幕間

赤い傘


          1


 冬枯れの頃。寒さにめっぽう弱い彼は外に出るのを嫌がる体に鞭打って、定廻の為に夜の白川沿いの道をゆく。

 鼻先は凍り耳は痛いのを通り越して熱くなってきている。そんな寒さの中、行灯片手赤傘片手に肩を目一杯上げて冷たい風を堪えていた。



          *



 赤傘は昼間に拾った。

 何でもない、どこの傘問屋に行っても見るような平凡な傘だ。しかし、和紙に塗った蝋はとっくに落ちて破れ、骨も折れたり短くなったりしている。ぼろぼろだ。

 それを見た草薙桐辰は首を傾げた。

 ここ最近雪がちらつくことがあっても、雨はなかった。強風が吹くこともなく、壊れて誰かが捨てたり飛んできたりなどしたわけではないだろう。柄の部分に何か字が刻んであるようだったが、摩耗して読めたものではなくなっていた。

 そもそも、有馬ありま家栄戸屋敷に隣接した侍長屋さむらいながやの自宅前という場所にあって、朝方もそこは通っている。記憶が確かなら、そこに傘など置いてはいなかった。

 不思議だったので、定廻前の一時に将寿にも見せに行った。だが、夜見世前の忙しい時間に行ったのが悪かった。

 遊女の帯を小史と数人の禿に手解きしながら締める片手間に少し眺めて、ただの傘に過ぎないと突っぱねられてしまった。

 その後、当然のように追い返されたのだった。


 故に、こうして傘を持ったまま見回っている。



          *



 それにしても、寒い。本当に、雲があれば雪でもちらついてきそうだ。

 歯を食いしばっていなければ、忽ちの内にカチカチと音を鳴らし始めた。ただでさえ十手ではなくぼろぼろの傘を持っているというのに、格好も何も付かない。


 正しく鬼の形相であった。

 しかし、相方は私用で暇を貰って町廻りから抜けていて彼は一人。月もない夜に出掛ける者など少ない訳で、すれ違う者もなかった。





 雲一つ無い突き抜けるような真っ暗な空が余計に寒々しく、星が氷の粒に見えてきたあたりで、川の方に平を向けた切り妻造りの店の軒先に老婆が一人立っていた。

 少し小柄で、丸髷に結い上げた髪もほとんど白くなっていたが、腰はしっかりしていて背中はピンと張っている。年甲斐もなく花櫛などを挿し、御所車ごしょぐるまと四季折々の草花の描かれた淡い桃の着物を纏っていた。

 その雰囲気が、少しだけ誰かに似ている気がした。しかし、誰だったか。思い出すことができない。

 彼女はしきりに空を気にしながら、時折上を向けた掌を前に出してみては見上げている。

刀自とじ、いかがなされた?」

 桐辰は声をかけ、少し距離を取りながら近づいた。

 すると、老婆は怪訝な顔一つすることなく、にんまりと優しげな笑みをたたえて手招きした。招かれていて行かないのは失礼だと、桐辰は訝しみながらも彼女の横に―一間ほど離れて―立った。

 横に立つと判るが、老婆の背は頭が彼の腰に届くか届かないかしかない。

「あらまぁ、別嬪なお侍様だこと」

 そんなことを言われたのは一度きりだ。

「こんな夜更けにお一人で、何をなさっておいでだったのだ?」

 もう一度問う。

 すると、老婆は笑った。

「傘を何処ぞに失してしまいまして、仕方がないんでここで雨宿りをしていたんです。昔、幼い頃に親切な天狗様――思い返せば修験者か何かだったのでしょうが、その方に頂いた大切な傘でしたの。でも、ついになくなってしまいましたわ」

「それは……残念であったな」

 雨など降ってはいないと、教えようかとも考えたが、彼女の顔を見ていると告げることはできなかった。

「ふふふ。でもこうしていたらまた、あの優しい天狗様に会えるんじゃないかと待っておりましたの」


 惚れていたのだろうか。


 そんな風に考えを巡らせてしまうほどに、彼女は楽しげで、愛しい男に想いを馳せる少女の様にきらきらと輝いて見えた。

「お侍様は、匂いがあの方に似てらっしゃる……よろしければ、その傘をお貸しいただけないかしら?」

 老婆はぼろぼろの傘を指さして言った。

 しかし、もう張り替えて仕立て直すこともできないだろう傘を渡すわけにもいかない。それに、この傘はいけない。『ただの傘』ではないかもしれないものだ。

 桐辰は「人からの預かりものだから」と、首を振った。

 老婆は言った。

「しかし……」

「お願いいたします。今度は必ずお返しに上がりますから。その傘を貸してくりゃれ」

 老婆の懇願に負けたと言うよりも、自然と、桐辰はその傘を彼女に差し出していた。勝手に手が動くとはこういうことなのだろう。


 老婆は傘を挿して晴れた夜の道へと歩み出した。一歩進んで振り返る。

 不思議。見返った彼女は老婆ではなく、林檎のような紅色をした頬の早乙女であった。袂を口元に少し吊り気味の目を細めて艶っぽく笑む。


 「ありがとうござんした」


 何度も何度も振り返りながら頭を下げて、彼女は闇の中へと消えていった。




          2


「どう思います? 川獺かわうそにでも化かされたのでしょうか」

 桐辰は、読経を終えて早速本堂に寝転がる白勒に尋ねた。

「半分は当たりで半分は間違い。そりゃあ、川獺じゃなくて狐だな」

 天井を仰ぎながら白勒はそう言った。そして、桐辰から渡されたまっさらな赤傘を手に眺め、確かめるように開くと、それを肩にひっかけた。

「うんうん、こんな感じだったなぁ。開くのにちょっとコツがいって、肩に掛けるのにちょうどいい具合にへこみがあらぁ」

 まるで、その傘は自分のものだと言わんばかりだが、彼の傘ではない。そもそも、彼は笠を好み、傘は持っていなかった。

「狐に化かされたと?」

「ああ、そうだ」




 昨夜、老婆――女に貸したはずの赤傘は新品然として、早朝、桐辰の家の前に返ってきていたのだ。破れがなければ蝋も剥げてない塗りたてで、折れていた骨も真新しくなっていた。ただ、柄の部分についたキズだけは消えておらず、今ならはっきりと『白』の文字が読んで取れる。

 書き置きがあったので、その傘が貸したぼろ傘だと判った。


 奇妙だと、今度こそおかしいと将寿を訪ねた。

 ところが、昨夜は座敷に引っ張り出された後に男衆としても仕事もこなしていたようで、仮眠を取っていた。出てきた小史によれば、無理に起こすと最悪の機嫌らしいので、何も聞くことなく引き返してきたのだった。

 なら、白勒に聞くのがいいだろうということで今に至る。

「つまり、俺が遭った老婆が狐だと……そんな安易なものでしょうか」

「そういう訳じゃないが、その婆さんの格好がな問題なんだよ。綺麗な人だったろう? ちょうど、鬼灯楼の女将みたいになぁ」


 あっ……。


 誰かに似ている。そう感じたのは間違いではなかったようだ。若返った後と足して割ってみたのを想像してみると、納得がいった。

 しかし、どうして白勒がそのことを知っているのだろうか。桐辰は気になって尋ねてみた。

「あの傘なぁ……昔、俺が狐にやったもんだ。雨の日に震えててなぁ、普通はそんなの気にしないんだがなあ、あんまりにも別嬪な狐だったもんでな。ついなぁ」

「化かされてやったと?」

「ああ。奴は白狐。茶吉尼天だきにてんのお使い狐みたいだったから、何かもらえるかもと期待してな。けどまぁ、別嬪さんに『傘貸してくんろ』なんて、うるうる目で頼まれちゃぁな。貸しちゃうでしょ」

「そういうものでしょうか……」

 疑問はある。しかし、押し切られ傘を貸してしまったというのも本当のことだ。

 と、桐辰は老婆の言葉を思い出して首を傾げた。


「それなら、彼女の言っていた天狗様とは白勒殿のこと……ですか?」


 天狗と言えば修験者。しかし、白勒は破戒僧。袈裟もつい最近身に着けるようになったばかりで、数年前はまともな着物も着ていなかった。

 山で修行をしていたなどという話はもちろん聞いたことはない。

「天狗? ん……大昔はそう呼ばれてたこともあったな。親が山奥に住んで修行に明け暮れてたもんで、俺も真似してたんだな。懐かしいなぁ……まぁ、天狗と言っても頭に『子』って付いとったがな!」

「想像できない。ユキが袈裟を着て頭を丸めるくらいに、有り得ないです」

「そうさなぁ。俺は山下りて人に戻っちまったんだろう。それも、親を裏切ったとんでもないろくでなしだ」

 白勒は体を起こすと桐辰に背を向けた。そして、本尊である弥勒菩薩みろくぼさつを仰ぐ。



「ろくでなしなどでは……ないですよ」



 桐辰は知っている。

 白勒は僧侶と言っていいのか疑問に思うほど戒律を守らない不信心者である。仏にそっぽを向かれないのが不思議なほどだ。

 しかし、彼は『不空むなしからずの白勒』と呼ばれるほど、人々に篤く慕われていた。それも全ては、その心根の広さ故。迷う者、困っている者があれば手を差し伸べ、不安や恐怖があるのならば取り除き、道が明るくなるまで隣に寄り添う。

 皆、光明の白き弥勒を彼の背に拝むのだった。


 それが白勒法師という男だ。


 確かに、女にだらしがなくていつでも昼夜を問わず酔っぱらい、髭も髪も伸ばしたままと本当に僧侶なのかと疑いたいところだ。とてもじゃないが、子供に見本となるような真っ当な人間ではないだろう。けれど、彼ほど立派な生き方を桐辰は知らない。

 他ならぬ桐辰も、かつてこの男に救われたのだから、よく解っていた。


 傘を貸してくれた。たったそれだけのことだ。茶吉尼天がどうのと言ってはいても口先だけ。自分の不利益も利益も、考えちゃいない。感謝されることさえ求めていないのだから。

 狐はそんな彼に惚れてしまったのだろうな。


「――なら、不孝者だ」

「はいはい」


 白勒は照れくさそうに肩すくめた。


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