第11話 親友の趣味

 日曜日の午前十時ちょうど、駅前は休日のために賑わっていた。この街の駅前での待ち合わせ場所といえば、俺の背後にある巨大なオブジェ付近である。星のようでもあり、太陽のようでもあり、月のようでもあり、もしくはまったく別の図形なのかもしれない。本体そのものに色はなく、ガラス細工を彷彿とさせ、太陽の光を浴び、様々な色を灯らせていた。やや眩し過ぎるくらいだ。


 しかし、そんな眩しさもどうでもよくなるほどの事態が俺の眼前で起きていた。一瞬の思考停止。現実と夢の確認。ようやく頭が回転し始めたのは、十秒以上経ってからだった。もしこの間に財布等を掏られていたとしても気付かなかっただろう。


「やあ、大地」俺の愛すべき親友は片手を挙げ、軽い挨拶をした。


「お、おう……」頭が回転し始めたのはいいが、俺はスロースターターだ。まだ気持ちの整理ができていない。


「どうしたの?」


「お前……、そんな趣味があったんだな」


 まず連想したのは、フランス人形だった。黒を基調とした服に、白いフリルがところどころに装飾されている。袖は手に近づくほど広がっていた。また、膝上までしかないスカートは、直径一メートル前後はあるのではないかと思わせるほど、傘のように広がっている。首には銀の十字架がついたチョーカー。細い足には黒いハイソックス、靴はリボンがつき底が高い。普段の凛久からは到底考えることのできない服装である。いや、考えつけという方が無理な話だ。


「まあね」凛久は自分の姿を確認していた。「別に変じゃないでしょう?」


「ああ……、似合いすぎて怖い」


 凛久はくるりと軽やかに一回りした。スカートが広がる。長髪も同様だ。鬘をしているのだろう。そのため髪は腰まで届くほどになっていた。


「どうしてまたそんな格好を?」俺は訊いた。


「え、いや、別にこれといって理由はないけど、まあそうだね、大地を驚かせたかったというのはあるかもしれない」


「すっげえ驚いた。呼吸止まったし」


「こんな趣味を晒せるのは大地くらいだからね。他言はしないでくれよ」


「親にも知られてないのか?」


「もちろんだよ。言えるわけがない。今日もこっそり出てきて、外で気付かれないようにこうして鬘もしてるわけさ」


「これでお前だってわかる奴がいたらすげえよ」俺は改めて凛久を見た。やはり普段の凛久からは想像できなかった。


「でも、次から大地に気付かれるね」


「そうだな。うん、記憶した――というか記憶せざるをえないわ、こんなの。さっきの衝撃は一生忘れないな」


「大げさだよ」


「化粧もしてんのか?」


「軽くだけどね」


「しかし、まあ目立つわ」


 必ずといっていいほど、通行人たちが凛久を一瞥していく。いや二度見はしているだろう。まさかこの暑さでその格好はないだろうと思っているに違いない。


「暑くないのか?」


「そこそこ。だけど、どうせ室内に行くんだし、問題ないでしょ」


「口調が女っぽい」


「気にしない気にしない」凛久は微笑んだ。


「いやあ、でも、まさかお前がなあ……」俺は舐るように見続けた。


「意外性やギャップは大事ってことだ。面白い親友でよかったじゃん」


「たしかに。俺もそんな格好してみようかな」俺はジョークを言った。


「貸そうか?」


「いや、冗談だから」


「大地は華奢でもなく、かといって肩幅が広いわけでもないから、ボクの服ならギリギリ入るんじゃないかな。身長も十センチくらいしか差がないし」


「人の話を聞いてくれないか」


「まあ、ボクは黒が好きだから、大地にはぜひ白で着飾って欲しいかな。ちょっとプリキュアみたいだけど、うん、問題ない」


「大ありなんだけど」


「蟻? 白蟻みたいになるのが嫌ってこと?」


「そうじゃない! 人の話を聞け」


「聞いてるよ。無視してるだけ」


「最低だ!」


「じゃあ、そろそろ行こうか」


「人の話を聞けよ……」


 まず向かったのは、本日の目的である映画館だ。チケットは店頭では販売していないため、入口付近で混雑しているということはなかったが、グッズ売り場はほどよく賑わっていた。パンフレットだけは別の売り場という素晴らしい配慮のために、並んで買うことをせずに済んだ。


 しかし、どこにいても隣の親友は人目を奪っていく。映画館までの道のりもそうだったが、多くの視線が凛久に集まっていた。近くにいた俺が強く感じたのだから凛久もわかっていたと思うが、当の本人はそれを意に介さないようだった。鬘や化粧をしているので、知り合いがいても気付かれることはないと思っているのだろう。現に一番の親友である俺が(もちろん、そうであって欲しいという俺の願望である)気付かないと判断したのだから、たとえば鬘が飛んでいったり、化粧が落ちたりしない限りは、問題ないはずだ。


 ときどき凛久から甘い匂いがして、鼻をくすぐった。普段とは違う匂いのせいで、気持ちを落ち着かせるのは不可能だった。落ち着かない。そんな俺を見て、凛久は面白そうに笑うのだった。


 上映中のことが心配になったが、お互いに集中して観賞できた。正直にいって、そのときの俺を褒めたとしても、誰も責めなかっただろう。ただ、周りからの視線は痛かった。責められているような、様々な思惑の視線を感じた。


 映画館を出て、しばらく歩いていたら、背中から白い羽のようなものがいくつも生えている謎の物体に出くわした。近くにゲームセンターがあり、すぐにそれがぬいぐるみを背負っているのだとわかった。


「あれ、なんだろうな」俺は指さした。


「あれはね、コンドロクロディア・リラっていう深海生物だよ」凛久は即答した。


「え? なんだって?」


「コンドロクロディア・リラ」


「呪文?」


「深海生物だって言っただろ……」


「マジであんなのが地球にいるのか?」


「深海生物なんて、みんな、あんなだよ。めっさ可愛いよね」


「めっさ?」


 昼食は近くのファミリーレストランだった。もちろん話題は映画のことである。ずっと話していたような気がする。一、二時間ほどだ。


 映画の出来は、近年稀に見る良作だった、と凛久は評価した。俺もそれには同意だった。脚本、演出、役者の演技、BGM……、そのどれをとっても、素晴らしい、の一言しかなかった。さすがに製作費用の違いもあると思うが、しかし近年では費用をかけているくせに駄作を作り上げることも多い。その点では、この映画は製作費用をかけた甲斐があったと言える。この先、名作と呼ばれる映画となることは間違いない、というのが俺たちの見解だ。


 それからは、主に古本屋巡りとなった。凛久の提案に反対があるはずがない。それに俺は一度、凛久がどのように古本を選ぶのか、間近で見てみたかったのだ。


 二、三軒ほど回って、凛久の行きつけだという古本屋に行った。そこは、築百年は経っていると言っても過言でないほど古い建物で、引き戸を開けるのも一苦労だった。店内は書架がずらりと並び、図書館にも似た喋りにくい厳かな雰囲気と、古本の独特の匂いが漂っていた。ただ驚いたのは床に埃が一つもなかったことだ。もっと荒れていると思っていたが、酷い思い込みだったようだ。棚にも埃一つない。見事である。


 凛久に続き店の奥へ行くと、店主と思わしき老人がいた。凛久が軽く挨拶すると、陽気に挨拶を返し、歯を見せて笑った。本当に顔なじみらしい。凛久の話では、年齢は八十を超えているらしいが、それを感じさせないほど若々しい。なんといっても、スーツを着用しているのだ、古本屋の店主というよりは、大企業の重鎮に見える。髪は白く染め上がっているが、量は多く、オールバックにセットされていた。身だしなみに気をつけるタイプらしい。お茶を用意するといって立ち上がったときに、身長が百七十と少しだということがわかった。初見でこの人を八十歳以上だと見抜ける人がいるわけがなかった。


「どう、凄いでしょ。化物だよね」凛久は平然とそう言った。


「どうなってんだ、俺たちとは別の時間で生きているとしか思えないぞ。本当に八十以上なのか? 証拠はあるのか?」


「免許証と保険証とパスポートを見せてもらったけど、嘘偽りなかったよ」


「じゃあ、改造人間か」


「かもしれないね。腹筋割れてるし、五十キロまでは片手で持てるらしいよ」


「マジかよ……。というか、腹筋見たのか?」


「見たよ。触ったよ」


「ああ、そう……」


 あの店主が服を捲り上げている姿を想像するのは、困難だった。たぶんこれは脳が拒絶しているだろう。きっと面白いはずだから。


 店主はトレイに載せたお茶を一旦カウンターに置き、下から足を折り畳めるタイプのテーブルを用意し、設置し始めた。カウンターの横には少し広めのスペースが空いている。荷物などを搬入するためのものだと思っていたが、どうやらテーブルを置くための場所だったらしい(真偽は定かではない)。どこからともなく背もたれのない椅子を二つ取り出し、あっという間にお茶会の準備を済ませてしまった。このとき、俺には彼が大企業の重鎮ではなく、熟練の執事に見えた。


 このセットが用意されるのは、この古本屋の常連、しかも毎月五十冊ほど購入している者に限るとのことだった。つまり凛久はそれを満たしている。当の俺は、親友ということで特別待遇らしい。


「いつも凛久くんから話は聞いてるよ」と言われたが、いったいどんなことを言われたのかは不明だった。


 三人での会話は静かに盛り上がり、完全に日が暮れるまで続いた。当然話題は本のことであり、専門的なことや深い話をされると俺は完全に蚊帳の外へと追いやられた。しかし黙って二人の話を聞くのも悪くなかった。


「もうこんな時間だね」凛久が切り出した。俺を一瞥してから、店主に視線を向けた。「もう帰ることにします。今日も楽しかったです」


「私の方も楽しかった」店主が立ち上がった。「きみとこんなに長く話したのは、いつ以来のことだったろう。もしかして彼がいるから、上機嫌なのかい?」視線が俺に向けられた。


「そういうことにしておいてください」凛久は微笑んだ。「世にも珍しいボクの親友です。なかなか面白い奴でしょう?」


「たしかに」


「ジョークなんて言葉使う高校生は彼くらいですよ」


「まったくだ」店主は大笑いをした。


「……悪かったな、時代遅れで」口を尖らせて言う。


「悪いなんて一言も言ってないよ」


「そうだよ」店主が俺の肩に手を載せた。爪が綺麗だった。「えっと……、大地くんだっけ。いかんな、歳のせいか物覚えが悪くなっている。内臓とかも弱くなっているんだよなあ」


「レモンみたいですね」俺は言った。


「レモン?」


「それはあまりいい例えじゃないね、ボクは好きだけど」


 結局、その古本屋をあとにしたのは、午後七時を回ってからになってしまった。気温は昼間よりも下がっていたが、夏独特の湿っぽさが身体に纏わりついた。


 人通りはまだ多く、凛久は彼らの視線を、一度は必ず奪った。そして相変わらず凛久はそれを意に介さない。もしかしたら、視線に気付いていない、という可能性もあった。


 駅前まで歩き、例のオブジェの前で凛久と別れた。実にあっさりとした別れだったが、俺たちはいつもこんな感じなのだ。帰るのが惜しくなってその場で長々と話し込むことは絶対にない。お互いに言葉する必要がなかった。片手を挙げられたら挙げ返す――それだけだ。

帰り道は別だ。


 いつもは振り向かずに帰路につく。


 だけど、


 振り向いた。


 初めてのことだ。


 凛久も振り向いていた。


 もしかしたら、凛久はいつもそうしているのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る