第4話小石
ミスを犯してはいけない。
それだけではない。上司、同僚、患者から好かれねばならない。
何しろ小さなミスやトラブルが命取りになって介護センターを止めさせることにならないとも限らない。やっとありついた仕事である。この時代、六十六才と言う年齢を考えると、再び仕事にはありつけるとは限らない。懐具合は寂しく仕事を失えば、すぐに生活に困ることになる。
こんな緊迫した状況で気になる患者がいた。
八十才を越していた。最近は寝ていることが多いが、それまでは病院でシーツ交換や患者の世話をし、半生を病院で過ごしたと言うのである。家族も彼の退院を許さなかった。退院をしても病院暮らしが長かった彼には受け入れる会社もない。家族が世話をする余裕もない。しかし介護という制度が未整備だった頃には病院にとって都合の良い存在だったのであろう。
この話を一言、聞いただけで私は病院や家族、そして彼の立場をすぐに理解した。
そしてひどく苛立った。
知られたくない身内の話を第三者から聞かされたように感じ恥じた。それ以来、彼の姿を見ると癪に障るのである。
自分にとって彼と同じ生き方をしたであろう父の存在は他人には知られたくない屈辱的な秘密であった。
ところが彼の入院したての頃の夢が田舎に帰り、自らの畑を耕すことであったことを知った時、不思議にも憐みを感じた。自分の父は田舎に帰り、ふたたび漁に出ることだったのである。
父と同じ人生である。
彼と接触する時に動揺を気付いている者は周囲にはいなかった。
彼は衰弱する一方であった。寿命が尽きようとするのが素人目にも分かった。
いつものように上半身を抱き起こし、開け放たれた窓の外を眺めさせた。
残暑の厳しい秋口であったが、夕暮れで庭の木々は夕日に赤く染まっていた。
穏やかで静かに表情で夕映えに生える松やまだ青いモミジなど山水の庭園を眺めていた。
私は彼が呟く、「すばらしい」と言う言葉をはっきり耳にした。
死期の迫った者は絶望のあまり、何も良いことなどなかったと呪い息を引き取るのが普通である。
それから一週間後に彼は息を引き取った。
遺体は病院から直接、火葬場に送られた。
彼の死後異変が何も起きる様子はなかった。この世に怨みを思い残すことなく旅立ったと安堵した。そして自分の父も彼と同じで怨みを残さず逝ったと思おうとした。私は父を許そうとした。
そのように思い始めて数日が経過した。
月明かりも星明かりもなく漆喰の暗闇であった。ただ外灯の灯りには細かい雨粒が羽虫のように舞っていた。彼が一望し、素晴らしいと呟いた幸せホームの庭に来た時である。外灯の下に男が立っていた。
あの死んだ老人ではない。
紛れもない。
自分の父であった。
そんなはずはない。父は死んだ筈だと言い聞かせたが、実態を確かめようと足元の小石を拾って投げた。
恐怖と憎しみで思わず力がこもった。小石は男の身体を通り抜け、けたたましい音を立て建物の窓ガラスを砕いた。
音とともに目の前の人の像も砕け散った。
そして幸せホームの消灯後の静寂も一瞬にして破られた。
人影は消えた。窓に映る自分の姿に小石を投げたようであった。
部屋の電灯が点灯した。
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