寿司より好きなものなどないので黙らせた

あゆみとみちる

第1話

その人は、目の前に出された赤身の寿司を素手で掴んで口の中に押し込みました。舌の上でどろりと溶けて唾液と混ざっていきます。新鮮な肉の味に思わず喉がなりました。

寿司屋の大将は2貫目、3貫目と並べていきます。それを夢中で頬張りました。いか、アジ、まぐろ、どれも好きです。こんなに好きだったのに昨日までは味がしませんでした。

この海で今朝獲れたばかりだと寿司屋の大将が自慢げに言います。

「朝からよく食べるな、いつもの彼女はどうした?」

その人は大将の質問には答えずに、瞳を閉じて寿司の触感を楽しんでいました。

しかも、いつものように困った笑顔を浮かべたりはしなかったのです。そして一言、こう言いました。

「静かに食べる寿司はとりわけ美味い」


静かな夜でした。海の上にはまあるい月が、ぽかりと白い口を開いています。

漁師たちはいつものように、大きくて丈夫な縄を暗い海の底にぞーっと沈めていきました。魚達は網の中でもがき、暴れ回っています。ぎらぎらの鱗が、白い月に照らされて赤黒く光っています。


「魚って生臭いから嫌」

ついさっきまで寿司が食べたいと言っていたのと同じ口で、彼女はそう言いました。ぬるぬるとした真っ赤な唇が激しく動いています。

その人は、困ったように笑うしかないのです。いつも、そうでした。今まではそうでした。ああ、でもだめだ、もう

この女はいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもい


静かな夜でした。海の上にはまあるい月がぽかりと白い口を開いています。

港の前の凸凹の倉庫の壁が、白く照らされています。

その人はぼんやりと海を眺めていましたが、やがて餌を投げ始めました。

ぼちゃり

ぼたぼたぬとぬと

べちゃり

月明かりの下でその人は困ったように笑うのです。でも、いつも、とは違いました。今日は鼻歌を歌えました。

じんわりと心に温かいものが流れ込んでくる。それは安心というものでした。

これで明日はゆっくり、寿司を食べられる。

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