第31話天安門広場にて

 すでに暗闇である。

 べきらの壁をたどり、逃げた。

 悲鳴を上げていた。

 紫禁城の路地は所々、狭い。

 壁に手を突き路地の段差につまづきながらの逃避行であった。自分が逃げている方向も不明であった。

 数十分は走ったろう。

 何しろ珍妃の井戸は紫禁城の北の方にあり、天安門は城の南に位置する。距離にして一.五キロメートルはあるはずである。.

 突然、目の前の視界が広がった。

 天安門広場に出たのである。

 実は紫禁城から天安門広場までは相当な距離がある。しかも途中には中国で道幅が一番広いと思われる道路もある。その広い車道をも、どのように走り抜けたのか記憶がない。 背後から、あの井戸端で見かけたあの恐ろしい珍妃の亡霊が追いかけてくる気配に恐怖し、必死に駆けたのである。

 しかし、すぐに直後に目の前に広がる天安門広場の世界が現在のものではないことにも気付いた。

 広場の要所に立つ灯篭は古いものであり、暗かった。

 露営のかがり火が周囲を照らしていた。

 群集は灰色の薄汚れた服をまとっている。

 棍棒や槍、刀を持ち、頭上で振り回しているが、コピーされた人間のように顔はみんな一緒であった。しかも土人形のようにな色で、表情は動かない。

 まるで生きながらにして命を吸い取られた亡者のように見えた。

 我々は、孫悟空の生まれ代わりなり、切られても死なず、銃に撃たれても死せず、再生を繰り返すと叫んでいる。

 この言葉が彼らが一九〇〇年の義和団事件の暴徒であることに気付かざるえない。

 突然、一斉に彼らが広場から姿を消した。

 そして次に広場に姿を現したのは、列強の軍隊である。日本の軍人もいる。

 すべて銃で武装している。

 義和団を鎮圧するために派遣された西欧列国の軍隊である。

 西太后一味を紫禁城から追い出し、珍妃を悲劇の淵に追い落す原因となった軍隊である。

 すぐに彼らも広場から姿を消した。

 次から次に違う群集や、軍人が現れた。

 袁世凱が率いる軍隊も広場に姿を現した。

 名も知らぬ将軍が率いる軍隊が広場を占領した。

 張作霖、蒋介石が率いる軍隊、そして日本軍の軍靴、毛沢東が率いる軍隊も姿を現した。

 毛沢東が中華民国成立を宣誓し、紅衛軍が広場を占領し、やがて名もない群集が集まった。天安門事件である

 広場の群衆の顔は時代を超えてコピーされた人間のようで表情は動かない。

 スライドショーを見ているようである。

 

 突然、背中で大きな声がした。

「私の顔を見て逃げ出して、一体、どうしたのですか」と声の主は叫んだ。

 僕は正気に戻った。

 目の前には明るい照明に映える天安門の広場が広がっていた。

 遠くには高層ビルの光も見える。

 背後に僕のわがままを許してくれた女性のガイドが腕を腰に当て両股を開き、大の字姿で立っていた。

 彼女は激怒していることは断るまでもない。


 散歩を楽しむ市民の姿もまばらで、広場を歩く衛兵の姿が目立った。ガイドは官警の目を恐れ慌てた。

 背中を押し、急いでホテルに帰ろうと促した。

 背中を押す手は庶民の時間は終わり、これからは権力者と亡者の時間だと言っているようだった。

 民衆の不幸はすべて北京の都を支配する地縛霊のせいだと心の中で叫んでいた。

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