参ノ噺 紅衣の獣の怪

序幕


 遠くの方で狼の遠吠えが聞こえた。

 今し方、寝支度を済ませ布団に入ったところでのことだ。男は身を起こして綿を抜いたばかりの半纏を肩に羽織って表へと出た。

 そこにはいつもと何一つ変わらぬ岬が見えた。少し先の入江には白川の河口と港が見え、凪の穏やかな波が確認できる。


 しかし、港の様子などよりも『塚』の方が気になる。


 男は塚守つかもりだった。

 家の直ぐ裏手の林の中に小高く土を盛った塚があった。数十年前にできたそれには草花の一つも茂ることなく、不気味ではあった。『獣』を封印したとのことだったが、ただの猪や犬畜生でないことは確かだ。


 塚の側には日吉大神ひよしのおおかみを祀った慎ましやかな祠があった。そのことから、男は『猿』に関する何かが眠っているのだと推測していた。

 封印を施した当の術者は何も語らなかった。かわりに男に、『塚』と『祠』を何者からも守ってほしいと頼み込まれたのだ。

 古い由がある。大恩もあった。故に男は二つ返事で塚守を引き受けたのだった。




 男は灯明の火を頼りに林へと向かう。

 枯れ草を踏み倒してできた獣道は毎日通っているのだから、少々暗かろうが問題はない。それでも、恐怖心はある。ただの防砂林で狼などの大型獣が住み着いているわけもないとは解っていても遠吠えが聞こえたのだ。慣れた道でも怖いものは怖い。

 塚守を買って出た以上は狼などに塚を荒らされ封印が解かれようものならば、申し訳が立たない。解き放たれた『獣』が何をしでかすか判ったものではない。


 逐一、周りを見ながら前へと進む。十間ほど進んだところで視界が開けた。そこに少しこんもりと土が盛られていて、その上に大きさの違う平たい石が大きいものが下になるようにして三つ重ねて置かれている。奥には小さな祠があって、そこに日吉大神がいた。

 男はまず、塚に異常がないことを確認するとほっと胸を撫で下ろし、祠の前に膝を突き手を合わせた。


(何にもねぇようで良がった)


 安心した男は帰ろうと振り返った。何にもない。これでやっと床につける。

 男はもう一度、祠に頭を下げると来た道を戻ろうと塚の脇を抜けた。しかし……。



 がさっ……


          コトン



「――!?」

 ちょうど林へ入りかけたとき。枯れ葉を踏みしめる音に続いて、石の崩れた音がした。

 跳ねた心臓を抑え込むように胸に手を置き、男はゆっくり塚を振り返る。

 目を見開いた男は、塚の上を凝視したまま腰を抜かしてひっくり返った。湿った土の上に尻をつく。すると襦袢が湿り、冷たいものがはしる。


「シンエンミ様がお怒りじゃ」


 積んだ石は崩され、半分以上の土が掘り返された塚。

 その上にいたのは猩々緋しょうじょうひうえに墨染のはかまを身に着けた少年の様な何か。身体は確かに十四・五の少年のもの。手足が長く全体的に細身。しかし、皮膚が異様に赤い。

 それだけではない。頭の毛は真っ白で赤い顔の下半分には狼の鼻面を模したような面を着けていた。

 そいつは腰を下ろした蹲踞そんきょの姿勢で開けた股の間に細く長い手をだらりと垂らした。鋭い黄金の目が怒りをたたえて男を睨む。

「親父殿……親父殿を返せ、人間!!」

「ひ、ひいぃぃぇ――!」

 男は近くの枯れ枝に火を移して松明のようにすると『獣』に向かって乱暴に振り回した。しかし、『獣』が火を恐れることはなく、ゆらりと揺らめき立ち上る火のような動きで立ち上がると、首を傾けた。

 その手を面にかけ、ゆっくりと顔からはがす。そして、にったりと不気味な笑みを浮かべると地を蹴った。

 四本の手足を地面につき男に飛びかかり、白い牙ののぞいた口を大きく開く。


 がぶり


 そのまま男の無防備な首もとに食らいつき、その肉を引きちぎった。骨が砕ける小気味よい音だけがする。のどは食い破られ、男は最後に絶叫することさえできずにヒューヒューと空気の漏れる音だけを残して息絶えた。

 赤い飛沫が衣に飛び散り、猩々緋の中に溶けるように吸い込まれてゆく。

「これは天誅なり」

 口の中の肉塊を吐き出すと『獣』は血に穢れた口元を拭った。そして、祠に向かうと大神に一礼する。

かしこくも大神様の御前を穢し、神域に干渉申した罪、願わくばしばしの間お許し頂きたくそうろう

 笹の葉を一つ、神体である鏡の前に一文字に置き、手を合わせた。その手で供えられた神酒の入った杯を取り、口の中を濯ぐ。


 ――堕ちるわけにはいかない。


 その目は冷たくかつて男だったモノを射抜く。そこに感情などない。あったとしたら、塚守であったが為に殺されたことに対する僅かな同情だろう。

 『獣』はその僅かな同情から弔いの笛を吹いた。天を突き抜けるような遠吠えが夜の闇の中に響きわたる。


 今宵ここに新たな怪奇の幕が上がる。

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