醜い菊

          2


「その人に手ぇ出すんじゃないよ」


 チリン……


 将寿は菊乃の首に後ろから手を回して、刃突きつけた。ゆっくりと立ち上がらさせる。

 すでにこの場は将寿の舞台の中。屋根から飛び降りると同時に赤い紐の付いた苦無を長屋と長屋の間に幾本か渡してあった。

「何やの。将寿はんまでウチの邪魔しはるんだすか?」

「私はお花兄さんと旦那の依頼でお前を喰いに来たんだ。出て来な」

 将寿は左に握った数珠を菊乃の背に当てて、強く押した。彼女は体を仰け反らせて呻く。

 すると、彼女はその場に膝を折った。

「『菊乃』さん、貴女が何をしたところで貴女のお姉さんは喜ばないよ。私達みてぇな部外者に解ることじゃあねぇが、貴女のお姉さんは家族に看取られ幸せに死んそうだ。大往生だったって」


 チリン……と、将寿の鈴が鳴ればその手から白刃は消えていた。将寿は菊乃の体から出てきたもう一人の『菊乃』を抱き寄せる。

 その彼女には顔がなかった。

「ウチ……姉さんから顔を奪ってしもたんや。火事場でウチを助けるために火ぃの中に飛び込んできて、目ぇも悪うなってしまわはった。全部、全部……ウチが姉さんから幸せを奪ってしもた。せやから、綺麗な顔をあげたら許してもらえるんやないやろかって、阿呆なこと思てしもて」

「菊乃姉さんの負の念に絡み取られたんだね」

 将寿の言葉に肩を振るわせた『菊乃』は掌に顔を埋めた。それを風華が慰めるように自分の方へと抱き寄せた。

「嬢さん……酷なこと言うようやけどな、嬢さんが牡丹から幸せ奪ったんは否定でけへん。嬢さんが死んでもうた時なぁ、牡丹、えらい長いこと涙涸れてまうまで泣いとったんやで。『何で、ウチより先に逝ってもうたんや』って。俺からすりやあ、牡丹が一番幸せやなかった時はそん時や。火傷で顔がなくなった時とちゃう。それだけは、覚えとったってくれ」

「花……ウチ……」

 言い掛けたその時。倒れていた菊乃が落とした包丁を拾い上げて、傍観していたぼたんを捕らえた。

 すぐ傍にいた桐辰は油断していた。目の端で菊乃の動きを捉えてはいたが、反応できず。一歩遅れて刀を抜いた。

 風華もまた遅れて振り返る。


「風華兄さん、あたしはいつも座敷の隅であたし等に混じって二胡を弾いてる兄さんを見てた」

「知っとる」

 至って冷静。風華は淡々と答えた。

「他の芸妓連中は兄さんを気味悪がってたけど、あたしは兄さんの堂々としたところが好きだった。心底、惚れていたさ」

「知っとる」

「でも兄さんはあたしみたいな三味線弾くしか能のない地味な女に気を止めてくれなかった。だって、兄さんは綺麗な女にしか興味がないんだもの。だから、綺麗な女を憎んだわ。殺してやりたいってね」

 菊乃はぼたんの首を締め上げるように腕を回し押さえ、刃を美しい顔へと突きつける。刃先の当たる頬からは一筋赤が流れてゆく。

「その殺意を他者に負わせるために、のっぺらぼうとなった『菊乃』を利用したのかい?」

 将寿が質せば菊乃は高笑った。嘲るように。

「そこののっぺらぼうの女が綺麗な顔が欲しいって言ったのよ。だからあたしが協力してあげたの。百夜通いの続きをしましょうってね。この時期に芍薬をどうやって用意しようかと悩んだけれど、そいつが後生大事に持っていたのよ。笑っちゃうわよ。死んでまで好いてもくれなかった男との約束を果たそうとするなんてね!」

「下衆が。旦那、私は喰わねえから、さっさと背負っ引いて行ってくれてかまわないですぜ」

 もう、自分には関係がないとばかりに、将寿は壁際まで下がってそこにもたれ掛かった。

 菊乃に対するは桐辰だけ。風華と『菊乃』は将寿と同じように後退する。

「大人しく、奉行所まで来い!」

「刀を下ろしな。じゃないと、この女を殺すよ。ほら。風華兄さんの大切な女の首を狩ってしまうよ!」

 興奮した菊乃の様子とはまるで背中合わせに、風華は溜息を吐く。恍惚とした表情から一転、菊乃もさすがに彼の反応を訝しむ。

「な、何さ!? この女を殺すって言ってるんだよ!」


「――ふふふ。ええよ。できるんやったらなんぼでもやっとうみ」


 風華は突き放すかのようにそう言い放った。

 喚く菊乃の腕の中。息苦しさに顔をしかめながら、ぼたんが彼女を嘲り笑う。それが、菊乃に一瞬の怯みをもたらした。彼女は動揺する。

「ウチが首突かれて死なへんかったんを忘れてしまわはったんかいな? 何したって構わしまへんけど、この『八百比丘尼』下手な殺し方されたところで、死にゃしまへんえ」

 一瞬できた隙。一呼吸。しかし、完全に菊乃は集中を欠いた。

 前回はまともに動けず見ていただけの桐辰だったが、それを見逃すほど愚かでも未熟でもない。腕は並でも反応はできる。

 桐辰は左脇から踏み込んだ。素早く抜刀し、無秩序に振られた包丁を弾き飛ばし、勢いのままに二人に突っ込んでいった。

「旦那は大雑把だねぇ。けど、悪かぁないですぜ」

 後先を考えていない桐辰に巻き込まれ、折り重なるようにして倒れた三人。その中から菊乃が真っ先に這い出た。

 何をもたついているのか、一番上にいたはずの桐辰は倒れ込んだ際に地面に突き刺さってしまった刃先を抜いている。

 その間にも菊乃は将寿が張り巡らせた紐の結界へと近づく。



「無駄でさぁ」



 ――チリン

          リン……


 けっして、早い動きではなかった。ただただ無駄を削いだ滑らかな動作で菊乃の近くに走る紐を手前に引いた。先に付いた苦無は勢いよく彼女の足をかすめる。

 よろめく菊乃。しかし、その程度では止まらない。かなり深く抉れていたが痛みを感じている余裕すらないようだ。

 仕方なく将寿は再び動く。草履を脱ぎ捨て裸足になった彼は、紐を飛び移るように走り渡り、一番奥の一番高い場所に張った紐にトーンっと軽い拍子で飛び乗った。そこから苦無を三本投げつける。それは綺麗な一文字に並んで菊乃の足下へと落ちた。

 反射的にそれを避けた菊乃はしかし、立ち止まった。

「貴女はとっくにこの私の結界の中。逃げられやしないよ」

「あたしは――!」

 問答無用。将寿が紐を引けば苦無が菊乃の頬に赤を刻んで彼の手に収まる。

 将寿を相手取るには分が悪いと踏んだ菊乃は前に進むことをすんなり諦めて後ろを振り返った。彼女を待っているのは羽織りを脱ぎ尻端折りになって傘の柄に仕込んだ匕首あいくちを抜いた風華と刀を構えた桐辰の二人。

 左右は長屋に挟まれ、通り抜けて裏手へ出たところで、つい今し方駆けつけた奉行所の面子によって周囲は固められていた。


 観念したのか、菊乃はその場に崩れるように座り込んだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る