第46話藪の中にて

 心のケアで世話になっている、心療内科の女性担当医の話を拝借する。

 今昔物語の巻二十九第二十三話に「妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること」の説話があります。

 作家の芥川はそれを基に「藪の中」と言う短編を書きましたが、小説であり、虚構にすぎまへん。

 彼の小説は若い男に騙され弓矢を奪われ、木に縛られ目の前で妻を手籠めにされた夫が殺されて死体で発見されたところから始まります。第一発見者や途中で出会った旅法師、妻を犯した若い男、清水寺の巫女の口を借りて行方不明になった妻や死霊の証言で構成されいます。

 しかし、元の今昔物語では男は殺されておりません。

 妻を馬の背に乗せて鬼が住むという山深い大江山を越え、丹波の国に向かう妻をつれた男が途中で若い男に出会ったところが物語は始まります。

 夫は若い男に心を許し弓矢を与えた。

 若い男は夫婦を街道から外れた藪の中に誘い込み、夫を木に縛り付けたあげくに、夫の目の前で妻を犯した。

 犯された妻は山中で若い男に弓矢を預けた夫の不用心さを情けないと嘆き、そなたは一生、よい思いをするまいと夫をけなした。

 妻を犯した若い男は女に連れては行けぬ。夫の命はそなたに免じて奪わぬと言い残して、馬を盗み去ったと言う話どす。

 作者は妻の気丈夫さと、夫を生かした若い男の男気を褒めています。

 この物語は実話だと考えてもええでしょう。

 今日の話は、誰が目撃者のいない藪の中での話を世間に広めたかどす。

 おかげで、この話は千年を経た今でも、多くの人々の知ることになったのどす。

 若い男に妻を犯された夫が世間に漏らしたとは思えまへん。

 夫の目の前で若い男に犯された妻が世間に漏らしたとも思えはまへん。

 この物語を広げたのは妻を夫の前で犯した若い男の他にいないと思います。

 不届きな行為ですが、自分は強い、悪事もためらわない、悪事を働いても捕まらないと仲間に自慢したのどす。

 正常な人間や、権威を冒涜することで自己の地位を高めることが出来る世界で生きていたのどす。

 話が世間を騒がしても被害者は現れない。被害者が現れない以上、悪行を取り締まる検非違使も自分を責めることはできない。

 彼は恐れるものは何もなかったのどす。

 恐れるのは気の小さな善人だけどす。

 それを知った上で、若い男は世間に自慢したのどす。

 でも妻を犯した若い男を悪人と断罪することは誰も出来ないはずどす。皆さんが、もし若い頃に山中で魅力的な若い妻を連れた男に出会っていたら、この物語の男と同じ欲望を抱いたはずどす。

 この物語の若い男と同じような夫を騙し、木に縛り付け、妻を犯すことができたかどうか疑問どす。

 その点、この物語の若い男は冷静で知恵も働きます。

 とにかく人間の浅ましい本性は今も昔と変わりません。

 恐ろしい悪魔も妖怪も、人の心の中に住んでいるのどす。

 そのような恐ろしい人がいる厳しい現実社会の中で、皆さんは昔に比べ格段に長い間を生き続けなければならないのどす。

 精神に何の病も得ず生き続ける者より、この病院で治療を受けられる皆様の方が正常で善良な人間なのどす。

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