しかしあんな所行かなきゃよかったなぁ、そんなことを考えていると教会が見えてきた。バスがスピードを落とす。

「本当に行くのですか」

 妻が沈んだ声で言った。ああ、とドニプロパトロトリステキヴィスミジキは上着の上から銃の感触を確かめながら答えた。バスの揺れが少なくなってきた。教会周辺の道路は舗装されている。あの日漁師組合の会合に出たドニプロパトロトリステキヴィスミジキを待っていたのはいわゆる白い眼だった。事情を説明しても芳しい反応は得られず、逆に、あなたは埋め立て地の開発を行政が進めているときに反対しなかったではないか、当時有力な影響力を持っていたあなたが反対していればあの計画は阻止することが出来たかも知れないのに、今更何を言っているのか、虫が良すぎるのではないか、そう言われた。いや、しかし砂が全て移動してしまうなどと誰が考えるのだろうか、そういうことを考えたが異様な雰囲気にドニプロパトロトリステキヴィスミジキは反論できなかった。行政は海流が変わっても生態系に大した影響は出ないと説明したが嵐の後で埋め立て地がボロボロになり土台が周辺に散乱したことによって生態系は変わってしまった、漁師は深刻な打撃を受けているし廃業した者もいる。帰ってくれ。そう諭すように言われドニプロパトロトリステキヴィスミジキは引き下がりそうになったが、堪える。しかし、そう言った瞬間一人の四十代後半くらいの右目が義眼と見える男が叫んだ、俺はあんたの漁船に若い頃に乗っていた、船の中では四畳半くらいの空間に七人も八人も押し込められてあんたの命令を受けた監督と船長に毎日鞭で打たれて働かされた。手の指を骨折してもそのまま働かされたし鞭が眼に当たって見ての通り右目は失明した、それでもすぐに手当を受けさせてくれればこうはならなかったんだ、盲腸の治療を受けられなかった仲間が、死体が腐ると面倒だという理由でサメの餌になった、あんた知ってんだろ、船をおりてから真実を伝えようと俺は何百回もあんたに問い合わせた、結局一度も会えなかったがな、改善に務めるという返事があったがそれ以降の航海でも何も変わらなかった、親父が残した借金があったから従うしかなかった、なぁ、あんたがちょっとだけどうにか何とかしてくれてたら俺は十代から片目で生きていかずに済んだしあいつは死なずに済んだんだ、どうしてちょっと手を差しのべるだけのことをしてくれなかったんだよ、ノコノコあらわれやがって。まくし立てられてドニプロパトロトリステキヴィスミジキは目の前が真っ白になった。そんなことは知らない。苦情なんか一切聞いたことがない。横にいた部下が、黙れ、と隻眼の男に対して怒鳴った。全部黙殺されていたのだ、そういうことは部下に任せっきりで、自分のところにまで届いてきていなかったのだ。現場がそこまで過酷だったとは、充実したやりがいのある仕事だと嬉しそうに皆言っている、そういう報告しか知らない。命を落とすものがいるというのは知っていたが、海の上の作業ゆえに事故が起こるのはある程度致し方ない。事故だと思っていた。義眼の男が語ったのは明らかに殺人だ。そういうことをドニプロパトロトリステキヴィスミジキは語った。今からでも補償を、そう言おうとした瞬間頬に衝撃が走った。倒れそうになるが踏みとどまる。義眼の男に殴られたのかと思ったがそうではなかった。目の前にいたのはおばさんだった。そんなことはどうでもいい、現れて欲しいときに現れず自分が困ったらのこのこと、どのツラ下げて来たんだ、もうあんたにできることなんて何もないんだ、もういいから帰ってくれ、おばさんはそう叫んだ、どうやら義眼の男の妻のようだ。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは足が震えたがなんとかバランスを保ち、今からでも出来ることがあれば精一杯、と途中まで言ってまたおばさんに遮られた、いいから私たちの人生からすっぱり消えてくれ、あんたの名前を聞くだけで不幸な気持ちになる、二度と姿を現さないで欲しい、それだけでいいから。

 家に帰ってドニプロパトロトリステキヴィスミジキは数日部屋にこもった。数日して風呂場から妻が出てこない日があった。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキが発見したときには既に取り返しの付かない段階に達していた。医者の語った原因には心筋梗塞という名が付いていた。あの嵐の日から精神的にとても苦労させてしまったとドニプロパトロトリステキヴィスミジキは悔いるがもう遅すぎる。負けてはいけない、妻は死ぬまでドニプロパトロトリステキヴィスミジキにそう言い続けていたのだ。頼むから僕のことではなく自分のことを考えてくれたらよかったのに、とドニプロパトロトリステキヴィスミジキは泣きながら言った。妻が死んだ後二週間泣き続けて放心状態になり庭をぼんやり見ているとホームレスのような汚い出で立ちの髪の長い若者が砂を猫車でせっせと持ち去っていた。

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