第6話 あの頃、私は何を考えたか

 9月中旬、ハッピーマンデーの月曜日に発売された週刊雑誌に私のことが3ページ分しっかり記事になった。私が松野先生のアパートに入ったところ、出たところ、手を繋いで駅に向かう二人の写真もしっかり載っている。記事の内容は、映画の制作委員会で私が先生に話しかけた様子やロケ現場で相談していたことまで、会話の内容を関係者に聞き取りをしたものであった。さらに松野先生がただの原作者ではなく、わたしが小学生のときの担任だったことまで調べ上げていた。

 記事が出ても意外と冷静だった。事務所をクビになるかもしれないと思った。最悪、この業界にいられなくなるかもしれない。過去にも清純派で売り出したタレントが、デビュー前の男性との写真が流出して追放されたと社長が真顔で言っていた。それもいいと思った。

 いちばん堪えたのは、わたしが教え子のとき杉野先生がしてくれたいくつかの大切な思い出を地面の下から掘り出すように書いてあることだった。親でさえしてくれなかった先生の厚意を性的な関係を匂わせるようなニュアンスで書いてあるのが許せなかった。


 雑誌が発売された日。私は事務所の用意したホテルに閉じ込められた。厚手のカーテンで覆われた光のささない薄暗い部屋でテレビをずっと観ていた。

 NGY時代の私の歌っている映像、シルバーウィークに上映される映画の予告映像、対談番組で語っている私の映像、司会者とコメンテーターのやりとり、繰り返し、繰り返し…。

 夜になった頃、先生から電話があった。

「今どうしてる?僕達二人のことが記事になっている雑誌が発売されたけど、大丈夫だった?」先生の声は静かで落ち着いていた。

「今はホテルに缶詰です。プチ謹慎です。元気ですから心配しないでください。それより先生!迷惑かかりませんでしたか?」誰が悪いのだろうか。(私かな?やっぱり私だろう)

「学校に大勢マスコミが押しかけてきたよ。管理職が記者たちの対応をしてくれたので追求されることはなかった。君に迷惑をかけていなければいいんだが…。」

「迷惑って何ですか。私があの時、先生に話しかけなければよかったんです。先生の家に行かなければよかったんです。私が悪いんです。」

「違う。君は悪くない。それで、僕は釈明の文書を書いた。これは、管理職や教育委員会の許可も得ている。」

「文書?釈明?謝罪ですか?なぜ、先生が謝るんですか。先生は悪くない。」

「僕の文書を添付ファイルで送りたい。君のG-mailに送るから、マネージャーに

渡してほしい。できれば連携して事務所も文書を出してほしい。」

「先生は、それでいいんですか?私や先生は悪いことをしたんですか?」

「悪くない。おそらく誰も悪くない。嵐のようなもので、もう少ししたら落ち着くと思う。そのために文書を出して謝罪する。その後にテレビで謝ればいい。」

「落ち着いたら先生に会えるんですか?私は先生に会いたい!今すぐにでも。」

「それは約束できない。いちばんの問題は僕にあるんだ。立場を利用して昔の教え子を部屋に連れ込む悪徳教師だから。」

「先生がそう思っているんですか?その考えはおかしいです。」

「周りのみんながそう思っているんだ。君は特別な人だから、自分勝手な考えで行動してはいけない。君は事務所との契約を守ろう!僕は保護者の信頼を取り戻す。」特別とはなんだろうか。人が人を引きつける魅力のことかな。人は私に魅力があるという。魅力は多くの人に振りまくもので、個人を対象にしてはいけないとこの前、先生に言われた。

「分かりました。先生、また電話をしてください。」私は素直に従った。


 ビジネスホテルのベッドに仰向けになった。生ぬるいスマホを右手に握っていた。松野先生が私にしてくれたことが、なぜ謝罪しなければいけないことになるのか、ずっと天井を見つめ続けた。 


 授業が終わって、宿題をやってこなかった子や算数の苦手な子といっしょに先生から勉強を教えてもらっただけではない。家に帰っても母も父もいたことがない静かな部屋で待っていると窓ガラスをコツコツと叩く音がする。それが先生の合図だ。

 私は勉強だけでなく、ダンスの練習も先生にしてもらった。正確には近くの高校のダンス同好会の練習に混ぜてもらっているかたちだ。先生も一緒に踊りの勉強をしてくれる。小学生の頃からダンス教室で習ってきた高校生がまとめ役で教えてくれている。

練習が終わった後は、マクドやコンビニで食べ物を買ってもらって車の中で食べる。食べたら家の近くまで送ってもらう。

 ”これは二人だけの秘密だ”と繰り返し先生は言っていた。もし誰かに知られたら先生は君の担任をやめて、違う市で先生をやることになるとも言っていた。携帯のない頃だったから。毎朝、ノートでダンス練習会の有無を確認していた。宿題は計算練習や漢字練習のどちらか一方と日記を2行以上書くというものだった。

赤字のコメントの下に◯6:30と書いてあれば”夜6:30に迎えに来る”だった。

  

 先生が、私の家に来たのは5月すぎだった。今どき珍しく家庭訪問を行っていて、各家庭を自転車で訪問する先生を家の近くで待っていた。先生に家を見られるのはとても嫌だった。

 ”創立から100年を超える古い学校だから、しきたりも古いんだよ”と帰りの会で先生が言っていた。GW 開けの晴天の日で、午後から気温が急上昇したきた。母が玄関先で先生の応対をしているのが見える。何の話をしているかは分からない。先生は、カバンから封筒を出して母親に渡した。きっと給食費と教材費の請求だろう。

 前の学校の担任は、口座から引き落とせなかったとき、他の子ども達の前で封筒を渡した。お前は、”貧乏人の子だ”と言われているみたいで猛烈にムカついた。

松野先生は、私に渡したことはない。惨めな思いをしないように卑屈にならないように気を配ってくれている気がした。

 先生が母親に頭を下げてこちらに歩いてきた。ハンカチで額を拭った。

「先生、家の中に入らなくてよかったの?家の外は臭かったでしょ?汲み取りだから。」先生は首を振って、優しい目で私の顔をのぞいた。

「気にならないよ。というか、先生もこういう家に教師になるまで住んでいたから。」

「本当!」私は、イケメンで育ちの良さそうな先生が、この家と結びつかなくて驚いてしまった。

「ああ、関西ではニコイチというし、この辺りでは二軒長屋というんだ。隣の家とは薄い壁が一枚だけだろ。先生の父親は変な人で、僕が小学生の頃から仕事をしなくなったんだ。」

「どうやって生活してきたんですか。」

「父親は入院したり、家でぶらぶらしたり仕事はしていなかったと思う。母親がずっと働いていた記憶はある。夜、遅くまで妹とじーっと息を潜めて留守番していた。夜が怖かったし、心細かったのを覚えている。」先生は自転車を押しながらポツポツと話し始めた。

「僕は、中学生になったら新聞配達を始めたんだ。2年生の頃は、父親の命令で母親と夜だけ自衛隊の基地の中でたこ焼きとおでんを売っていた。シールのふちを切り取る内職も母とやった。ノリタケという高級なお皿の模様になるらしい。高校生の時はファミレスで夜中までバイトして、休みは水道屋で働いていた。」

「先生、かわいそう!」

「働くのは嫌じゃなかった。嫌だったのは、父親が本当の病気なのか仮病なのか分からなかったことかな?今なら”大人の発達障害”なのかもしれなし、うつ病かもしれない。」

「発達障害?」聞いたことがない言葉だったので尋ねた。

「ADHDとかアスペルガーとか広汎性発達障害などいろいろある。人と話をことが困難だったり、仕事や生活がうまく出来ないらしい。」

「妹は”父さんはヒモだ”と言っていた。一番嫌だったのは母親が料亭で働いていて、夜中に迎えに行くことだった。父親は威張り散らして、母に暴力を振るうくせに嫉妬深くて、店が終わるころに迎えに行かせるんだ。見知らぬ男と別の店にでも行くと思ってたのかな?」

「こんな話はつまらないよね。それから、君の家で今日は終わりだから、ここでいいよ。」

私は悲しくて涙が出そうになった。夜の寂しさを知っている人がここにいる。一方で、同じような悲しみを感じてくれる人がいて少しだけ幸せな気分になった。

「つまんなくない。もっと先生の話を聞きたいと思った。」

「僕は同情したんじゃない。たしかに世界には明日食べるものがないほど貧しい人はいっぱいいる。でも、普通の家庭ができるこが出来ないことを相対的貧困というんだ。例えば、僕は家族旅行をしたことがない。テレビも電話もなかった。風呂も1週間に1回だけだった。中学や高校の制服は近所の人からもらったものだった。お尻の布は透けて見えるほどだった。こんな惨めな思いは僕だけでたくさんだ。クラスのみんなにはそんな思いをしてほしくないんだ。」

先生の怒ったような、しずかに噛みしめるような声に私は何も言えなかった。


「困ったことは、必ず相談する。やってみたいことは先生に頼んでみる。いいな、佑菜!先生と約束だ。」

 体育の授業で、先生が選んだアニメの曲に振り付けを考えて踊る授業があった。他のクラスは曲なしでテーマに沿った踊りを考えたらしい。私は、ダンスの振り付けを考えて、みんなとシンクロして踊るのがとても楽しくて、体育の授業が初めて面白いと思った。

 だから私は先生に頼んだ。踊りの勉強をしたいと…。お金がかからなっくて、より高度なテクニックが学べるように大学の友人に紹介してもらったのが同好会での練習だった。


 別の雑誌には、私の小学校からの生い立ちが書かれていた。私の祖母や長屋の近所の人、一緒に踊ってくれた高校生だった人たち、松野先生の元同僚などに取材したのだろう。正確ではないところがあったが、私の暗い過去が話題を呼ぶのは確かだ。

 私の両親は高校の同級生だと言っていた。おばあちゃんによれば結婚するには若すぎたのだ。二人揃ってパチンコ好きで、金がなくなるとケンカばかりしていたそうだ。父だった人は、小さな工場で働き続けていたそうだ。私が小学生に入った頃、自動車工場で働くほうが金になると遠くに行ったらしい。10年ぐらい前に不景気になって、仕送りも途切れたきり連絡がなくなり、それっきりになった。

 生活保護をというものを受けて、あのボロボロの長屋に移り住んだ。雑誌に写真が載っていたということは、まだ壊されずに残っているのだ。母は、通帳にお金が振り込まれるとパチンコに使ってしまう。私がご飯を作っていたが、冷蔵庫に何もなくて、何日も給食だけで生きていたこともあった。

 母は、そのうち男をパチンコ屋から拾ってきた。ずいぶん若くて、優しい人だったけど、頼りなさそうなひとだった。

 松野先生は、家庭訪問以降、何度も母や男と話し合った。給食費や教材費だけでなく6年生にだけ特別に積み立てる修学旅行費や卒業アルバム代を払わなかったのだ。

 学校で学習するために必要な費用を、市役所から振り込まれる生活保護費から学校の通帳に天引きする手続きを松野先生は、粘り強く母と話し合ったが、遊ぶ金欲しさに手続きに応じなかった。

 修学旅行が間近に迫った10月には、校長先生にも修学旅行費を納めるように説得してもらったそうだ。結局、母はお金を出さなかった。なのに私は修学旅行に参加した。大学を出たばかりの安月給で、一人暮らしでお金がかかるのに先生は私の修学旅行費を出してくれた。給食も食べることができた。

 松野先生のしたことは、公私混同でやってはいけないことなのだそうだ。私が卑屈にならず、みんなと奈良や京都に行けたのは先生のおかげなのに…。

 いつ頃か、何日も男と母は帰ってこなかった。私は何とか食べていた。休みの日は、先生のアパートで食事を作ってもらった。先生がいなかったら私は雑草を食べるか、給食だけで生きるしかなかった。同じ服を着続けていると休みの日に服を買いに連れて行ってくれた。古い服は先生が洗濯をしてくれた。

 これは、雑誌のライターも調べられなかったらしい。私は、3月の卒業式まで約1ヶ月、先生と一緒に暮らした。

 母は少し太ったと思っていたら、お腹が大きくなってきた。男との子どもが出来たのだ。2月に無事、男の子を出産した。私はずっと兄弟が欲しかった。弟が出来てうれしかった。なのに二人はどこかに行ってしまった。本当に行方がわからなくなった。私は捨てられた。

 最初のうちは、また二人でどこかに遊びに行ったのだと思っていた。私は気づかなかった。おばあちゃんが家にやってきて初めて分かった。母が私の世話を頼んだらしい。”おばあちゃんは、お腹に癌ができて手術をするから、佑菜を預かることが出来ないの。病気が治るまで施設で暮らしてほしい”そんなことをおばあちゃんは嫌そうにつぶやいた。

 先生に相談すると児相と連絡をとって調べてくれた。短期で預かってくれる施設があるが、小学校を短期間でも転校することになり、元に戻れるのは逃げた親が戻ってきたときだけだという。後わずか3週間で卒業なのに転校しなければならなくなった。誰も知らない小学校の6年生に、たった3週間だけ行くのだと知ったとき、私は声を上げて泣いた。

 1学期は先生と生徒の対立があったり、くだらない理由でいじめがあったりして嫌だったけど、修学旅行あたりから居心地がとてもよくなっていた。何よりも先生と別れるのが嫌だった。

 結局、先生は私を見捨てなかった。今思えば、先生も大胆なことをしたと思う。バレなかったからいいけど、発覚したら完全にクビになっていたはずだ。

私も先生も特別な感情はなかった。それまでも、寝る時間以外はほとんど一緒だったし、先生はまるで妹のように接してくれたからだ。不便だったのは、学校帰りの距離が2kmほど遠くなって、時間がかかることぐらいだった。







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