消えるまで

麦野陽

第1話

 記憶は、いったいいつまで残るのでしょうか。どうか最期まで。願わずにはいられません。いま、わたしをあたたかくさせるものは『記憶』しかないのです。


 はじまりは一学期の終業式が終わった教室でした。教室は、待ちに待った夏休みが始まる喜びと、すこしの気怠さで満ち溢れていました。天気は快晴で、夏の日差しがグラウンドを熱く焦がしています。今日も暑そう。母と食事に行く約束をしていたわたしは、ナイフとフォークの音を想像しただけで、ここから一歩も動きたくない。そんな気持ちになっていました。母は、時間に厳しい人だったので、遅刻は厳禁です。わたしは、夏休みの宿題ですっかり重たくなった通学カバンを肩にかけ、教室のドアを開けました。


「わっ」


 知らない女の子が立っていました。もうすこしでぶつかるところだったのに、彼女はそんなことは気にならない目でこちらを見ています。見ると、セーラーの襟に『二B』と印刷されたオレンジの布がついていました。知らないはずだわ。わたしは、ひとり納得していました。進学科のAクラスと普通科のBクラスは建物が違うのです。しかも、離れて建っているので、行事以外でなかなか顔を合わす機会はありませんでした。


「ねえ、カズコいる?」


 最初は、他の人に声をかけたのだと思いました。けれども、彼女の大きな目はしっかりとわたしの意識をとらえて離しません。カズコ、なんて子いたかしら。


「あれ、サナエどうしたの」

「よう」


 戸惑っていると背後から大きな声がしました。そうか、ヤマサキさんの下の名前、カズコなのね。わたしはクラスメイトたちが彼女のことを「カーコちゃん」と呼んでいたことを思い出していました。そうだ、早く帰らないと。わたしは、ハッとして大きな目の彼女の横を通り抜けました。


 窓ガラスが震えるような笑い声に振り向くと、クラスメイトの「タテシナさんたら」とほころぶ声が聞こえました。図らずも、わたしは彼女のフルネームを知ることができたのです。これが、わたしとタテシナサナエさんの最初の出会いでした。


 再会は、海開きから幾日か経ったある日のことでした。その日、わたしは宿題の読書感想文を書くために、大型書店に本を買いに行ったのです。打ち水もすぐに乾いてしまう、大変暑い日でした。母は、教育にお金を惜しまない方だったので、この日も出かける際に三千円、わたしの手に握らせました。


「文庫本を一冊買うだけだから、こんなにいらない」


 わたしが断っても母は決して首を縦に振りません。さらに強く、わたしの手を自分の手で包み込んで、優しく言うのです。


「参考書、いいものがあったら買ってきなさい」


 それが母の口癖でした。「参考書なんて」とは口が裂けても言えず、いつもわたしは曖昧に頷くことしかできませんでした。


 書店に着くと、わたしは涼しさに思わず目を細めました。母が好みそうな本を一冊手に取り、わたしは通路を突き当たりまで進みます。参考書の棚を横目に見て右に曲がると、そこに見覚えのある姿がありました。ブルーのショートパンツから健康的な足がすらりと伸びています。タテシナさんでした。彼女は、雑誌のページを食い入るように見つめていました。


「あ」


 その横顔があまりにも綺麗で、わたしは思わず声を漏らしてしまいました。静かな店内です。小さな声でもよく聞こえます。タテシナさんは、わたしの顔を見て雑誌を閉じました。


「こ、こんにちは」


 なにも話さないのも不自然だと思い、わたしは思い切って会釈をしました。けれども、彼女は一度話しただけのわたしのことなど、全く覚えていなかったのです。


「あんた誰」


 眉根を寄せてタテシナさんは言いました。すこし怯んだわたしは、やはり声をかけなければよかったと後悔していました。ありがとうございました。店員の大きな声が聞こえてきます。


「しゅ、終業式の」


 やっとの思いで言葉を絞りだすと、タテシナさんは腰に右手をあてて言いました。ぶかぶかのTシャツに隠れた美しいくびれがよくわかります。


「なに? はっきり言ってくれないとわからないんだけど」


怖い。わたしがまた黙るとタテシナさんは、雑誌を適当に放り投げました。


「あー、思い出したその困った顔。はいはい、終業式のね」


 束ねた黒髪の毛先を指で巻取りながら、タテシナさんは快活に言いました。その声はよく店内に響きます。わたしは、店員の目線から逃れるように声を落として訊きました。


「か、買わないの。それ」


 雑誌の表紙の女の子の笑顔が眩しく光っています。タテシナさんは首をすくめて笑いました。


「まさか」


 タテシナさんは跳ねるように通路を歩いていきます。わたしは、彼女が放った雑誌を元の場所に戻すと、小走りでレジに向かいました。冷房が効いた書店から出ると、一気に夏が体にまとわりついて、わたしはすぐに書店に戻りたくなりました。


「もう用事ないの」


 タテシナさんは赤い自転車にまたがって、わたしを上から下まで舐めるように見て言いました。


「う、うん」


 なぜだかどきどきして、わたしは本の入った袋を握りしめました。


 この日は、早く家に帰るつもりだったのです。母は、寄り道を許さない人でした。どこかに行くときは必ず詳細に語らなければなりません。予定外のことは、母にとって最もストレスのかかることでした。


「さ、さよなら」

「待ちなよ」


 わたしが一歩踏み出すとタテシナさんは言いました。


「な、なんですか」


 近づいてきたタテシナさんはにやりと笑いました。


「あたし、今日暇だから一緒に帰ってあげる」

「えっ」

「あんたどこ住み」

「ひ、東町三丁目です」

「けっこう遠いね。歩いてきたの」

「い、いえ、バスで」

「ふうん。そしたらバス停まで送ってあげるよ」


 まさかの提案でした。送ってくれなくても結構です。心の中では言えるのに、実際に言おうとすると、わたしの口は固く閉じてしまうのでした。


 しばらく、お互い無言で進みました。蝉の鳴き声がやたら大きく聞こえます。


「あ」


 突然、タテシナさんが大きな声を出して、わたしはすこし宙に浮きました。ひっく。驚くとしゃっくりが出るわたしは、それを落ち着かせようと息を止めました。そうして、空気を飲み込むと不思議としゃっくりが止まるのです。しかし、この時はなかなか止まらず、「ひっく」としゃっくりをこぼしてしまいました。


「あはは、しゃっくり」


 タテシナさんはけらけらと笑いました。わたしは、すこしムッとしてまた息を止めるとタテシナさんは言いました。


「あたし、沈黙って嫌い。ね、なにか話してよ」


 なにかと言われても、すぐには思いつきません。わたしは、タテシナさんのことをなにも知りませんでした。例えば、どこに住んでいて、食べ物はなにが嫌いなのか。なにも知らないということは、なにも話すべきことがないことと同じだと、わたしは思っていたのです。


「えっと」


 いつの間にか止まったしゃっくりのことなど忘れて、わたしは話題を探しました。なにか話さなくてはいけないという、強迫観念めいたものがわたしを突き動かしていました。そういえば、喉が渇いている。じわりと滲む汗をハンカチで拭いて、わたしはひとつの提案をしました。


「アイス、食べませんか」


 近くに小さな商店があったことを思い出したのです。


「んー。あたし、きょうお金持ってきてないの」


 買うものがないのにどうして本屋にいたのか。一瞬、疑問に思いましたが、わたしはすぐに首を振りました。


「わたし、おごります」


 財布の中身を頭に並べると、母の顔も一緒に並びました。「参考書」いまにも喋り出しそうです。わたしは、浮かんだ母の顔を人差し指で弾いて、脳内の財布の蓋を閉じました。


「ラッキー」


 タテシナさんは、力強くペダルを踏んでぐるぐるとわたしのまわりをまわりました。それは、蝉の声と相まっていっそうわたしの体を熱くさせるようでした。


「ミチナガスズコっていうのね」


 改めて自己紹介すると、タテシナさんはアイスの棒を道端に放り投げました。傍にゴミ箱があるのに、彼女はその存在を景色から抹消しているようです。今更ながら、お金を余分に使ったことや寄り道をしたことに、わたしはすこしの苦しさを感じていました。そんなわたしの気も知らずに、タテシナさんは満足そうにベンチの下で足を揺らして言いました。「アイス、ありがとう」


「あら、参考書は買わなかったのね」


 家に帰ると、母はわたしが買ってきた品物を確かめて言いました。わたしの生活は母の監視下に常におかれていました。


「いいものがなくて」

「そう。でも、本はいいものがあったのね」


 曖昧に頷くと、母は顔をほころばせました。数学の宿題をすると言うと、母は笑いました。「今日の晩ごはんはカレーライスよ」


 自室のエアコンのスイッチをいれると、わたしはベッドに倒れこんで目を閉じました。エアコンの稼働音が静かに部屋に満ちていきます。バス停で別れたタテシナさんの伸びやかな声が、眠るまで耳から離れませんでした。


 タテシナさんの家があまり裕福ではないと知ったのは、二学期のことでした。噂は怖いものです。「扇風機もないんだよ」クラスメイトが言っているのを聞いて、ようやくわたしは合点がいきました。あの日、タテシナさんが本屋にいたのも、暑さを凌ぐためだったのだと。タテシナさんの家はあの本屋の近くなのだそうです。


 夏のことがあってから、タテシナさんはわたしをよく訪ねてくるようになりました。


「ミチナガさん、サナエが呼んでる」


 橋渡しをしてくれるのは決まってヤマサキさんでした。ヤマサキさんは、タテシナさんと小学校の時からの知り合いなのだと、あとからタテシナさんが教えてくれました。


 わたしが小さく手を振ると、タテシナさんは豪快に手を振り返して「おい、昨日のテレビ見たか」と近づいてくるのです。その瞬間が、学校生活の中で一番胸が苦しくなる時でした。決して、わたしは、タテシナさんが嫌いだったわけではありません。なのに、この苦しさはいったいなぜなのだろう。もしかして、どこか体が悪いのかしら。そう、思い悩んでいたのです。


 この頃からタテシナさんは、わたしのことを『スズコ』と呼ぶようになりました。


「タテシナさんなんて呼び方はやめてさ、スズコもあたしのこと名前で呼んでよ」


 何度もタテシナさんはわたしに言いました。けれども、いざ「サナエ」と呼ぼうとすると、どうしても胸が苦しくなってしまうのです。どうしてだろう。ヤマサキさんを「カズコちゃん」と呼ぶことはできるのに。わたしは不思議でなりませんでした。


 わたしたちは、放課後、図書室で集まるようになりました。校内なら、いくら遅くなってもせいぜい六時です。母も怒りませんでした。なぜなら、宿題をすると言ってあったからです。


「わからない問題があるなら、先生にしっかり教えてもらうのよ」


 母の頭の中は、いつでも娘の学業のことでいっぱいのようでした。わたしは、そんな母の顔を見ていると、時々、どうしようもなく泣きたくなることがありました。母はわたしを『立派』に育てようと必死だったのです。けれども、その必死さが、わたしには重たかった。それを軽くしてくれるのが、彼女たちの存在でした。


 なにも、図書室で宿題だけをしていたわけではありません。宿題はそこそこに、わたしたちは小声でクラスメイトの噂話をしたり、筆談で嫌いな先生の悪口を書いたりして大半の時間を過ごしていました。けれども、ときどき、やたら大きな声でカズコちゃんが笑う時があったのです。最初はなんとも思っていませんでした。しかし、その大きな声には意味があるとわかってきたのです。


 カズコちゃんが大声で笑うのは決まって木曜でした。その日は三年生の男子が当番の日で、カズコちゃんはその男子に恋をしていたのです。彼の気をひこうと、カズコちゃんは必死でした。彼女が大きく笑うたび、図書当番の男子は、カウンターから顔をあげて、ずれた眼鏡を人差し指で元の位置に戻さなければなりませんでした。


「ねえ、眼鏡くんがいまこっちを見たわ」


 すると、さっきまでの笑い声とは対象的に、うんと声を潜めてカズコちゃんはこう言うのです。その変わりようがわたしには面白く、そのたびに笑いがこぼれてしまうのでした。きっと、彼は大きな声に反応しただけ。カズコちゃん本人を見ていたわけではないのだ。そう、わたしは思っていたのです。


 しばらくして、驚きの報告が舞い込んできました。あの図書当番の眼鏡くんとカズコちゃんがつき合い始めたのです。


「へえ、おめでとう」


 タテシナさんは、カズコちゃんを祝福しました。遅れてわたしも賛辞を贈ると、カズコちゃんは嬉しそうに顔をほころばせました。


 それからカズコちゃんは、わたしたちから離れて眼鏡くんと過ごすようになりました。本来なら図書当番は木曜だけの眼鏡くんも毎日図書室にやってくるようになり、わたしとタテシナさんは、必然的に二人で数式を解くことが増えていきました。『くそくらえ』タテシナさんがわたしのノートに書いたことをよく覚えています。学生時代、カズコちゃんは何人もの男性とおつき合いをしました。わたしが知っている限り、五、六人はいたでしょうか。すごい。わたしは感心していました。彼女の恋は超特急で始まりから終わりまで駆け抜けます。恋をしている期間よりも、恋を妄想している時のほうが、よほど生き生きして見えました。


 カズコちゃんが恋をしている時、わたしたちが過ごす場所は決まっていました。屋上に続く階段です。人気がなく、わたしとタテシナさんにとって最高の隠れ家でした。高校の購買には自販機が二台置いてあります。八十円で紙パックのジュースが飲めるので、わたしたちはよくその自販機を利用していました。タテシナさんが飲むのはコーヒー牛乳と決まっていました。


「眠くならないからいいの」

「そうなんだ」


 わたしは、りんごジュースをストローで吸い上げながら頷きました。一度タテシナさんのマネをしてコーヒー牛乳を家で飲んだことがあります。同じものを飲んでみたくなったのです。けれども、あまり美味しくなくて、すぐにわたしは吐き出してしまいました。


「あっ、やばい」


 五時のチャイムが流れると、タテシナさんは慌てて立ち上がりました。校則を大きく反した短いスカートが、夕日をたっぷりと含んでいます。この頃、タテシナさんはとなり町の居酒屋の厨房でアルバイトをしていました。だから、毎日タテシナさんはジュースを買うことができたのです。しかし、わたしたちが通っていた学校はアルバイトが禁止されていました。


「また明日」


 そう言ってタテシナさんは階段を軽快に降りて行きました。残されたコーヒー牛乳のパックを持つと、わたしはゆっくり立ち上がりました。赤と青が混じった空がきれいです。タテシナさんはストローを噛む癖がありました。わたしは、そのストローを大事に抜き取ると、プラスチック専用のゴミ箱に落としました。


 タテシナさんが謹慎処分を受けたのは、それから数ヶ月後のことです。学年がひとつ上がり、襟の布の色もオレンジから青に変わって、受験に気を引き締めていた矢先のことでした。


「よう」


 カズコちゃんと二人で訪ねると、タテシナさんはジャージ姿で出迎えてくれました。もっと古い家を想像していたわたしは、すこし拍子抜けしてしまいました。タテシナさんは玄関を閉めると、ズボンのポケットからタバコを取り出しました。じっ。手慣れた手つきで火をつけると、タテシナさんの形のいい唇から白い煙があがりました。


「これ、B組の子から預かったプリント」


 淡々と要件を言ってカズコちゃんは、プリントをタテシナさんに渡しました。


「どうも」


 タテシナさんは渡されたプリントを筒状に丸めてポケットに詰め込みました。わたしが昨日焼いたクッキーを渡すとタテシナさんは、嬉しそうに受け取りました。その差がわたしには違和感として残ったのです。カズコちゃんどうしたんだろう。わたしはカズコちゃんの横顔を見ました。口がキツく結ばれています。タテシナさんは、ふう、と白い煙を吐きました。


 タテシナさんと別れたあと、わたしとカズコちゃんはしばらく無言でした。この沈黙は、あの夏の沈黙とは、まったく別のものだとわたしは思いました。肌が、痛いのです。わたしとカズコちゃんが二人きりで帰ることはこの日が最初で最後でした。


「ミチナガちゃん」


 三叉路で立ち止まると、カズコちゃんは言いました。


「ぜったい、秘密にできる?」

「え」


 秘密。わたしは、カズコちゃんの顔を見ました。その時のカズコちゃんの顔ときたら、まるで意地の悪い老婆のようで、わたしは何度も目をこすりました。いったいなんの話なのか、わたしにはわかりませんでした。けれども、秘密を強要しておいて、内容を先に言わないのは、なんだかずるい気がしました。わたしが黙っていると、それを了承ととらえたのか、カズコちゃんはぐううっとわたしに近づいて唇を尖らせました。


「あのね。サナエが謹慎になったのって、わたしが先生に言ったからなんだよ」


 わたしは、まじまじとカズコちゃんの顔を見ました。やはり、彼女は老婆でした。この告白に、どう反応するのが正解なのかわたしは困って、「へえ」と間抜けな返事をしてしまいました。


「それだけ?」


 カズコちゃんは怒っているようでした。どうして。わたしは、カズコちゃんの真意がわからず、余計に無口になってしまいました。そんなわたしを見て、カズコちゃんは、優しく言いました。


「あのね。よく考えたんだけど、わたしたち、あまりサナエに関わらないほうがいいと思うの。だって、もうすぐ受験でしょう? サナエと一緒にいると、わたしたちまで同類だと思われちゃう。ほら、さっき見たでしょ、タバコ。ああいうルールを破るのって、わたし、許せなくって」


 この頃、カズコちゃんは生徒会長とつき合っていました。恋人に影響されやすいのは、彼女のかわいいところでしたが、わたしは、この瞬間、彼女のことを軽蔑しました。


「所詮、サナエはB組じゃない? ほら、進学クラスのわたしたちとはさ、やっぱり違うと思うの。ね、わたし、ミチナガちゃんが心配なの」


 カズコちゃんの顔がどんどん、どんどん、近づいてきて、「ああ」とわたしは思わず冷たい息を吐きました。ふいに、昨日焼いたクッキーの甘い匂いが鼻をかすめて、胸がいっぱいになりました。


「わたしは、大丈夫」


 答えてから、ハッとしました。カズコちゃんがひどく悲しい顔をしていたからです。


「残念」


 それから、カズコちゃんはわたしたちから離れていきました。同じクラスだったわたしは、文庫本を読んだり、他のクラスメイトと日々の行事をこなしていきました。タテシナさんは、カズコちゃんに関してなにも言いませんでした。もしかしたら、知っていたのかもしれません。


 高校を卒業したわたしは、母の母校である女子大学へ進みました。母は、泣いて喜び、いっそう娘の学業に口をだすようになりました。わたしの合格によって、「今までの教育方針は間違っていなかった」という自信をつけてしまったのです。


 タテシナさんは、地元の工場に就職しました。まだ高校生だったとき、試験を受けて帰ってきたタテシナさんに、いったいなにをつくる会社なのかとわたしは訊きました。


「ビニール」


 すぐに、タテシナさんは答えてくれました。書類を机の上に出すと、タテシナさんはペンを握り書類に目を落としました。彼女の長いまつげが、頬に影を落とします。


「そうなんだ」


 わたしが呟くと、タテシナさんはペンで勢いよく『出席』に丸をつけました。


 卒業からひと月ふた月と過ぎるにつれ、わたしとタテシナさんはすこしずつ連絡をとらなくなりました。あんなに高校時代、一緒に階段に座っていたのが嘘だったようです。このまま会わずに過ごしていくのだろうか。講義を受けていた冬の暮れのことでした。A組B組合同の同窓会の知らせが届いたのです。確か、わたしは二十一歳の誕生日を迎えたばかりでした。


 指定された居酒屋の暖簾をくぐると、懐かしい顔がすでに赤くなって並んでいます。真っ先にわたしはタテシナさんを探しました。けれども、タテシナさんの姿はどこにもありません。もしかしたら来ないのかもしれない。わたしは、ぐずぐずとみんなの靴が散乱した玄関に立っていました。


「あっ、久しぶりミチナガちゃん」


 懐かしい声です。振り向くと、それは、カズコちゃんでした。彼女は、「タテシナさんと仲良くするのはよそうよ」とわたしに言ったことなど、まったく記憶にない声をしていました。薬指にかわいいリングが光っています。


「それ……」


 わたしが指差すと、カズコちゃんはにっこりと笑いました。


「見て」


 カズコちゃんは、携帯を取り出すと一枚の写真を見せてくれました。カズコちゃんによく似た女の子が笑顔で写っています。


「もうすぐ二歳になるの」


 訊けば、大学は一年もたたないうちにやめてしまったそうです。カズコちゃんらしいといえば、らしい気もしました。旦那さんは八つ上で、大手企業の営業マンだとカズコちゃんは教えてくれました。


「あー! カズコじゃん!」

「やだー、久しぶりー!」


 綺麗な女の子です。恐らく、クラスメイトだと思うのですが、あまり記憶にありません。思えば、わたしの高校時代の記憶は、大半タテシナさんで埋まっているのです。カズコちゃんは、綺麗な女の子に連れられてどんどん騒ぎの中心に巻き込まれていきました。わたしは、ブーツを脱ぐと、宴会の隅に座ってぐいとお酒を飲みました。わたしは、お酒に強いのです。いくら飲んでもわたしの顔色が変わらないことが面白かったのか、ひとりの男の子が声をかけてきましたが、わたしは知らん顔をしてビールを飲み続けました。そうしている間にも、カズコちゃんの大きな笑い声が聞こえてきて、離れているのに、まるで近くにいるような錯覚に陥りました。グラスをあけてもあけても酔いはまわらず、わたしは大きくため息をつきました。


 すこし、夜風に当たろう。外に出ると、冷気がするりと頬を撫でました。空を見上げると、まんまるのお月さまが揺れているように感じます。さすがにすこし飲み過ぎたかもしれない。わたしは、座る場所を求めて車道を渡りました。信号は赤を暗闇に映しています。吐く息が白い。こんなに心地がいいのに、いまは冬なのだと揺れる頭でぼんやりと考えていました。宴会の騒ぎ声がここまで聞こえてきます。近所迷惑ではないかしら。わたしは、小さくあくびをしました。


 あっという間の出来事でした。わたしの体は、鋭く宙に浮き、痛いと涙を流す間もなく地面に転がりました。一台のバイクがごうごうとわたしに突進してきたのです。運転手は、わたしよりも若い少年でした。音に驚いたクラスメイトたちが出てきて、救急車を呼んでくれました。けれども、その時すでにわたしは自分の体から抜け出て、このようになっていましたので、あまり意味はありませんでした。自分の体を真上から見ることなど、機械でも使わない限りそうある体験でもないので、わたしは存分に眺めました。けれども、それもすぐに飽きて、救急車に運ばれていく『わたし』のあとをみんなと一緒についていくことにしたのです。


「どうしてえ、どうしてええ」


 むせび泣く母親と大勢のクラスメイトたちの顔を順番に見てまわりながら、わたしは、不思議な気持ちでいました。死んだのは、自分ではなく、みんなのような気がしたのです。だって、わたしはこんなに“生きている”。


 クラスメイトたちは、ひとり、またひとりと去っていきました。その中にはカズコちゃんの姿もありました。綺麗な化粧が台無しです。遅れてやってきた父に連れられ母もいなくなると、いよいよ静かになりました。わたしは宙に浮く練習をしながら、これからのことを考えていました。噂では、だれかが迎えにきてくれたり、体が透明になったりするというのに、ちっともその気配がないのです。死んで時間がそんなに経っていないからでしょうか。そういえば、時間のことは誰も言っていなかった。


 ガラララッ。勢いよくドアが開いて、わたしはびくりと体を震わせました。


「よう」


 タテシナさんでした。彼女は金色の長い髪をばさばさと揺らして、丸椅子に座りました。その座る動作があまりにも懐かしくて、わたしは思わずタテシナさんに抱きつきたくなりました。タテシナさんは、しばらく白い布がかぶせてあるわたしの顔を見ていました。いったいどんな顔をしているのだろう。ひょっとしたら、タテシナさんも泣いているかもしれない。彼女の涙を見たことがなかったわたしは、好奇心に負けて彼女と同じ高さに降りました。


「あっ」


 わたしは思わず息を飲みました。タテシナさんはあの夏と同じ顔をしていたのです。


「スズコ、なにか話してよ」


 静かに、静かにタテシナさんは言いました。わたしは、たまらない気持ちになって色のない唇を強く噛みました。死んでから、わかっても仕方がない気持ちに、わたしは気づいてしまったのです。


「タテシナさあん」


 繰り返し、繰り返し呟くタテシナさんにわたしは接吻をしました。タテシナさんの誘いはしばらく続きました。

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