第17回 腐ったフェルトペンのような匂いは今も忘れられず


『触らぬ神に祟りなし』と言う言葉は誰しも聞いたことがあるだろう。

 れーかん持ちの人間にとってはとても重要な言葉である。

 私は再三『危ない場所へは近寄らない』ことこそ、恐ろしい経験をしないための最大の防衛策であると主張しているが、それでも怪異ともいうべき現象はどう気をつけても降りかかってくることがある。

 これからする話はその怪異があちらからやって来たともいえる話である。



 これは私が小さな企業で働き始めてすぐの事。

 第8話の「押さえる子さん」に遭遇していた頃に所属していた、元友人の親族企業だ。


 私がその会社に入ってからすぐ、プー太郎生活を満喫していた社長の次男、つまり私の元友人の弟が、保険会社に外交員として入社してから会社に出入りするようになった。

 次男は非常に口下手で、保険外交員としては少々難がある人物だったが、私自身は彼の優しい人柄に好感を持っていた。


 親の会社の社員をガンガン保険に加入させるという荒技で売り上げ目標をクリアした次男は暇を持て余し、よく会社に来ては雑務を手伝ってくれるようになった。


 だが、ちょうどその頃から、社内におかしな匂いが立ち込めるようになったのだ。

 まるで、油性マーカーやフェルトペンのインクが腐ってしまったかのような匂いだった。

 酷い匂いだとは思いつつも、毎日匂う訳では無かった。きっと工場で扱う薬品だろうと我慢していた。


 匂いに気付いてから数日後の事、私は次男と会社の最上階にある倉庫で本を漁っていた。

 倉庫といっても、社長一家の物置だった。

 次男が中野などにある某中古漫画店で売られている高価な漫画を見たことがあると言い出し、私も是非読んでみたかったのだ。


 この時、次男と二人きりになり、その酷い匂いが次男から放たれていた事に気付いたのだ。

 だが、この会社の社員ではないとはいえ、社長ジュニアに「くさいよ」と指摘するような度胸は私には無かった。


 暑いを連呼しながら雑誌を漁る次男は、いつの間にかスーツのジャケットを脱ぎ、白いワイシャツ姿になっていた。

 自然にまとめた髪に、一目で高級と分かるスーツに、フレンチカフスのワイシャツ。彼からこんな臭気が出る要素など、まるでなかった。 

 にも関わらず、逃げ出したい程の臭気が私に襲いかかってきたのだ。


 そして、匂いの主は唐突に現れた。

 次男の首に両腕を回し、背中にまとわりついている黒のような、紺のような何か。

 光沢のある表面は窓からの光を反射し、あたかもそこにしっかりと実在しているかのように見えた。

 輪郭に曖昧さはなく、はっきりと全貌は覚えていないが、まるで服を着たままで石化した人間のようだった。


 逃げよう。

 そう決断した私は、次男に仕事に戻らなくてはと告げ、事務所へと階段を降りた。

 元友人は私の異様な様子を心配し、早退することを勧めてくれたので、仕事は山ほど残っていたが退散を決めた。


 その後も次男は何度か会社に来たが、背中にすがりつく黒のような紺のような何かを見ることはなかった。

 だが、次男が来る度に立ち込める嫌な匂いが、その背中にまだ何かがいることを物語っていた。

 匂いを感じるのが自分だけなら、私一人に見える幻だと言えば済むのだが、サプライヤー企業に勤める営業マンの友人を商談のために会社へと招いた際、


「なんかフェルトペンが腐ったみたいな匂いしねぇ?」


 と、言ったのだ。

 すぐ近くの席で、次男はこちらを気にすることも無く、書類仕事をしていた。臭気を放ちながら。

 本話のタイトルは私が考えたのではなく、この友人が表現した言葉である。



 その後、次男は二ヶ月もしない内に保険会社を辞め、頻繁に会社に来ることはなくなった。

 次男はスポーツ関連、カーディーラーなどを一ヶ月から三ヶ月くらいの単位で渡り歩いたが定着せず、いつしか会社には一切来なくなってしまった。

 正直、これは親の会社で働き始めるのではないかと危惧していた私には幸運だった。

 どうやら元友人の長男、つまり会社の後継者が強硬に反対したんだそうだ。


 今でも、偶に海外製の匂いがきついマーカーの匂いを嗅ぐと、あの時一瞬だけ見た真っ黒い何かを思い出すことがある。


 例によって、あれが一体何なのかは全く分からない。

 背中に人らしき何かを背負っている人は街中でよく見かけたが、ここまではっきりと、しかも光を反射する物質が背中についていたのは、恐らくこの経験以外にない。

 短編で発表した紅い小さな子供達も光を反射していたと思うが、背中にぴったりとくっついて微動だにしないという存在ではなかった。



 あの化け物は次男に災いをもたらすかもしれない。あるいは既にもたらしている可能性もある。


 私は結局、何かが背中に憑いているという事実を次男本人には伝えなかった。

 長男、つまり私の元友人はれーかん持ちで、私のれーかん話には多少理解があった。長男は次男については特に何も言わなかったが、あからさまに次男を避けていたので、この匂いは嗅ぎ取っていた可能性はある。権力闘争の可能性はない。次男は無能だったからだ。

 長男は次男に何も言わずにいたので、私も話題にはしなかった。


 冒頭の『私は触らぬ神に祟りなし』という言葉を思い出して欲しい。

 当時は伝えるべきだったかもしれないと思っていたが、今は本人に告げないという決断は正しかったと思っている。

 残酷かもしれないが、そうすべきだ。


 もしあなたが他人に取り憑いているかもしれない何かを見かけたら、それを告げるなんて事はせず、町で喧嘩を見かけた時と同様、何もせず立ち去る事をお勧めする。


 それが一体何か分からない以上、自分にどんな厄災をもたらすかなど分かったものではないからだ。

 蛮勇や好奇心はけがの元だ。

 あなたが守らなくてはならないのは自分自身がまず第一だ。


「触らぬ神に祟りなし」


 もし、良からぬ何かが見てしまった時のために、是非肝に銘じておいていただきたい。

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