2 のっぺらぼう

菊花獣


          1


 ぼたんの言葉に女は一瞬、動揺の色を浮かべた。

 しかし、そんなもの直ぐに取り繕えるもの。女の顔と同じで上に別のを塗り重ねてやれば、赤芍も白芍に成り変われる。


「何だい? その『のっぺらぼう』ってぇのは」


 しかし、ぼたんの目は彼女の顔を見ていない。当然、顔色なんてものを窺っているわけではなく、僅かに上擦った声色に注意深く耳を立てていた。

 人間、感情が露わになるときには普段の寡黙が饒舌に変わったり、高さや音の強調の仕方が微妙に変わるもの。それをぼたんは嫌と言うほど長い人生の中で経験し、簡単に見抜けるようになっていた。

「まぁ白を切るんも解りおす。けど、初対面の、それも夜中にいきなし家訪ねてきた尼を見てそないに落ち着いとるんわ不自然過ぎとちゃいますやろか。そう思わはらへん?」


 バサッ。


 ぼたんは蛇の目の傘を畳んだ。

「よしとくれよ、牡丹姉さん。私とあんたは血を分けた姉妹だろ? 色街の見世の娘として育った私らが悪所で再会だなんて因果な話じゃないの。ほら上がって。お茶でも――」

 そう言いかけた女の言を絶つように、ぼたんは頭巾を脱いだ。ゆっくりと、目元を覆った布を巻き取り、顔を上げる。

 女はその顔を見て、目を見開いた。そこに、彼女の知っている顔はなかった。


 火傷のない美しい華。


 そればかりか彼女は倭の人間ですらなかった。

 少しつり気味の大きな目のその瞳は翡翠のような柔らかな緑で、尼削ぎの髪は光に透ける大海のような濃紺だった。

「ウチはあんたの姉さんやおまへん」

「…………どういう――」

 ぼたんの目は女を憐れんでいた。昔見た目と同じ色を浮かべている。

 才色兼備の姉。そんな姉と愚かにも競おうと勝とうと足掻く愚図で頭の悪い妹。滑稽な様を見る姉の目は今でも脳裏に焼け付き、忘れることができない。


 その目で見られるのが嫌で、嫌で……殺そうとした。


 雨で増水した白川。そこに架かる大橋の上から姉を突き落とした。

 けれど、運が良いのか悪いのか姉は死ななかった。三日三晩の間、無駄に苦しみ抜いてそれから望み通りに死んでくれた。


(それで、あたしの姉さんは死んだ)


「――そうよ……牡丹はあたしの姉さんじゃない」

「ウチの『姉さん』や」

 女の紅を引いた口元が弧を描く。

 その刹那、彼女の手は脇の厨に置いてあった包丁を掴み取り、ぼたんの喉を深く貫いていた。



          *     *



 ドサッと、ぼたんがその場に崩れる音がする。

 すると、菊乃とぼたんの傍で控えていた風華は将寿が止めるのも聞かずに二人の前に飛び出して行った。それに桐辰までついて行こうとする。

 桐辰まで出て行ってしまっては面倒なことになると、将寿は彼だけは何とか引き留めた。しかし、風華は間に合わなかった。将寿の手の中に鴬の襟巻きだけが残る。


「ぼたん!」


 彼は息をしないぼたんに駆け寄ると、その体を引き寄せて膝の上に抱き抱えた。鴇色の着物を彼女の鮮血が瞬く間に赤く染め上げてゆく。

 突然出てきた想い人を前に菊乃はすっかり狼狽えて足を震わせている。

 愛しい人の前で人を殺した恐怖。そこに、愛しい人の愛した者を手に掛けた高揚感が混ざり、えもいわれぬ快感が体の震えとなって彼女を襲っているのだろう。



 それは、甘美。



 道端の華を手折る罪悪感に似ている感覚。否、それ以上。

 手に残った滑りとなま暖かさが淫らな感情を呼び、体の内を熱くする。


(嗚呼、気持ちがいいわ)


 恍惚の表情を浮かべる菊乃に風華は憐憫れんびんの色を示した。

「そんなに俺と牡丹が憎かったのか? 関係ぇねぇもんの人生まで奪って……なあ、答えてくんなよ嬢さん!」

「連れへんこと言わんとってぇな。ウチは花の為に殺したんやで。ほら、ここに首が……」

 菊乃はそう言って部屋に戻ると瓶の中から美しく飾った首を取りだしてきた。首を胸に抱いて風華の前に立つ。そして、真っ白な粉を叩いた滑らかな頬に軽く口付けを落とした。その目は風華をうっとりとした目で見つめ、彼を求める。

「ほら、綺麗な華やと思はしまへんか? 花は面食いやと覚えとったさかい、佳人を探して首をあげまひょって。これだけ美しい華を見つけるんには苦労しましたんやで。せやけど、直接この華を芦原に持って行くわけにはいきまへんよって、代わりに昔みたいに芍薬の花を植えましたんや。それ見たら、ウチのことかて思い出してくれはるやろうてな。思てた通り、こないして会いに来てくれた……そこの女の首を取れば最後。さぁ、こっちに貰いまひょか」



 最後は『姉』の首だ。

 首を傍らに置いた菊乃は持っていた包丁を前に出し、風華へと近づいてゆく。けれど、風華を殺しはしない。欲しいのは横たわるぼたんの首だけだ。

 それを見る者が知っていたとしても、今の菊乃の狂気に満ちた様子は風華を殺そうとしているようにしか見えなかった。



          *



 菊乃の家のすぐ隣の細い路地。

 将寿は桐辰を抑えていた手を緩めた。もう、菊乃が下手人である証拠も現場も押さえている。今出て行ったところで段取りは大して変わらない。

「女の祟りってぇのは、怖いものだね」

 小さく呟く将寿。

 彼は音を立てることなく屋根に上がると、菊乃の真上に位置付いた。右手には白刃を逆手に持ち、左には数珠を握る。

 まだだ。

 将寿は腰を低くして構える。




「嬢さん……目ぇさましてくれ。あんたはとっくの昔に流行病で死んでるんだ。もう、八十年も前に。それこそ、俺がすっかり栄戸訛りになっちまうくれぇ昔の話さ」

 菊乃が動きを止めた。

 と、同時に、首を貫かれたはずのぼたんがその体を起こした。



「何で――?」



 思わず声を出したのは菊乃だった。

「あぁ~……久々にえらい死に方させてもろたわ。恋敵と間違われて首突かれてまうやなんてそうそうできる経験やおまへんえ、菊乃はん」

 ぼたんはそう言って血が付いた首元を手でさすっていた。しかし、そこにあるはずで、そこになくてはおかしい傷がない。

「ほんまに人払いは済ましてくれてはりますんやろな? 草薙様」

「――ああ。この辺り一帯に人はいない」

 事情を飲み込めたのだろう。路地から出てきた桐辰の様子は先程とは一転、落ち着いていた。

「芸妓の菊乃。娘二人と比丘尼ぼたんを殺めた下手人として奉行所まで来てもらおう」

 菊乃は直ぐに動いた。

 彼女は桐辰をキッと睨んだかと思うと手にした刃を彼へと向けた。ただの女とは思えぬ素早さで懐へと踏み込み鳩尾めがけて両腕を突き出す。

 しかし、桐辰もただではやられるつもりはない。上体を左にひねり、そのまま左足を下げて柄に手をかける。

 狙いを外して体勢を崩した菊乃は、しかし、間髪入れずにもう一度桐辰を正面から狙った。冷静さを欠いた彼女は頭上に掲げた包丁をそのまま力任せに振り下ろす。

「単調だ!」

 桐辰が峰打ちを入れようとした時、菊乃は体を低くした。空を凪ぐ刀。その瞬間、菊乃は桐辰の足へ手を伸ばした。

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