23 レアな私を捕まえて

「おはようございます」


 自分の会社じゃないところに出勤するって、考えてみると面白いよなあ。色々な会社に入れるのは、なんか得した気持ちにもなる。



 朝8時。文道社は9時出社だけど、強い雨音で目が覚めてしまったので早めに来てみた。


 フロアにはほとんど人がいない。普段からみんなギリギリに来ることが多いので、この天気なら余計だろう。外は相変わらずの雨模様で、窓の水滴同士が仲良くくっついて、逃げるように下に降りていった。



「おはよう、唐木さん! 今日早いですね」

 と、猪井さんが出社してきた。ハキハキとした、小学生でもお手本にしたくなるような挨拶。


「おはようございます。ちょっと雨音で起きちゃったんで……」

「私も子どもに起こされちゃったのよぅ。せっかく寝てたのに」


 ハア、という強い溜息と共に、芝居のように肩を落としてみせる。

 ああ、こういう元気な人が上司だと、みんなやりやすいのかもしれないなあ。



 彼女のポジションは、編集長の一つ下で現場のまとめ役、チーフ編集者。

 Fucusを担当している編集者の取りまとめ役。新聞社だと「デスク」と呼ばれるポジションに近いけど、彼女自身も一線で原稿を担当しているので、少しニュアンスは違う。


 今回のプロジェクトのキーマンであり、要は彼女がチェックしやすい体制・仕組みを整備することが目的だ。


 仕事もバリバリやりながら、まだ小さい子がいるらしく、定時で帰って家事もこなすママでもある。で、寝かしつけてからまた仕事。日付が変わるくらいにメールが来ることもザラにある。まさにスーパーキャリアウーマン。



「さて、ひょっとしたら、いたりして……」


 猪井さんとの挨拶を終えて、若干の期待を込めて足早に通路を歩き、林さんの島へ。昨日結局捕まらなかったからな。そろそろ打ち合わせの日程決めたいんだよね。


「あの、すみません、林さんは……」

 昨日も訊いた女性が出社してたのでもう一度尋ねてみると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。


「すみません、さっきまでいたんですけど出てしまって」

「さっきまで!」


 え、何、じゃあ7時台から出社してて、もう外出したってこと? 謁見するには7時台にいないといけないの? どんだけレアキャラなのよ。


「でも、お昼には一旦戻ってくる予定です」

「あ……そうですか、じゃあお昼にまた来ます。ストレイブルー・コンサルティングの唐木が付録のことでお伺いしたいことがある、という旨だけお伝え下さい」

 伝言だけ残して、自席に戻った。



 まだ見ぬ林さんという方が、Fucusの別添付録を担当している。とはいえ、付録の製作自体は他の会社がやるので、発注が完了すれば納品まで時間が空く。


 そんなわけで、彼女は読者モデルの取材記事も掛け持ちで担当しているらしい。そりゃ忙しくもなるよな……。

 


 と、そんな悠長なことも言ってられない。今回のプロジェクトは12月末まで、つまりあと1ヶ月半。年末休暇を考えると、もう少し短くなるはず。


 なんとか早めにコンタクトを取らないと年末のスケジュールが地獄になって、クリスマスにサンタさんに「時間がほしいです」と泣いて拝み倒すような状態になってしまう。


 よし、昼こそ林さんに会うぞ。





「来ないねえ……」

 昼休み。社食を利用しているうちにどこか行ってしまうと大変なので、コンビニのサンドイッチを頬張る。


 ここは自席ではなく、林さんの席に近い場所にある休憩スペース。ターゲットは一向に現れる様子がない。もうすっかり気分は張り込みで、危うく「やっこさん」呼ばわりする寸前。彼女が何したんだよ。



 と、その時。


「あ、林さん!」

 足早、というかほぼ駆け足でターゲットの席に近づいてきた女性に声をかける。こっちを振り向くと「あ、唐木さんですかあ?」とほんわりした声で訊いてきた。


「はい、すみません、何度も来てしまって」

「いえいえ、こっちもバタバタしててごめんなさい」


 アニメ声、っていうと少しニュアンスが違うな……でもこの柔らかい声、誰か声優さんでも似た声の人がいる気する。



 初めて御目文字おめもじ叶った林さん。

 シンプルな濃いグレーのプリーツスカートに、ぴったりめのトップス。なるほどね、トップスをボーダーにして見た目が重たくならないようにしてるのか。いや、Fucusの読みすぎだよお前。


 20代後半、俺より少し上くらいかな。少しチークが強いけど顔立ちもすごく綺麗。肩より長い髪、束感があるなあ。最近流行りの、暗めのグレージュカラーってヤツだな。だから読みすぎなんだって。そんなスラスラ語るなよ。



「えっと、それでですね、別添付録を普段どういう流れで決めて発注してるか確認したくて、打ち合わせの時間を頂きたいんですけど」

「分かりました。じゃあ日程候補を――」

 その会話に何を嫉妬したのか、彼女のスマホが着信音で遮る。


「あ、ちょっとすみません……はい、林です。あ、どうもご無沙汰してます! 実はですね、再来月号でチェスターコートの特集やろうと思っててですね……」


 俺に右手で「ごめんなさい」のジェスチャーをしつつ、フロアの入り口の方へ歩いていく林さん。仕方なく、その場で待つ。残りのサンドイッチ食べちゃおうっと。





 ………………………………。





 20分経ちましたけど。全然来ないんですけど。何、そのまま逃亡したの? 俺がよく居心地悪い場所で電話するフリして席外すのと同じテクニック?



「すみませーん。ちょっと長引いちゃって」

「あ、いえいえ」

 良かった、戻ってきた。


「ごめんなさい、アタシ、ちょっともう出ないといけないので」

 良くない。戻ってきて。もうどこにも行かないで。


「夜またこっち来るんで、そのときに続きお願いしますー」

「え、あの、や、候補日程、その」

 俺の断片的なお願いも空しく、林さんはさっき置いた鞄を抱え、走って行ってしまった。



「……別の仕事やるか……箱崎さん、責了前チェックシート作らなきゃとか言ってたし……」


 夜、彼女に別件が入って、戻って来なかったなんてオチは、言うまでもない。

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