第9話 夢で逢いましょう

 ふいに寝苦しさから目を覚ました。もしかしたらまだ寝ていなかったのかもしれない。人間というのは、目を瞑るだけでも睡眠効果を得られるというし、たぶん目を瞑ったことで眠った気分になっていたのだろう。


 視界はぼんやりとしていた。脳の半分が眠っているようだ。クジラもこんな気分で眠っているのだろうかと、ぼんやり考えた。


 手の甲を額に載せた。汗はかいていないようだ。


 天井が見えた。


 からら、と音がした。


 なんだろう、と視線を向けた。


 影が動いていた。


 人。


 誰だろう。こっちを見ている。


 ゆっくりと影が大きくなる。


 否、近づいてきているのだ。


 生ぬるい風。窓は、閉めたはず。


 それに、甘い匂い。どこかで……。


 影は俺の視界を埋め、数センチもない距離で止まった。


 影には光るものがあった。


 二つ。


 吸い込まれそうだった。


 そして影が動き出し、唇になにかが触れた。


 柔らかい。


「ん……」


 女性の声。


 しばらくその感触があった。


 これは……、夢?


 頭が回転していない。


 やはり眠っている。


 しかし、次の瞬間、その眠っていた頭が働きだす。


「ん!?」


 なにかが口の中に侵入してきた。


 口内で動いている。


 舌に絡み付いてくる。


 急激に視界が鮮明になった。


 その影の正体が露わになる。


「ぷはっ!」と、そいつは離れた。同時に口の中の感触が消える。


「お前……、こんなところでなにしてる」俺は上半身を勢いよく起き上がらせて言った。相手の顔との距離が再び縮まる。


 月の光に照らされ、彼女の表情がよくわかった。頬はほんのりと赤く染まっている。指先で髪先をいじり、ジッと俺を見つめている。整った顔立ちで、まるで人形のように綺麗である。しかし、今の彼女は綺麗と評すよりは、明らかに可愛いといったほうが正しかった。


 けれど、問題はそうではない。


 そういうことじゃない。


 彼女は上目遣いで、はっきりと、だがどこか消えてしまいそうな声で告げる。


「……来ちゃった」


 古宮伊澄と俺の唇が、再び重なった。


 夢じゃないことが不思議だった。



「どうやって入ってきたんだ? なんで家を知ってる」


「窓からだよ」伊澄は窓を指さした。


 膝立ちで歩き、窓を確認する。施錠したはずなのに開いていた。


 そして俺の目を疑わせたのは、庇に架かった梯子だ。隣家の窓枠から伸びていた。二メートルもない距離の、あの隣家からだ。今は誰もいないはずだ……。


「不法侵入じゃねえか……」俺は呟いた。


「うん?」伊澄はきょとんとした。


「なんで」


「我慢できなくて……」恥じらう顔を見せる伊澄。そう、まだ約束の月曜日には時間があった。あり過ぎるくらいだ。


「我慢できないと来ちゃうのか……」俺は呆れた。


「うんっ!」元気よく頷く。もしかしたら深夜テンションなのかもしれない。「大地くん、大きな声出さないんだね。普通、驚いたら、声出るでしょう?」


「家族が起きるだろ」


「ああ、そうか、優しいんだね」


「それで、なんで住所を知ってるんだ」俺はベッドの上で胡坐をかいた。


「住所なんて簡単に訊き出せるんだよ。知らない? 私、優等生だから先生たちに信用されてるんだ。ちょっとお願いしたら、教えてくれたよ」


「見舞いに行きたいとか言ったのか」


「よくわかったね」伊澄は微笑んだ。素敵な表情だった。


 深夜の自室に、同級生の女子がいるというのは、なかなか緊張するシチュエーションだと常々思っていたけれど、意外にそんなことはなかった。たしかに魅力的ではあるが、気分が高揚するわけでもない。しかしそれは、相手が不法侵入をし、寝込みを襲ってきたからなのかもしれない。


 伊澄は髪をゆっくりと耳にかけた。完全に居座ってしまっている。


 彼女は白いキャミソールにホットパンツと、かなりの薄着である。それに露出が多めだ。月に照らされた彼女の透き通るような肌が、主張を抑えていない。


「なにしにきたんだ?」沈黙が続くと気まずいので、俺から切り出した。


「会いに来たの。会いたくて会いたくて仕方なかった。電話もメールも我慢したのは、この時間のためなの。本当はただ話をしたかっただけなんだけど、寝ている姿を見たら、気持ちが高ぶってきて、自分を抑えられなくて……、その……」伊澄は俯いた。なにをいまさら恥ずかしがっているのだろう?


「夜這いしちゃった、と」


「その言い方は棘があるよ」


「キスされただけでも驚いたっていうのに、まさか舌が入ってくとはな……。俺の初キスが……」


「なんか思わず……、ごめんなさい」伊澄は頭を下げた。「でも、私も初キスだったから、お相子だね」


「うん? まあ、そうなのか?」


「そうなんだよ」


「まあ、いいや。とりあえず、朝までには帰れよ。俺は明日も学校なんだ」俺は大きなあくびをした。


「私もだよ」


「だから、もう寝る。おやすみ」俺は横になった。微睡み始める。


「私も寝る」伊澄も横になった。すぐ近くに彼女の顔があった。大きな瞳が向けられ、とても眠れるとは思えなかった。


「いや、ここは帰れよ」


「どうして? 一緒に寝たくない?」


「一緒に寝ることは構わないけど――というか、ありがとうございます」


「いえいえ」


「そうじゃなくて、年頃の女子が、年頃の男子の部屋で一晩過ごすのはどうかと思うぞ。世間体とかあるし」


「世間の目は向けられてないから大丈夫」


「なんか眠くて、頭が回らないわ。どっと疲労感が出てきた」


「おやすみ」


「いや……、だから、せめてでも、出て行く姿勢を見せろよ」


「今日から恋人どうし。大地くんは私の彼氏」


「お前は、伊澄の彼氏?」


 視界がぼんやりし始める。


 ああ、また夢を見るのだ。


 今度は疲れない夢がいい。


「違うよ」伊澄はくすっと笑う。「私は、大地くんの彼女」


 そこで俺の意識は唐突に途切れた。



 目を覚ますと、部屋には俺だけになっていた。窓も閉まっていて(律儀に施錠されていた)、ベッドから仄かに伊澄の匂いがした。


 夢じゃ……なかった。


 現実と夢が撹拌され、


 現在と過去が入り混じり、


 混乱が生まれていた。


 寝ぼけ眼を擦り、俺はぐっと伸びをした。完全に疲労から回復したとはいえないものの、それでも生活に支障が出るほどではない。人間というのは、ほどよく疲労していた方がいいのだ、というのが俺の持論である。理由はない。なぜなら今そう思ったからだ。


 しかし、古宮伊澄の行動力には素直に驚いた。たしかに月曜日まで時間をくれとは言ったが、まさか曜日が変わった瞬間に家に乗り込んでくるとは思わなかった。

しかも軽装だった。あんな格好でよく歩けたものだ。


 いや、それは男子だけが持つ固定概念なのかもしれない。女子の服装は意外に露出度が高かったり、薄手だったりする。ミニスカートなど、男子からすれば考えられない服だ。あんなのタオルを一枚腰に巻いているのと変わらない、というのが男子の考えだ。スカートの開発者には感謝の言葉しかない。どうして記念日がないのかがわからないくらいだ。


 あと水着と制服の開発者にも感謝。


 俺は顔も、名前もわからない、その偉人たちに感謝の言葉を述べた。天井を見上げ、その向こうに広がる空、そしてその上を想像した。どんな世界なのだろう。

着替えを済ませ、リビングへ行く前に、洗面所で顔を洗った。鏡を見ると、髪がいい感じに跳ねていた。いつもはもう少し爆発しているのだが、昨日は、もとい今日は寝相がよかったみたいだ。


 リビングへ行くと、テーブルの上に置き手紙があった。いつもはない。明日夏さんが書いたことは間違いないが、こういったことは珍しかった。



  大ちゃんへ

  おはよう

  今日もいい天気だね

  昨夜は誰と会っていたんですか?

  まさか深夜の密会をするなんて

  なかなか素敵ね

  美咲ちゃんには

  気付かれてないといいね

  気付かれないようにね

  わかった?

  それじゃあ、いってきます



 チラシの裏に書かれた手紙を読んで、俺の口から深い溜息が出た。ぐしゃぐしゃに握り潰し、美咲に読まれないようにする。捨てる場所は家でない方がいいだろう。


 明日夏さんに気付かれているということが、この家でどんな意味を持つのか、それは考えなくても、容易に浮かび上がる。面倒なことになった。弱みを握られたといってもいい。俺と明日夏さんの関係はなかなかシビアである。たしかに親族なのだが、友達のようであるし、それ以上であるといっても過言ではない。一つ屋根の下に暮らす身としては、まして居候の身では、このような弱みを握られてしまうのは、喜ばしいことではない。なにを要求されるのか、と俺は心配になった。


 小さく丸まった紙をスラックスのポケットに入れ、和食好きの妹のためにトーストを用意した。


 しかし色気よりも眠気が勝ってしまったのは、男としてどうなのだろう。あのとき、御託を並べていたが、本心では、それはもういろんな部位に触れたかった。人間は後悔をしないで生きられないのが辛いところだ。後悔なしの人生だと、俺の人生はどうなっていたのか気になるところだ。


 その後は、妹といつものやり取りがあり、それとなく昨夜のことを訊いてみたが、彼女は熟睡していたため、なにも知らなかった。


「そうだ、お前、古宮って名前に聞き覚えないか?」


「コミヤ? どんな字ですか?」


「古典の古に、王宮の宮」


「なんか由緒ありそうな名前ですね」


「で、どうだ?」


「いえ、ないですね」美咲はキッパリと言う。


「知り合いにいないか?」


「人の話聞いてます?」


「今じゃなくてもいいんだ」


「未来でなら聞く可能性はあります」


「過去は?」


「ないです。その古宮さんがどうしたんですか? 探し人ですか?」


「いや、なんとなく、昨日から引っ掛かってて……」


「ああ、ありますよね。なんか聞いたことのある響きなんですけれど、それがどこで聞いたのかわからないって。私、それが嫌いなんですよ。絶対名前とか付いてますよね」


「TOT現象じゃなかったか?」


「兄さん、博識ですね」


「うろおぼえだから、間違ってるかもしれないから、自分で確かめてくれ」


「いえ、私の中では、もうTOT現象で解決です。間違っていたとしても、私にとっては正解になりました」


「あっそ」


「なんでTOTなんですか?」


「名付けた人の名前なんだ」俺はテキト―に言った。


「なるほど。星とか恐竜とかみたいなものですね。あれ、嫌がらせで誰かの名前をつけることもあるみたいですよ。教科書とかにも記載されてしまいますし、えげつないですね」

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