第16話 モンキーコング

 元旦の朝。俺は暑さで目が覚めた。暖房をガンガンに効かせた上に毛布を被って寝ていたのだから当然だ。身を起こし、大きく伸びをしてからエアコンの設定温度を弱める。汗で気持ち悪い。シャワーでも浴びてこよう。

 1階に下り、リビングにいる両親に挨拶してから風呂場に入る。汗を洗い流し、買ったばかりの新しいパンツを履くと、不思議と凄い爽やかな気分になった。

 朝食を済ませてから自室に戻ると、携帯が通知のランプを光らせていた事に気付く。あけおめメールがいくつか届いているようだ。



あけおめことよろーー! 受験なんかとっとと終わらせて遊びに行こうぜクソ野郎!(●`ω´●)


雉田

明けましておめでとう! 今年もよろしくね(^_^)v


後藤さん

明けましておめでとうございます。今冬は暖かいですが、朝や晩はまだ冷えるので、風邪などひかないように気を付けて下さい。受験、お互い頑張りましょうね!



 俺は思わずだらしなくニヤけてしまった。後藤さんからのあけおめメール。もっと言えば初メール。更に言えば、家族以外の異性からの初メールだ。自然とテンションが上がる。

 他にもクラスメートや野球部員達からメールが来ていたが、まあこいつらには適当に返しておこう。後藤さんには何て返事しようか。あけおめメールであまり長々と書くのも変だし、一言二言付け加えておくだけにするか。俺はシンプル且つ気持ちのこもったメッセージを後藤さんに返信した。

 窓の外を見ると、初詣に行くと見られる通行人の姿が多く見えた。合格祈願という言葉が脳裏を過ぎる。しかし、そんな物はすぐに掻き消した。合格を勝ち取るのは、神様の力などではない。あくまで己の知恵と知識なのだ。神頼みしている暇があったら、1問でも多くの問題を解いた方がいい。

 俺は両頬を平手で叩き、気合いを入れて机に向かった。以前は手も足も出なかった問題集。草野球チームが甲子園常連校に挑むような無謀さだった。しかし今の俺なら、それも充分に戦える相手となった。それは門木大学の過去問とて例外ではない。まだまだ合格圏内とはいかないが、決して雲の上ではないのだ。

 誰かがドアをノックした。晴香が、コーヒーとドーナツを乗せた盆を持って入ってきた。


「お母さんから差し入れだよ」


「ああ、サンキュ。そこ置いといて」


 晴香が机の端に盆を置いた。しかし部屋から出ようとせず、俺が解いている問題をジッと見ている。


「全然分かんないわ」


「当たり前だろ。高3の問題なんだから」


「いやまあ、そうなんだけどさ。今更ながらに、こんな難しい問題をスラスラ解いてる兄貴に凄い違和感」


「スラスラなんて解けてねえよ。それに、答え合わせしたら間違ってる事も多いし」


 そう言いながら、巻末の答えを確認してみると、やはり半分近く間違っている。やはりなかなか思うようにはいかない。俺は天井を仰いで大きく息を吐いた。


「……お邪魔になりそうだから行くね。何か必要な物あったら言って」


「おう」


 晴香が足音やドアの開閉音にまで気を遣いながら、静かに部屋を出て行った。近頃、晴香の俺への接し方というか、態度が明らかに変わった。友達と電話する時もわざわざリビングに下りてしているし、夜遅くまでゲームをするような事もしなくなった。

 俺が思っている以上に気を遣わせてしまっているのか、それとも単に近寄りがたいオーラを出してしまっているのか。でなければ、人が変わったように勉強漬けになってしまった俺に戸惑っているのか。

 悪いなとは思いつつ、仕方ないとも思う。もう本当に時間がないのだから。でも無事に全てが終わったら、焼肉食べ放題でもケーキ食べ放題でも連れて行ってやるか。



 *



「兄貴! ほら、来てたよ合格通知!」


 晴香が騒ぎ立てながら、1通の封筒を手に部屋に駆け込んできた。 


「ん……そうか。良かった」


「何だよ、もっと喜びなよ」


「滑り止めだしな。受かって当然だよ」


 そう……本番は今日だ。今日は遂に門木大学入試当日。全てはこの日のために、遊びたいのも我慢して毎日毎日勉強してきたのだ。


「まあそうだけどさ。でも第2志望だったんでしょ? この紺具こんぐ大学だって、門木大学ほどじゃないけど結構有名なとこなんだし、大したもんだよ」


「まあな。本番前に少しは自信がついたよ」


 それに、紺具大学は野球部が盛んだ。そこに入学すれば、また野球に汗水流す日々が送れるだろう。だが当然、門木に受かればそっちに行くに決まっているが。

 よし、準備オーケー。筆記用具、財布、携帯、そして最も重要な受験票。顔も洗った。朝飯も食った。歯も磨いた。ウンコもした。体調もバッチリ。最高のコンディションで臨める。

 玄関で靴を履き、決戦の舞台へと続くドアを開け放った。


「浮夫、しっかりね。あまり緊張しちゃ駄目よ!」


「兄貴なら絶対大丈夫だよ! 頑張れ!」


「ああ。行ってきます」


 母さんと晴香に見送られ、俺は駅に向かって足を踏み出した。歩いている最中も、覚えた英単語や公式をブツブツと呟き続ける。端から見れば危ない人だ。

 電車の中でも、1度解いた問題を何度も見直す。完璧に脳に刻み込んだと思っても、いざ取り掛かると一瞬でそれが消えてしまうのがテストの恐ろしいところだ。一片の油断も見せるつもりはない。

 40分後、電車は門木大学前駅に到着した。下車する乗客の中には、俺と同じ門木の受験生らしき高校生も大勢いた。そしてその数は、門木大学に近付くにつれ増えていく。そのほとんどが、いかにも優等生という感じだ。一見チャラそうなのもいるが、その顔からは所謂できる人オーラというものが滲み出ている。

 高校受験の時もそうだったが、周りの人間が全員自分より賢そうに見える現象は何なんだろうな。しかもこの人数……倍率も相当高そうだ。せっかく落ち着いている心が再びざわつき始める。

 門木大学に到着。テレビでしか見たことのない、黒塗りの巨大な校舎。その様は、まるでどこぞの帝国の要塞……はたまた魔王城か。紺具大学の柔らかな雰囲気とはまるで対照的だ。他の受験生だけでなく、校舎にまで気圧されそうになる。

 そういえば、後藤さんはもう来てるのだろうか? 周りを見渡すが姿が見えない。教室に入っても、開始5分前になっても、後藤さんが姿を見せる事はなかった。恐らく別の教室にいるのだろう。試験開始前に、せめて一言二言言葉を交わしたかった。

 携帯を開こうとする自分の手を抑える。駄目だ……後藤さんだって、きっと今集中している。邪魔していいはずがない。大丈夫だ……思い出せ……死に物狂いで勉強してきた日々を。受かる……俺は受かる……絶対に受かるんだ!


「時間となりました。始めて下さい」


 試験官の開始宣言と共に、各自一斉に問題用紙を表に返した。さあ、来やがれ。どんな難問だろうが、全てやっつけてやるぞ。



 *



「それでは皆さん、お疲れ様でした。合格発表は再来週の日曜日、午前9時から掲示板に貼り出されますので、忘れずにお越し下さい」


 ……ふう。終わった。長く苦しい戦いは、ひとまずこれで終わりとなった。合否はともかくとして、重い重い肩の荷がようやく降り、気持ちがスーッと楽になった。今まで本当によく頑張ったと、自分で自分を褒めてやりたい。しかしそれは、合格が決まってからだ。

 携帯がメール着信音を鳴らした。誰からだろう?



後藤さん

お疲れ様でした。良かったら一緒に帰りませんか? 校門前で待ってます。



 俺は超特急で帰り支度を整え、教室を飛び出した。まさか後藤さんから誘ってくれるなんて……。他の受験生から訝しげな視線を浴びながら、盗塁を狙う時以上のスピードで校門を目指した。

 いた。校舎を出てから、一瞬で後藤さんの姿を確認した。後藤さんも俺に気付き、手を振ってくれた。


「ゼエ、ゼエ、お、お待たせ……」


「いえ、全然待ってないですよ。そんなに全速力で走ってこなくても良かったのに」


 後藤さんが可笑しそうに歯を見せた。俺はその笑顔を見る度に、勉強の疲労やストレス、そして受験の重圧で擦り切れた心を癒されてきたのだ。

 腹の虫が鳴った。そうか、ちょうど12時か。いろいろな意味で安心したせいか、急に腹が減ってきた。校門の目の前にあるファーストフード店が目に入る。


「後藤さん、良かったらそこで何か食べていかないか?」


「あっ、そうですね。私もお腹空きましたし」


 サラッと提案してしまったが、よく考えたら2人きりで食事するなんて初めてだ。これはプチデートと呼んでいいのではないだろうか? 浮かれた気持ちを隠しながら店内に入る。乾なら一目惚れしてしまいそうな可愛い店員が元気よく迎えてくれたが、今の俺には後藤さんしか見えない。メニュー表を見上げ、財布の中身と相談しながら、適当に安めのメニューを選ぶ。


「後藤さん決まった?」


「はい」


「えーっと、チキンサンドのLセット。ドリンクはコーラで、単品でアップルパイ1つ」


「私は、ギガジャイアントバーガーのLセットで、ドリンクは烏龍茶で。あと単品でチーズバーガー1個と、ナゲット15個と、サラダ1つと、バナナシェイクのLサイズお願いします」


 流石だ後藤さん。俺はもうこの程度ではさほど驚かなくなってしまったが、店員の顔は引きつっている。俺達は頼んだ物を持って窓際の席に向かい合って座った。ここからは門木大の校舎がよく見える。


「後藤さん、試験はどうだった?」


「多分大丈夫です。分からない問題は特にありませんでしたから。多少ケアレスミスはあるかもしれませんが、合格圏内には入ってると思います」


「そうか。やっぱり凄いな後藤さんは」


「猿山君はどうでした?」


「……どうだろうな。ある程度の手応えはあったけど、全く解らない問題もちょこちょこあったし」


 俺はポテトを囓りながら問題を思い返していた。


「そうですか。でも、手応えあったって実感出来るだけでも凄い進歩ですよ。何せ、天下の門木大の入試なんですから。こんな事言うと失礼かもしれませんけど、最初の頃の猿山君だったら、多分1問も解けなかったと思います」


「はは、そうだな。後藤さんのおかげだよ」


 門木大からは、まだ受験生達がバラバラと出てくる。一体何人が受けたんだろうか。そしてこの中で何人が合格なのだろうか。いくら考えても仕方がない。後は結果を待つしかない。それは分かっているのだが、どうしても不安は拭えない。


「紺具大の方はどうだったんです?」


「ああ、あっちは受かったよ。とりあえず春から大学生になるのは確定だ」


「良かった。確か野球の名門ですよね? 大学でも野球やるんですか?」


「紺具に入る事になったらやるだろうな。門木に入れたら……どうしようかな。門木はあまり野球部は盛んじゃないみたいだし」


 携帯の着信音が鳴った。俺のじゃない。後藤さんが鞄から自分の携帯を取り出し、受話した。


「もしもし。うん、大丈夫。こっちは終わったよ。……えっ、ホント!? やったねおめでとう! うん、うん、そっかぁ。良かったね……本当に良かった。ううん、そんな事ないよ。私なんて大したことしてないって」


 誰からだろう? めでたい話みたいだけど。俺は電話が終わるまで、チキンサンドを食べながら窓の外を眺めていた。


「うん、分かった。それじゃあ、また明日ね。バイバイ」


「……誰から?」


「月乃です。江手保育専門学校、受かったそうです」


「それはおめでたいな。あいつも頑張ってたからなぁ」


「猿山君からも、月乃におめでとうって言ってあげて下さいね。今度会った時でいいですから」


「俺から言われても嬉しくも何ともないと思うけどな……まあ、分かったよ。兄弟弟子みたいなもんだしね」


 俺が食べ終わるのとほぼ同時に後藤さんも食べ終えた。あれだけのボリュームがあったのに、大食いなだけでなく凄まじい早食いだ。これならフードファイターとしてもやっていける。

 席を立ち、店を出た。駅を目指し、改札を通り、ちょうど来た電車に乗る。その間、俺達の会話は途切れる事はなかった。

 以前は何か話題を出さなきゃと必死に考えていた。それが最近、随分と自然に話せるようになってきた。まるで何年も前から友達だったかのように。一緒にいて楽しい。心からそう思う。でも……俺にはずっと気がかりな事があるのだ。


「それじゃ、私はこの駅で降りるので」


「あっ、そうなんだ。じゃあ、またね」


「はい」


 後藤さんが電車から降り、電車は再び走り出す。受験が終わった以上、もう図書室での勉強会も自然にお終いとなる。これからは後藤さんや熊井と関わる機会は少なくなるかもしれない。

 俺が気がかりな事……それは、後藤さんは熊井に対してはタメ語なのに、俺に対してはいつまで経っても敬語のままという事だ。もちろん俺と熊井では立場が違う。付き合いも短いし、性別も違う。だから、別に深い意味はないのかもしれない。初対面で敬語だったから、タメ語に変える機会を失ってしまっただけなのかもしれない。

 こんな事を乾に相談したら、恐らく鼻で笑われるだろう。そんな下らない事をいちいち気にしてんじゃねえよと。でも俺には、何だか後藤さんが俺との間に線を引いているような気がするのだ。これ以上親しくなるのを避けているかのような……そんな予感が。それがただの思い過ごし、被害妄想である事を願うばかりだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る