虫歯

井戸川胎盤

虫歯

 僕は歯が痛かった。紛れもなく虫歯だった。

 近頃、色めきたった木々が春風にたなびくたびに僕の歯はきりきりと痛んだ。

 正直に言って歯医者は好きではない。口を大きく開け続けるのは疲れるし、なんだか苦しい。舌の置き場にも苦慮してしまうし、時に痛い思いをすることだってある。ましてや以前に歯が汚いとこっぴどく歯医者で説教された経験もあって、到底自ら進んで行きたいと思える場所ではなかった。

 しかし、こうも歯が痛いのでは歯医者に行かざるを得ない。

 僕としては歯を清潔にしているつもりだった。毎日朝起きて歯を磨くし、寝る前だって歯磨きはする。確かにお昼に歯磨きはしていないが、しかし、それは僕だけでなく大多数の人間がそうではないだろうか。

 少なくとも僕の歯磨きの頻度は一般的なそれであった。

 だが、僕の歯磨きが下手なのか、誰しもがそうなのかは知らないが、いつのまにか虫歯になっていたらしい。思えばしばらく歯医者にはかかっていなかった。僕が歯医者嫌いなのもあるが、特に歯が痛くなければ、そうそう行こうと思うものでもない。

 結局、言ってしまえば、僕は歯医者なんてただひたすらに面倒だなと考えていたのだった。




 その日、僕が向かったのは家から二番目に近い歯科医院だった。一番近い歯医者は以前にこっぴどく説教をしてきたので、近寄る気にはなれなかった。ただでさえ歯が痛いと言うのに、その上どうして説教などされなければならないのだろうか。思い出しただけでもむかっ腹が立つ。

 その嫌な歯医者の目の前を通り過ぎ、しばらく歩く。すっかりと満開になった街路樹の桜を見ながらも、今から歯医者に行くのだと思うと気が滅入った。

 そうして十分ほど歩くと、小さく小綺麗な建物が見えてくる。家から二番目に近い歯医者というのがそこだった。

 中に入ると待合室は混み合っていた。ただでさえ面倒なのだ。歯医者なんて手早く済ませてしまいたいと思っているのに、待たされるのは億劫でしかない。

 そうふくれながらも受付に立つと、僕の前に最初に現れたのは若い女性だった。飛び抜けて美人でもないが、取り立てて不細工でもない。なんと言っていいか、特徴の薄い女性であった。

 歯科助手であるらしい彼女は治療の手伝いをするほかに受付業務もしているようで、保険証を手渡した僕に「今日はどうしました?」と笑顔を浮かべて声をかけた。僕が事務的に奥歯が痛いことを伝えると彼女は「ちょっと口開けて見せてください」と言って、僕に口を開かせた。

 大きく口を開けて間抜けずらをした僕をじっと彼女はのぞきこんだ。痛いと伝えたのは奥歯であったが、それがよく見えないのか、うーんと彼女は悩ましげな声を上げた。

 ふいに彼女の手が僕のあごに触れた。急に顔へ伸びてきた手にどきりとしたが、どうやらよく見えるよう角度を調整しているらしかった。

 僕の顔に手を添えて、口をのぞきこむ彼女と僕の距離は近かった。受付のカウンター越しではあるものの、すぐ目の前に女性の顔があることが僕を緊張させた。

 近づいた彼女の顔をぎょっとしながらも見つめていた僕は、急に気恥ずかしくなって、その顔から目をそらした。そらした先にはさして大ぶりでもないが、かといって小ぶりでもない彼女の双丘があった。白衣、と言うのだろうか、よく看護師なんかが着るような白い服の上に羽織った紺色のカーディガンがなだらかな曲線を描いて隆起しているのが目に飛び込んだ。

 ふと友人の磯山くんの言葉を思い出す。今の僕と同じく歯を痛めて歯医者に行った彼は治療をされている間、ずっと頭に歯科助手の胸が当たっていたことを僕に自慢していた。それを思い出してしまったからか、余計に僕は気恥ずかしくなってしまった。

 「はい、もういいですよ」

 僕の歯を見終えたらしく、彼女が声を掛けた。意識が現実に戻って、慌てて視線を彼女の顔に戻した。胸へ向けていた視線を見られなかっただろうか。僕の顔は上気して赤くなっているのではないだろうか。そう思って僕はわたわたと顔を戻したが、彼女は相変わらずにこにこと僕に笑みを向けていた。

 さっきは気が付かなかったが、笑顔のかわいい人だった。ふっくらと丸みを帯びた顔立ちにえくぼが出来て、愛嬌のある人なつっこい笑みだった。おそらくは肩口まで切り揃えているだろう髪をアップにして、薄く化粧をした顔は派手さはないが、端正だった。小さくもないが、大きすぎないその眼が笑うとうっすらとした線へと変化して、それが愛嬌を演出していた。

 ぼうっと彼女の顔を見ていたところに、「しばらくお待ちください」と声を掛けられると、はっとした僕は自分の邪念を隠すようにいそいそと待合室のソファーへと逃げた。




 しばらくすると自分の名前が呼ばれた。呼んだのはさっきと同じ女性だった。

 言われるがままに診察台へ向かうと、大柄な男性、おそらくこの歯科医院の歯科医師であろう人物がやってきて、僕の口をのぞきこむ。何かを確認すると、端的に「虫歯ですね」と言った。

 しばらく彼の話を聞いていると、どうやら僕の歯は汚いらしい。歯間に歯石が詰まっているらしく、虫歯の治療のついでにそれの除去もするということだった。それだけを言うと男はすっと去って行き、残されたのは僕と先ほどの彼女だった。

 どうやら彼女が歯石を取ってくれるようだった。

 歯が汚いのもさることながら、年若い女性に汚い歯を掃除されるのは恥ずかしい。そう思うと今度はさっきとは別な意味で顔が赤みを帯びた。

 診察台に寝かされた僕は当てられたライトのまぶしさに目をしかめつつ、大きく口を開けた。彼女から歯についての講釈をただひたすらに聞かされながら、細く先の折れ曲がった針のような器具でがりがりと歯が、いや正確には歯石がこぎ落とされていく。

 僕はただそれを漫然となされるがままになっていた。しかし、しばらくしてくると緊張感がだんだんとほぐれてきたのか、次第にぼんやりとしてきてしまった。診察台の上で仰向けのような格好になっていたからかもしれないし、日頃の疲れが溜まっていたからかもしれない。あるいは春の陽気のせいかもしれない。頭がぼうっとして眠くなってきてしまったのだ。寝入ってしまうということはなかったが、それでも体がふわりと緩んでいくのがわかった。かりかりと歯石を取る音と振動が微妙な心地よさを演出していた。

 このままでは寝てしまうかもしれない。歯医者で寝入るのもどうかとも思い、目を覚ますように何かをしようかとも考えたが、しかしかといって歯をいじくり回されている間、僕に出来ることはない。むしろ彼女の作業を考えれば、微動だにせずぼんやりしているのが親切とすら言えた。

 その夢とうつつの中で身じろぎをせずにいると、だんだんとぼんやりとした頭がさらにぼんやりとしてきて、一体僕は今何をしているのだったろうかとすら考えた。

 歯の治療に来ているということさえ、すっかりと抜け落ちて、朦朧とした脳は彼女の指が僕の口に突っ込まれ、そこに触れているという事実だけを認識した。

 ――今何をしているかと言えば、歯をいじられている。

 ――若い女の人が僕の口に指を突っ込み、いじり回している。

 彼女のか細い指先が僕の唇を押し上げる。身じろぎ一つ出来ない僕の唇にその指が触れるたびに、脳に刺激が走ると同時にさらにぼうっとしてくる。その刺激は憧れの美女からじらされるように唇に触れる。いや、今や彼女はその憧れの女性そのものであった。それは僕が常日頃焦がれたエロスへの憧憬そのものであった。

 そうして彼女の指が唇を通り過ぎる。それに名残惜しさを感じつつも、その指はさらに奥へと進み、私の咥内へと入り込む。束の間の名残惜しさをそのままに口の中に入った指は僕の歯の表面を撫でて、さらに深く唇と歯茎の間へと入り込んだ。歯を通して聞こえてくる振動が彼女の指先の優しさを私へ伝えてくる。

 そっと触れた指先は痛みを感じるほど強くはなく、それでも僕の歯茎へとぐっと入り込み、そこに少しの空間を作った。その僅かな隙間に空気が入り込むと、歯茎にひんやりとした感覚が伝わり、それと同時に彼女の指先の温度が鮮明になった。薄い医療用の手袋越しにでもその温度は確かだ。

 歯茎に触れたときの感触も得がたいものだった。唇に触れたときから続くそれはやはりじらされるようだった。ゆっくりと移動していく彼女の指先が、ねっとりとした僕の口の粘膜に絡みつき、そのエロスは増した。

 頭の上からは彼女の羽織っているカーディガンの衣擦れの音がざわりざわりと聞こえてくる。その音にふと先ほど見た彼女の胸の隆起が頭をよぎった。

 時に彼女の吐息の混じる空気の振動は私の感覚を鋭くさせて、より彼女の存在を感じようとして僕の神経はその頭の上に集った。さわりさわりと衣擦れの音が響くたび、僕の頭はかつてないほどに触覚を鋭くさせて、彼女の体を感じようといつのまにか必死になっていた。時に彼女が胸が明確に僕に触れたとすら思ったが、しかしそれが本当に触れたのかどうか確信はなかった。そして、その触覚が明確になることもないままだったが、それでもそこに彼女が存在している実感は明かであった。

 ぼんやりとした意識の中で、口の中に感じる刺激と頭の上から感じる刺激が相互作用して、だんだんと僕の体が熱くなる。

 その熱に身を委ねてみると、頭が、いや、体全体がさらにぼんやりとしていく。だんだんと僕の体が熱を増すたびに、体の輪郭がおぼろげになって、そのまどろみがさらに心地よさを僕に与えた。

 エクスタシィを感じるようなはっきりとした刺激とはまた違う、じわりじわりと熱くなる快感が確かにあった。

 気が付くとあっというまに治療は終わっていた。

 歯石の除去が終わると、いつのまにか現れた歯科医の男が無粋にもぬっと現れて、ずけずけと僕の口に手を突っ込んだ。

 さっきまで僕の咥内にあった彼女の指とは全く違う。ごつごつとして情緒のかけらもないものだった。しかし、その間にもかすかに口に残る彼女の指先を思い出しているうち、すぐに治療は終わったようだった。

 診察台から体を起こして、小脇にある小さな洗面台で口をゆすぐと、彼女の指先がより遠くに行った気がした。




 治療を終えて待合室に戻っても僕はぼうっとしたままだった。僕が得た熱は行き場もなく体を巡り、未だ僕の体をぼんやりと焦がしていた。

 また名前が呼ばれた。

 呼んだのはやはり彼女だった。少し気恥ずかしく、顔を赤くしたまま受付カウンターへと向かうと、相変わらずにこにこと笑顔を浮かべる彼女の顔があった。その顔を見ると僕はなんだか嬉しくなってしまうようになっていた。

 どうやら会計のために呼ばれたようだった。

 僕は待合室で待っている間、ずっと考えていた。どうしたら彼女に近づけるだろうか。ここで電話番号を聞いてもいいだろうか。いや、それは軽い男だと思われないだろうか。

 そうした考えが頭をよぎっては繰り返される。少なくとも彼女との関係がこれきりだなんて僕には考えられなかった。

 そうだ、今ここで電話番号を聞こう。そうしてご飯にでも誘おうじゃないか。僕がその決断をしたのはおつりを渡されて、会計が終わろうとするその瞬間だった。

 そんな余計なことを考えていたためか、領収書を手渡してきた彼女の手が僕の手に触れた。そのふれあいに嬉しさを覚えて、そのか細い手に目を向けるとそこに一つの輝きがあった。

 彼女の左手には薬指に光るものがあった。

「ありがとうございました。おだいじに」

 その言葉に僕はただ漫然と「どうも」としか返すことが出来ずに、さっきまでの浮ついた思考はおりのように沈殿していった。体の熱はすでにどこかへと消え去って、すっと普段の体温が戻った。もう一度彼女の顔を見返すとやはり笑顔を浮かべていた。そこにいたのは飛び抜けて美人ではないが、取り立てて不細工でもない若い女性だった。

 そのまま踵を返して歯科医院を出るとあたりはすっかりと暗くなり、未だ足早な春の夕方が消えて夜へと姿を変えていた。

 強く吹く春風に僕は顔をしかめながらに家路についた。

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