものよ」

 紅錬の爪がルーヴを掠める。

 彼女が怯んだ隙にもう片方の剛腕がその身体を打って吹き飛ばした。

 重機に突っ込みそれらを破壊しながらも、ルーヴは即座に態勢を立て直して再度紅錬に迫る。

「やはり精霊、私達とは格が違う! 魔術師は自らを欺いた、正体不明にして決して認めざる貴方達に精霊という名で呼んだ。だが、真実はどうか!」

「……知らない、興味もない」

 慧の全身が悲鳴を上げるなか、ルーヴは一手でも多く相手を斬り刻むために、自らのダメージは無視して前進する。

「貴方達の真実の名は天の精霊。全ての原初たる神の僕、魔術階位に於いて最上と呼ばれる天使の更に上に位置する者!」

「……いちいち……!」

 ルーヴの剣が紅錬の腹に食い込む。

 そのまま走り抜けるようにルーヴは紅錬の脇腹を切り裂いた。

 流れ出る血が、肉片が即座に霧になって消える。

「うるさい、お前」

「満月の夜の吸血鬼は無敵! さあて、そろそろ慧君が持たなくなってきたのではないか!?」

 紅錬の言葉に慧は、狂おしいほどの呻き声で答える。

 既に魔術による防御は消えて、あの時と同じ苦痛が内部から慧を苦しめている。

「慧!」

「ルーヴ……!」

 声を絞り出す。

 工場の中に響いて消えそうな慧の声は、確かにルーヴに届いた。

 その意を理解したルーヴは、再び剣を構えて紅錬に向かって行く。

「素晴らしい! 素晴らしいよ慧君! それでこそ君は英雄、ヒーローだ! だから私に見せてくれ、君の底力が勝つのか、それとも……!」

 魔方陣が紅く煌めく。

 慧の体内を蹂躙する血の呪いは更に勢いを増して、内部から身体を破壊すべく脈動する。

「ぐううううぅぅぅうううぅうぅ!」

 視界が赤から白へと変わり、意識を手放せと脳が訴えかけてくる。

 心もそれに応じるように、慧を内部から突き崩さんとしてきた。

 やはり無理だったと。

 出来損ないがやるべきではなかったと。

 弱い心が訴える。もう諦めてしまえ!

 自分を嘲る周囲の声。

 失望に満ちた父の瞳。

 あらゆるものが、慧の中の抵抗する力を奪おうと襲い掛かってくる。

 例えそれが幻覚だと、弱い心が見せている幻に過ぎないと判っていても、抗うことは容易ではない。

「慧君! 諦めたまえ! 君はよくやった。これ以上戦って死ぬことはない。判るだろう? 君がここで必死になる必要などないのだ。君より力のある者が後を請け負うのだから!」

「うるさい! ……俺は……!」

 力を込めて、崩れ落ちる身体を支える。

 そこに添えられる手があった。

「…ゆき……?」

「あんたって、ほんと駄目ね。助けに来てこのざまだもん。全然、格好良くない」

 ブラッド・オーダーの呪いが、掌を伝わって雪嘉に伝番する。

 額に汗を浮かべながら、雪嘉はそれでも慧のことを確かに支えて、その胸に手を当ててくれた。

「攫うならちゃんと攫ってよ。……ずっと待ってたんだから」

 彼女は何らかの魔術を用いて、慧の負担を半分自分に移した。

 例え半分でもそれは多大な痛みではあったが、今の慧には充分に耐えることができた。

 何よりも、自分のためにここまでしてくれた幼馴染に報いるためにも。

「紅錬!」

「何を見せてくれる、慧君!」

 符に包まれた何かを取り出す。

 血と共に内臓まで吐きだしてしまいそうなほどの体内のうねりを飲み込みながら、手前に翳したそこに魔力を注ぎこむ。

「私とて黙って受けるわけではないぞ!」

「……お前、いい加減に邪魔。お前の所為で慧の近くに行けない」

 ルーヴの剣が、振り向いた隙に紅錬の頭を背後から貫く。

 砕かれた頭は一瞬で再生するが、慧にとってはその時間で充分だった。

「貫けええええぇぇぇぇぇ!」

 魔術によって勢いを乗せて放たれたのは、銀の弾丸。

 吸血鬼を滅するための切り札としてマグナから持たされた、必殺の一撃。「小僧、これは貴様の戦いだ」と、マグナはこれを慧に託した。

 銀の弾丸は真っ直ぐに紅錬の胸に吸い込まれていく。

「ぐ、が……」

 そこから噴き出した真っ赤な血は霧になることはなく、その傷が再生することもない。

 不死の怪物は動きを止めて、初めて苦悶の表情を浮かべた。

 そしてしばしの静寂の後、

「があああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああぁぁぁあああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 天を割るほどの叫びが、苦痛の声が紅錬の口から放たれた。

 それは紛れもなく彼の崩壊を意味しており、その全身は煙を放ち、ゆらゆらと陽炎のように揺れている。

 そうして何秒ほど経っただろうか。

 紅錬の身体は何かが崩れるような音と共に、仰向けに倒れて動かなくなった。


 ▽


「……やった、のか?」

 ブラッド・オーダーの拘束が消えている。

 目の前には久良岐紅錬が倒れている。慧に撃ち抜かれた胸の部分から流れた血が、彼の下に血溜まりを作っていた。

 戦闘態勢を解いたルーヴが、ゆっくりと慧の方へと歩み寄る。

「……ルーヴ。ゴメンな」

 何についての謝罪であるかは、それを言った慧自身にも判っていない。

 ただルーヴは不機嫌そうな顔で近付くと、慧の正面に立って手を伸ばす。

 慧に向けて伸ばされたと思われたその手は途中で軌道を変え、その胸に手を当てたままの雪嘉の額に触れると強い力で彼女を引き剥がしにかかった。

「なにすんのよ!」

「邪魔。慧から離れろ」

「べ、別にあたしだって好きでこいつにくっついたんじゃないわよ! 死にかけてたから助けてあげただけよ!」

「もう終わった。離れろ」

「言われなくても……ってちょっと何すんのよ!」

 今度は腕を掴んで雪嘉を引っ張り遠ざけていく。

「このぐらい」

 今の慧と雪嘉の距離は三メートルほどになった。

「ふざけんじゃないわよ!」

 ムキになって慧に近付こうとする雪嘉と、それを阻むルーヴ。

「おいガキ共! そう言うのは家でやれ! まだ油断はできそうにないぞ!」

 工場跡の天井近くにある鉄骨の辺りからマグナの声がする。

 彼はその場所から油断なく銃を構えて、工場の外を監視していた。

 羽音と、足音が幾つも近付いてくる。

 入り口と、先程紅錬の魔力によって破壊された個所から、それらは姿を現した。

「……なんだ、こいつら?」

「眷属だな。吸血鬼に血を吸われ、その僕となり下がった連中だ。記憶は薄れ、意思は半分ほどしか残らんが、その代償として力を得ることができる」

「ルーヴ、戦えるか?」

「……うん」

 剣を取りだして進もうとするルーヴだが、その身体がよろけて、慧はそれを反射的に抱きとめる。

「……お前……!」

「慧と離れてる時間が長かったから、力が出ないかも」

「はぁ? 何よそれ!」

 雪嘉はマジックダガーを生み出しながら、声を上げた。

「あたし達だけでこの数を相手にするってわけ?」

「やるしかないだろ」

 符を構える慧。

 だが、それだけでは終わらなかった。

「慧! あいつ……!」

 その気配をルーヴが真っ先に察知する。

 倒れていた紅錬の身体が強く脈動していた。

 全身が心臓のように鼓動に波打ち、上から見えない糸で引っ張られるように立ち上がる。

「これは、いい」

 紅錬の口から漏れる言葉に答えられる者はいない。

「この日を待っていた」

 ドクン、ドクンと強い鼓動。

 吸血鬼は笑っていた。

 それはまるで、あの時の鬼のように。

「どちらかが悪であると言うならば、それはこの戦いに敗北した側になるだろう。だから私は負けられない。己の意思のままに生きる君達には、久良岐家五百年の歴史を否定させるわけにはいかないのだから!」

 紅錬の全身の筋肉が盛り上がる。

 腕や足は二倍以上に太く、その手は長い爪を持った異形と化した。

 伸びた牙が口からはみ出し、赤黒い肉で覆われた顔つきは最早人間の物ではない。

 巨大な悪魔、まさに夜の王。

 不死者の王、命を冒涜する悪鬼。

 ヴァンパイアの姿がそこにあった。

『私は完全にして不滅なる夜の王』

 地響きのような声が響く。

 その顔にも声にも、紅錬の面影はない。

『それでは始めよう、慧君。私と、私の眷属と君達の決戦だ』

 一歩の歩みが世界を震わせる。

「小僧!」

 上から降りてきたマグナが、慧の背後の眷属達に銃撃を浴びせる。

「こいつらの相手は任せてお前は奴をやれ。切り札の銀の弾丸はもうないが、お前と精霊ならやれる! 精霊じゃない方の女、貴様はこっちを手伝え、結界ぐらいは張れるだろう!」

「勝手な指示出さないでよ! だいたい、あんた何者……!」

「雪嘉。ゴメン、マグナを手伝ってくれ。あいつは俺が倒すから」

「……慧……。あんたまたそうやって格好つけて……!」

 雪嘉は慧の傍に寄ると、両手で頬を挟みこみ、その顔を正面から見つめた。

「絶対負けんな! あんたには色々と責任とってもらわないといけないんだから!」

「……約束はできないけど、努力はするよ」

「……ふんっ」

 雪嘉はマグナの隣に並び、両手を前に付きだして結界を張り、時間を稼ぐつもりだった。

 両手に符を構える。

 使えるだけの武装を使ってでも、目の前の敵は倒さなければならない。

「ルーヴ。俺が時間を稼ぐから、調子が戻ったら手伝ってくれ」

「慧と一緒なら、今からでもいける」

「心強いよ。俺は一人じゃ弱いから」

「弱くてもいい。わたしは慧と一緒なら、その分強くなるから」

 小さな笑顔で頷いて、ルーヴが飛び出す。

 その真紅の剣は鋭く、光のような速さで襲い掛かるが、それでも吸血鬼の腕を切断するには至らない。

 見た目からして、人の姿をしていたころよりも遥かに頑強になっていた。

『私の同胞、眷属達よ! これが戦い、これが前哨戦だ。精霊を、霧代を、魔術師を打ち取るのだ。彼等を私達の同胞へと変えた後、幽世の魔物を打つ』

「幽世の魔物を倒すためなら何でもありか! あの人達だって元は……!」

 慧の符から伸びた炎が紅錬の腕に絡み付くも、一振りで掻き消されてしまう。

『それは違うぞ慧君。彼等は力なき者達だった。久良岐の家に生まれた者、そうでなくとも魔術の世界に生きて、その才能を否定され価値なき烙印を押された者』

「……それって……!」

 ルーヴの剣と、慧の魔法。

 それらを同時に相手にしながらも、紅錬は全く怯まない。

『そう、そうだ! 君と同じだ。強い心を持ち、外敵に備え、陽の下で生きる家族を護りたいと願った者達!』

 紅錬の腕がルーヴを捕らえ、無造作に彼女の身体を地面に叩きつける。

 床が砕け、辺りに土埃が舞い上がる。

「やらせるかぁ!」

 符が燃え、炎の弾幕がルーヴの身体を踏みつけようとした紅錬に迫る。

 大きなダメージこそなかったものの、それが稼いだ短い時間は、ルーヴがその足元から脱出するには充分だった。

『君と同じだ』

 背後から声。

 一瞬にしてそこに移動した紅錬はその剛腕を、慧の身体を叩き潰そうと振り下ろした。

 その間に滑り込んだルーヴが、掲げた剣でそれを受け止める。

 慧も両手を掲げて、結界を張る。少しでもルーヴの手助けをするために。

『例え心があっても力がない。たったそれだけの理由で存在を抹消されかけた。その苦しみは知っているだろう? だから私は力を与えた。同胞として共に立ち上がるために!』

「――そんなの!」

 ルーヴが紅錬の腕を跳ね上げる。

 飛び上がりながらの一閃は真っ直ぐに紅錬の首を狙ったが、刃が食い込むばかりで斬れはしない。

『君とて望んだはずだ、願ったはずだ! 力が欲しいと、来たるべきとき、外敵から身を護るための力が!』

「ああ、願ったよ! 何度も何度も、今でも願ってる。叶うことならあんたを一発で倒せるような魔術が欲しい!」

『ならば君に彼等を否定する権利はない!』

「……それはないかも知れないけど……!」

 符を構える。

 魔力を込めて、前進。

「あんたは否定する! あんたのやり方を、久良岐紅錬を俺は認めない、だからルーヴも雪嘉も、俺の大事な人はあんたなんかの傍に置いておいてやるもんか!」

 風を切る音と共に、紅錬の腕が慧を掠めた。

 後一歩でもずれていたら、容易く頭を打ち砕かれてたであろう一撃を奇跡的に避けて、慧は符を紅錬の胸の辺りに押し付ける。

「浄化!」

 太陽の光にも似たその神聖なる魔力を、全力で紅錬に注ぎこんだ。

 紅錬はよろけ数歩後退るが、致命傷には至らない。

 そこにルーヴが、間髪を入れず連続攻撃を浴びせる。

 一発目の打ち降ろしで体制を崩し。

 続く一撃が紅錬の身体を遠くへ吹き飛ばす。

 工場の柱を何本も砕き、紅錬の身体が地面を転がる。

 だが、強靭な吸血鬼の肉体は未だ崩れる気配を見せなかった。

 紅錬の反撃が、ルーヴの身体を弾く。

 吹き飛んできた彼女が地面に落ちる前に、何とか抱き止めることに成功した。

 破壊し尽くされた機械の残骸に埋もれる紅錬は、まだ健在だった。

「ルーヴ、まだ戦えるか?」

「もう疲れた。次で最後にする」

『大きく出てくれたな、精霊!』

 瓦礫を吹き飛ばしながら紅錬は立ち上がった。

『次は何をしてくれる? この哀れな怪物に、どのような奇跡を授けてくれるのだ?』

「ちょっと待ってろ」

 紅錬の返事など聞かず、また慧が何かを言う前に、目の前にルーヴの顔があった。

「おい、何する――んんっ!」

 慧の後頭部を両手でホールドして、一瞬にして視界は全てルーヴに塞がれた。

 唇に柔らかな感触を受けて、慧は一瞬で思考の全てを破壊される。

「ああーーーー! あんたら何してんのよ!」

 後ろから聞こえてくる雪嘉の絶叫など何処吹く風。

 慧が引き剥がそうと抵抗しても、ルーヴの力に抗えるわけもなく、彼女が満足するまで十秒ほど、唇を奪われ続けていた。

 癖になりそうな快感と余韻を残して、ルーヴの身体が離れる。小さな笑みを浮かべる濡れた唇が妙に艶めかしい。

「これで負けない」

『契約者との力の繋がりを強くしたということか? いや、違うな……。そんなことをしも慧君では力の足しにはなるまい。つまり、理屈ではないということか』

「慧が傍にいて、慧に触れられればわたしは幾らでも強くなる」

 その言葉に偽りはない。

 ルーヴは飛び上がり一瞬で紅錬の目の前に着地すると、防御のために振り上げた右腕ごと彼の身体を切り裂いた。

『はっ……!』

 残った左腕が、ルーヴに襲い掛かる。

 彼女はまるでそれが来るのが判っていたかのように、最低限の動作で避けて見せた。

『これが、精霊の力か……!』

「次で、最後」

 淡々と、彼女は剣を振るう。

 そこに一切の感情はない。先程まで苦戦していた紅錬を追いつめているということすらも、精霊にとっては単なる作業程度のことにしか過ぎないのだろう。

『私が、我等久良岐が長年を掛けて外法にその手を汚し、数多くの犠牲を払い!』

 右腕を再生させるも、すぐさま斬り落とされる。

 次は左腕を斬られ、抵抗として放った噛み付きすらも彼女の影を捉えることすらもできない。

『手に入れた力は、この程度のものだったか! なんと残酷なことだろう!』

「わたしはもう疲れた。慧と帰って、一緒に寝る。だから邪魔するな」

 まずは横一文字に。

 そして再生する間もなく、目の前からルーヴの姿は消えていた。

 上空に飛び上がったルーヴの一太刀は、紅錬を頭から一刀両断にした。

『だが……!』

 そこにある感情は、怒りかそれとも悲しみか。

 それが今の久良岐紅錬には心地よい。

 全てを失っても、超えるべき相手が目の前にいるのだから。

 身体を十字に裂かれても、紅錬は倒れなかった。

 そればかりか、最後の魔力を全て燃焼し、瞬時に身体を再生すると、ルーヴに強烈なカウンターを見舞った。

「ルーヴ!」

 宙を舞ったルーヴの身体が地面を幾度も弾み、無様に転がっていく。

「……あいつ、思ってたより…強い……」

 立ち上がり反撃しようとするが、ルーヴの消耗も相当なようで、ろくに動けそうにもなかった。

 それは紅錬とて同じことで、吸血鬼化の返信は解け、大量にいた眷属達もマグナと雪嘉に倒されたことに加えて、主の魔力の大量消耗に伴い動きを鈍らせ、次々と倒れていった。

「所詮、人の足掻き、神々からすれば一息に散らせる戯れだが」

 人の身に戻った紅錬もまた、最後の力を絞り出す。

 ブラッド・オーダー。

 血を操る呪術を、ルーヴを除くこの場の全員に掛けることができれば、逆転することができる。

 それに気付いたマグナが止めようとするが、銃には弾が装填されていない。

 実践慣れしていない雪嘉ではすぐに止めるための魔術を使うことも不可能。

 ――そんなことは問題ではなかったのだが。

「私の、勝ちっ……!」

 放たれた矢のように一直線に飛び出したのは、慧だった。

 紅錬のブラッド・オーダーが三人へと降り掛かるその直前に、その拳は紅錬の顔面へと突き刺さった。


 ▽


 懐かしい痛みだった。

 顔を殴られたことなど、何年ぶりのことだったろうか。

 荒い息を吐いて、拳を固く握る目の前の少年は、吹き飛び倒れた紅錬を見下ろしている。

「最後は肉弾戦かい? いいだろう」

 立ち上がるのと同時に、慧を殴りつける。

 紅錬よりも小さな少年の身体はよろけるが、その一撃で倒れることはなかった。

 反撃の拳が紅錬を襲う。

 殴られた個所が灼熱するような痛みを帯びる。

 疲労と魔力切れで、既に吸血鬼としての力すら、殆どが失われていた。

 一方の慧は全身に防御と身体能力強化の魔術を掛けて、戦いに臨んでいる。

 もっともそこまでしても、正面から殴りあう二人にそこまでの差は生まれない。

「慧君、君はやはり英雄だ! この吸血鬼に、忌むべき怪物に素手で立ち向かうとは!」

「俺だってこんなことはやりたくないよ、ただ、俺は落ちこぼれだから」

「だがそれがいい! それが人々の希望を集め、道を照らす! 弱き者が強き者に挑むからこそ輝くのだ!」

「そんなもん!」

 お互いの拳が交差する。

 慧は当然のこと、紅錬も殴り合いの経験がそれほどあるわけではない。

 体格差、体力から言えば紅錬が優勢になるが、ルーヴに痛めつけられた傷の所為で思うように力が入らない。

「……最初から強い方がいいに決まってるだろ」

「果たしてそれはどうかな!」

 五百年程前に、一つの家があった。

 未だ幽世からの魔物が蔓延る時代に、久良岐と呼ばれた一族は一つの決断をする。

 外界から流れてきた悪魔との契約。

 人の姿を取り、血を喰らい、夜を駆ける王の力をその身に宿した。

 子々孫々に続く強力な呪いとして。

「恨み言ではない、決して私は自らを忌むべき者とは考えていない、だが」

 鈍い音がして、慧の身体が吹き飛ぶ。

「慧!」

「邪魔をするな雪嘉君! これは男と男の戦いだ、君が間に入っていいものではない!」

 紅錬に一喝され、雪嘉は押し黙る。

 彼女にも、何故慧がそうしているかなどは判らない。

 まさかそれが慧の、ヒーローに憧れた少年の『意地』であろうとは、思いもよらないことだろう。

「私は、力があるから戦うのだ。血統に選ばれ、いつか来る敵に抗うためにな」

 地に手を付いて、慧は立ち上がる。

「君は違う。力なきその身で抗うのだ。自らの信念だけを支えにして」

「……そんな格好いいもんじゃないよ」

 力き者は力を羨む。

 受け継がれた力だけを持ってしまった久良岐紅錬は、その信念と意地を羨んだ。

「あほらしい」

 マグナの呟きが、紅錬に届いた。

「私は君にも敬服する、孤高の魔術師。何故に大局を捨てて彼に味方した?」

「俺様は俺様のやりたいようにやるだけだ。それに理由ならもうすぐ判るぞ。お前が、そのぼろぼろで弱っちいヒーローにぶっ飛ばされたときにな」

 話はそこまでと、マグナは背を向けてその場から去っていく。最早決着は付いている茶番をこれ以上見るつもりはなかった。

「だそうだ、慧君」

 身体はぼろぼろ、足取りはおぼつかない。

 気合いだけで慧は立っていた。

 思考だけが鮮明で、目の前の男は何としても倒す必要があると心が告げる。

 自分のため、雪嘉とルーヴのため。

 そして何よりも、久良岐紅錬自身のために。

「力があるあんたが羨ましい。強いルーヴには頼ってばっかりだ、雪嘉と一緒にいられる自信なんてない」

 落ちこぼれの烙印を押されて、幼馴染からは引き離され。

 それでも真っ直ぐに、それが何かに繋がると信じて鍛錬だけは続けてきた。

 ルーヴが来たことがその報いだったと言うつもりはない。

 その結果がいつ出るものか、それとも一生何の結論も出せないのか、慧には判らないが。

「今だけはあんたよりも強くあってやる。俺の大事なものは奪わせない!」

 よろけるように慧が駆けだす。

 紅錬は無意識に自分が笑っていることに驚いた。

「――君は何と強いのだ。いったいそこにそれほどの強固な意志が込められているのか! 誰かから受け継いだものではない、紛い物では決してない!」

 彼は弱さに絶望し、失望され、与えられ、奪われ、そうして培ってきた本物の信念だ。

「だが、負けてはやれない。例え紛いものであっても、受け継いだ忌むべき力だとしても、これは私の絶対的な、たった一つの正義なのだ!」

 幽世の魔物から、無為の人々を護る。

 それだけは違えない。その身を魔導に落とし、五百年もの長き間、悪魔としてその魂を燃やし続けてきた久良岐家の信念そのもの。

「受け取れ、私の想いを!」

「やだよ、気持ち悪い!」

 迎撃に伸ばした拳が宙を切る。

 何のことはない、体力が尽きかけていただけのこと。

 更にもう一つ付け加えるのなら、大声で叫びながら戦っていたため、消耗が激しかったのも原因の一つではある。

 少年が踏み込む。

 魔術でも何でもない、極めて原始的な戦闘方法。

 固く握られた彼の信念が、下から上に久良岐紅錬を打ち抜いた。

「見事だ。君の正義が、私を超えた……!」

「違う」

 正義ではない。

 そんなものを求めたことは、ただの一度もない。

「自分の心に正直にやっただけだよ」

「そうか、そうなのだな。決して正義ではないのかも知れないが、己の信念を貫く者。成程、君こそ……ヒーロー…か」

「……俺にはちょっと勿体ないけど、ありがたく受け取っとくよ」

 久良岐紅錬は倒れ、後には静寂が残った。

 その顔は敗北したとは思えないほどに晴れ晴れとしていた。

「慧……!」

 よろける慧の身体を、走ってきた雪嘉が抱きとめる。

「雪嘉……。うん、無事でよかった。ルーヴも」

 傍に寄り添ってきたルーヴの無事も確認すると、慧は安堵して目を閉じた。

 二人のヒーローは、全てをやり遂げて眠りについた。


 ▽


 それから、慧を取り巻く世界は少しだけ……ではなく、大きく変わっていった。

 あれから一週間程経った日曜日。

 ようやく傷の痛みも治りかけて、今日はルーヴと一緒に街に出る約束をしていたのだが、それは朝から玄関から聞こえてたチャイムによって妨害される運びとなった。

「はーい」

 扉を開けると、そこには幼馴染の姿が立っていた。何故か大きなスーツケースを持って。

「……雪嘉?」

「お邪魔するわよ」

「いや、それは別にいいけど。いや、俺今から出掛けるつもりだし何よりその荷物、なに?」

 勝手に靴を脱いで廊下に上がり込んだ雪嘉は、怒りともつかない表情で振り返り、慧を睨みつける。

「家、追い出されたの」

「へ?」

「説明しなくても判るでしょ! あんたが色々やったせいで御代の計画が崩れて、両親に散々怒られたの! それで……!」

 続く言葉を、雪嘉は顔を真っ赤にしながら口にした。

「もうあんた達の言いなりにはならない、慧のところに行くって言って出てきちゃった」

「ちょっと待てよ。俺だってこの家、いつまでいられるか判らないし……」

 父に反逆してから、何の音沙汰もない。下手をすれば勘当されてここから追い出されても仕方ないと、慧は考えていた。

「その辺は問題ないわよ。これ」

 雪嘉がスカートのポケットから差し出したのは一通の手紙だった。

 宛名を見て慧は訝しげな顔で「……なにこれ?」と尋ねるも、返事はない。

 久良岐紅錬より、親愛なる霧代慧へ書かれた便箋を破って内容を確かめる。

「……なにこれ?」

 当然、再度の疑問に答えはない。

「つまりそう言うことよ。あたしは手紙は見てないけど、紅錬さんから直接話聞いてるから」

 手紙の内容を掻い摘めば、霧代慧を新たなる魔術師の家系の初代として認めること。その後援として彼の久良岐家と皇家が力を貸す旨が書かれていた。

 呆然とする慧を余所に、雪嘉は勝手にリビングに上がり込んでいく。流石、子供の頃は何度も来ていただけあって遠慮の欠片もない。

 ここ数日で霧代慧は精霊を召喚し、鬼を倒し、久良岐家当主をも倒した。更にその合間に目撃者の話によれば鬼を使役した場面も見られたという。

 それだけの力を持った魔術師を、霧代の末席として置いておくことはできないだろうと、紅錬が皇に働きかけたらしい。しかも親子が不仲であれば尚更。

 そのことに対して霧代家当主は沈黙を貫いているとのこと。

 曲がりなりにも力を持った慧が霧代家として扱われるよりは、その外部の者と定義してしまい、各家から直接話が通せるようにした方が何かと都合がいいと判断されてのことだろう。

 この家に関しては自由に使っていい許可を紅錬が貰って来てくれたらしい。

 そして手紙の最後には雪嘉と紅錬の婚約は解消されたことと、彼女をよろしく頼むとだけ書かれている。それから今度プライベートでも遊びに出かけようとの誘いもあった。あれだけ殴りあった後では信じられないことだが、どうやら気に入られたらしい。

「いや、これは判ったけどさ……」

 リビングに入り、慧は一気に頭痛がした。

 縁側に繋がるはきだし窓で日向ぼっこをしながらごろごろしていたルーヴが、立ち上がって雪嘉と睨みあっている。

「……なんでここにいる?」

「あたしもここに住むことになったからよ」

「慧」

 ジトっと睨まれた。

 許可は出していないが、ここで雪嘉を叩きだすのは余りにも可哀想でもある。

「あ、生活費は心配いらないわよ。紅錬さんが婚約解消の慰謝料を貰ってるから。むしろあんた達の方が、これから大変じゃない?」

 雪嘉の言うことはもっともだ。一応家は確保できたが、父からの仕送りが今後も続くとは考えにくい。今のところは贅沢をしなければ充分に生活をできるだけのお金は預けられているが、今後どうなるかは判らない。

「そ、れ、に!」

 雪嘉は慧に詰め寄る。顔が近くて、慧は一歩後退った。

「慧、あんたはあたしを二回も婚約破棄させてるんだからね」

 広義には間違っていないが、異議申し立てをしたいところだ。

「あんたには責任を取る義務がある。違う?」

「違う」

 割って入ってきたのはルーヴだった。

 額に手を当てて、無造作にソファに向けて押し出す。

「なにすんのよ!」

「お前は駄目」

「それを決めるのはあんたじゃないでしょ」

「慧」

「いや、うーん。まぁ、仕方ないんじゃないかな? 俺の所為ってのには間違いないし」

 それに攫いに行った手前と言うものもある。口に出したきっと酷い目に合うのでそこは黙っておくが。

「……失望した。早く出掛けよう」

 愕然としながらもルーヴはめげない。慧の腕を取って引っ張っていこうとする。

「ちょっと待ってよ。あたしの部屋、案内してもらわないと困るんだけど?」

 もう片方に雪嘉が腕を絡めて、行かせんと妨害する。

 慧を間に挟み、二人は睨みあう。

 その視線はやはりと言うかなんというか、最終的には慧へと注がれる。

 ――これからどうなるかは想像もできない。

 慧のやったことがこれから先どんな結果を生むのか、それを判断できるものはきっと何処にもいないだろう。

 ただ、一つ確かなことはある。

 絶望に打ちひしがれ、自暴自棄になり、消えてしまいたいと願った日々は終わった。

 その後の日々はまぁ、少なくともそんなことを考える暇はないほどに賑やかなものになっていくだろう。


                   了

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The boy becomes a hero しいたけ農場 @tukimin

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