来訪者


          3


 母屋は桐辰がいた頃と何一つ変わらず、天地がひっくり返ってまたもとに戻った後のようなひどい荒れようだった。布団はもちろん引きっぱなし。冬も終わったというのに火鉢は出たまま。そこら中に着物をばらまき、空の酒瓶を転がしている。

 奥に見える床には白勒直筆の掛け軸がかけられて、小綺麗にはされていたが、隣の違い棚は埃を被ったまま。そこに置かれた太刀だけが漆の黒い艶を保っていた。



 将寿は狩衣と狩袴を脱ぐと襦袢の上から、どこかから引っ張り出してきた藍染の単衣を羽織る。それから、丸帯を高い位置で締め直した。

 神職姿も様にはなっていたが、やはり、将寿は女装姿の方がしっくりくる。それ程、見慣れてきていた。

「白勒殿の後を追うのか?」

 将寿が立ち上がると同時に腰を上げた桐辰は尋ねる。しかし、将寿は紅を引きながら首を横に振った。

「アタシらが行ったところで、邪魔になるだけでしょうよ。すべきことは鵺の行方を探ること。封印は確かに壊されていたのでしょう? 猿田彦がやったにせよ、鵺の仕業にせよアタシらが鵺の居所を探らなけりゃあ、白勒が高尾へ行った意味がないですよ」

 将寿の言う通り。

 鵺が塚守を殺害したと仮定すれば高尾へ行った白勒は何事もなく引き返せばいい。猿田彦がやっていた場合、白勒は猿田彦を祓わなければならないが、山にいるのか栄戸に留まっているのかは定かではない。

 しかし、どちらにせよ残った側が鵺を探すことには違いなく、場合によっては猿田彦も相手にしなくてはならなくなるかもしれない。

「成り行きだったとは言え首突っ込んだからには最後までつき合いやす」

「依頼料はやれんぞ?」

「いいですよ。一月前に大口の仕事が入って、がっぽり稼がして頂いたんでね。百石になるかならないかでも武家のお方は見栄のためには銭をケチらないんですね。ねぇ、旦那?」

「えっと、それは……よかったな」

 将寿の満面の笑顔に半浪人の桐辰は苦笑う。兵衛門が守銭奴だと言いたくなるのも無理はない。

「じゃあ、早速ですが、その鵺塚へ案内して下さいな。この目で見て確かめておきたいですからね。ああ、柳瀬の旦那は留守番を頼みます。間違っても、帰ってきたとき、本堂に真っ赤な水溜まりができていたり、臓物を巻き散らかしてのお出迎えはやめて下さいね」

 釘を打たれた柳瀬は苦笑する。

「もう、死のうなんて考えてないよ」

 そう言って将寿の脱いだ狩衣をくるっと丸めて抱え込んだ。どうやらたたみ方が判らなかったらしい。

「そりゃあ安心しやした――」

 そう言って濡れ縁からろくに手入れもされていない庭へと降りると、将寿は目の色を変えた。袂に入れた手には苦無が握り込まれている。


「誰だか知らねぇが……アタシらに用があるならこそこそと隠れるようなまねなんざぁ止めて、堂々と門を叩いて入って来なせぇ」


 将寿の視線の先、生け垣が僅かに揺れた。

 反射的に身構えた桐辰だったが、将寿に制される。渋々、彼は一寸ばかり抜きかけた刀を鞘へと戻した。

 すると、生け垣を揺らして向こう側から出てくる陰が一つ。唐衣からぎぬを纏った小柄な少年だ。手足は長く、衣の裾は三寸は足りていない。その露出した肌は普通の人間よりも赤い様に見える。

 髪は烏の羽のように光沢のある不思議な黒をしていて、瞳は黒檀のようにどこまでも深い黒だ。顔は幼いが、少年らしからぬ芯の通った佇まいが年嵩に見せている。

 少年は手を胸の前に掲げて指を組むと、片膝を立てて地面に足をつき、組んだ手の甲に額をつけるようにして頭を下げた。

わたしは高尾のヒノエと申す者。急ぎ、しろに取り次ぎを願いたい」

 ヒノエと名乗る少年は顔を上げた。

「白勒かい?」

「高尾の子天狗だ」

「白勒だね。残念だが、入れ違いだったようだよ。今朝方早くに猿田彦に会うため高尾へ行った。鵺の件かい?」

 そう言えば、ヒノエは頷いた。

「田彦殿は乱心した。親父殿の封印を解くと山を下り、帰ってきたときには血の穢れを纏われていて……それで、封印が解かれたと知れば白は田彦殿の元へ来るだろうと。それを止めに来たのだが……遅かったか」

 立ち上がったヒノエは肩を落とす。

「ところで――」

 将寿はヒノエに寄ろうとした桐辰の着物の襟を掴んで引き寄せた。桐辰が文句を言おうとしたが、将寿は言葉を挟ませない。

 紅く変わった瞳でヒノエを射抜く。

「どうしてそんなに血生臭い匂いをさせているんだい?」

 言われて目を見張るのは桐辰とヒノエの二人。後ろに控えた柳瀬はいつの間にか座敷の手前から奥の違い棚まで下がっていて、すぐさまそれを手に取れる位置にいた。

 言われて気づいたが、確かに、生臭い匂いがヒノエの方から漂ってきている。風向きが変わり建物が風下に回れば明らか、血の匂いに全身が総毛立った。


 ヒノエはじっと将寿の紅玉の目を見据える。


「塚へ寄っていた。少し調べさせてもらったので匂いが移っているだけだ」

「――……確かに。どうやら私の鼻が鈍ったようだね」

 将寿は首を傾げた。

 紅色は静かに引いて蒼に戻る。目に見えて、体を強ばらせて警戒の色を見せていたが、それも徐々に引いていった。

 ヒノエも緊張を解いた。

あなたは覇兎殿とお見受けするが?」

「私はただの宿主だよ。で、覇兎に何の用があるてんだい? 私は鵺を喰う気はないぜ」

「謹んでお願い申し上げたいことがある。喰うてもらいたい訳じゃない。白が手を下す前に、何としても田彦殿を封じて頂きたいんだ」

 誇りを捨ててでもと言わんばかり。ヒノエは地面に足をついたばかりか、そこに額付いた。

「白勒は身内だからといって仕損じるほど甘い人間じゃあない。それに、アタシなんかが出しゃ張りゃあ、あんたらの親分さんを空きっ腹の足しにしちまうぜ。それでもいいからとアタシに頼むんなら、行ってやってもいいが……放たれた鵺を封じ直すのが先だ」

 一方の将寿は冷たく言い放ち、地に伏したヒノエを横目に庭を裏門の方へ斜めに横切ってゆく。偏に、白勒への信頼あっての行動だ。

 しかし、ヒノエは額を地につけたまま首を横に振った。

「白は失敗する。鵺を――自分の育ての親を封印するのではなく殺したんだ。塚を見てきたが、親父殿のいた痕跡はなかった。白が自分から進んで尊敬する師でもあった親父殿の命を奪った筈がない。その証拠に奴がその後どうなったか、汝達は見てきたのだろう? 山を下り、天狗と呼ばれたほどの男が呪力を使うのを恐れる様を! ……兄を封じれるほどに、今の白は強くない。術をかける前に殺されるだろう。そうなる前に、汝の手で止めてもらいたいんだ!!」

 将寿は立ち止まる。

「……柳瀬殿。白勒が出ていってから何刻くれぇ経ちやした?」

二刻四時間位。もうそろそろ山に入る頃合だろうね」

 山に入れば猿田彦に会うのも時間の問題。足と体力の人並みはずれた桐辰が全力で走っても一刻近くはどうしてもかかる。それでは駄目だ。今から動いたところで着いた頃にはすべてが終わった頃だろう。

 しかし、将寿は頷いた。

「山に入る前なら、おそらく、まだ平気だ……アタシら三人なら『怪物道けものみち』が使えるからね」

「感謝する」

 桐辰は首を傾げる。

「問題は人が通れるくらいの歪みがあるかどうかだけれど?」

「吾が開こう」

「それじゃあ、お願いしようかしら」

 慌てて桐辰は二人を止める。よく解らないままに受け入れ会話を流し聞ける柳瀬とは違い、中途半端に理解できる彼は頭の処理が追いつかずに混乱していた。

 走って追いつけるような距離でなければ、そんな時間もない。それをいったいどうしようと言うのか。

 とりあえず。


「その……二人の言うところの『怪物道』とやらは普通の何の変哲もない狸や猪らが使う獣道とは違うということは、さすがの俺も場数を踏んできた分理解が追いつく。しかし、どうやって五刻近くかかる道を白勒殿よりも早く高尾へ行けるんだ?」

「空間が歪んでる所を抜けるんでさぁ。こう、裂け目の様なものがあってね妖や神様ってぇのはそういう空間の歪みを通って彼方へ行ったり、此方へ行ったりするんですよね。それを利用させてもらうんです。ちょうど、歪みを開ける人がいますんでね」

「はぁ……」

 解ったような解らなかったような。

 難しい顔で天井を仰げば呆れ混じりの溜息が後ろから聞こえた。柳瀬だ。

「例えば、横幅が十里も続いている天にも届くほどに高い壁があるとするっすよ。その真ん中にいて、回り込んで行かないと前に進めない。でも、目の前に隙間かあったら? その隙間や割れ目を広げて入れば長い道を行かなくてもすむんすよ」

「そういうものか?」

 将寿に視線を移せば、彼は肩をすくめ「だいたいは」と答えた。

柳瀬は続ける。

「そういやぁ、祖母ばあちゃんも昔言ってたなぁ壁と箪笥の隙間を覗けば神様がこっちを見てるって。それに、ここの近所にある神社! ……えっと、確か……御厨神社みくりじんじゃ! その境内の隅にある御池を覗けば別の世が見えるとかって。聞いたら祖母ちゃん、その御池に映る月の陰を通って来たって言うんすよ! もう、冗談だったってすぐに判ったからよかったものを……俺は幼いながらにこの世の人間じゃなかったんだって、本気で悩んで――」

「――柳瀬の旦那。そのへんにしとくれ。ヒノエがしびれ切らして待っていやすんで」

 ヒノエは何も言わなかったが明らかに険しい表情で柳瀬を睨め付けていた。

 だが、一番冷静に見えていて一番動揺しているのは将寿だ。顔にも態度にも慌てた様子を欠片も見せてはいなかったが、『声』が違った。いつもより低く内に響く声で、口調も若干早まっている。それに何より、いつもは晴天の如き澄んでいる蒼がまるで黄昏の空を映したかのように揺れている。

 それに比べて、自分の落ち着きように桐辰は戸惑った。


(まるで、野次馬の如き傍観者だ)


 白勒の、恩人の危険を聞いても尚、急いで追いつかねばと焦る気持ちもわいてこない。否、寧ろここで自分までもが焦ってはいけない。

 柳瀬の時は将寿が……ならば、今回は自分が場を見極めなければ。

「ヒノエよ。猿田彦は高尾のどこにいる?」

「……勒隠院ろくおんの真北を上った先に、山頂近くの屋敷だ」

 桐辰は頷く。

「直ぐに向かおう」

 そして――


 ――猿田彦と話をしよう。


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