北陸鉄道

矢口 水晶

北陸鉄道

 私が生まれたのは石川県と福井県の境にある、小さな村だ。冬になるとたくさんの雪が降り積もって、山も田畑も真っ白に染まる。冬の世界は物寂しくも、花嫁衣装のように美しかった。

 そして、どこまでも広がる白い大地を一本の黒い線が貫いている。


 北陸鉄道。

 西の果てから県境を横切って東へと走るその鉄道を、村ではそう呼んでいる。日に三度、ブリキの箱のような列車が、がたたん、ごととん、とその線路を手繰って村の小さな駅を横切った。バスの路線も通らないこの村で、北陸鉄道は唯一、外の世界へと出るための手段だった。


 箱庭のようなこの村を、私は一度も出たことがない。だからだろうか、北陸鉄道は日本の西と東ではなく、遠い遠い世界の果てへと続いているように思えてならない。



* * *


     

 私の祖母は間もなく米寿に届こうかという高齢だった。猫のように小さな背中を丸め、瓶底のような丸い眼鏡をかけている。冬になると真っ赤な毛糸の肩掛けを身体に巻き付け、雪の分厚く積もる畦道を、えっちらおっちらと歩いた。そして駅舎の待合室でベンチに座っているのだった。


「雪国の女はね、みんなきれいなんだよ」


 待合室に並んで座っていると、祖母は決まってそう語った。冬の待合室では薪ストーブが焚かれ、真っ赤な炎が踊るように燃えている。祖母はストーブにしわだらけの手を当て、もごもごと巾着のような唇を動かした。


「白い雪に囲まれていると、肌が、白くなるから。ほら、冬の野兎は、みんな真っ白でしょう。あれはねえ、毛皮が雪の色になるからだよ……」


 その言葉を証明するように、祖母の髪は雪のように真っ白だ。けれども、同じ雪国の女であるはずの私は、ちっともきれいじゃなかった。肌は浅黒く、目はぱっちりとした二重じゃない。私は赤いマフラーに顎を埋めて、祖母の言葉に耳を傾け続けた。

 待合室の窓が、がたがたと風に震えた。薄い窓ガラスは真っ白に曇っている。


「でもね、雪国の女は、待たなきゃいけないんだよ」


 皺に埋もれた祖母の目が、ちらと、ホームの方を見やった。駅の外は灰色の雲が垂れ込め、羽毛のような粉雪が舞っている。人気のない灰色のホームは、まるで墓地のように物寂しく、凍えた光景だった。


「雪が、たあんと降って、行く手を遮ってしまうからねえ。だから、雪国の女は、村の中でじっと待ってなきゃいけないの……」


 そう言って、祖母は眠たげに目を細めるのだった。

 吹きすさぶ風を切り裂くように、けたたましくベルが鳴った。それは列車の到着を告げる合図だった。ひとりで常駐している駅員さんのアナウンスが、列車の行き先を告げている。


 細く区切られた改札口から、列車の鉄色の肌が見えた。北陸鉄道を辿り、世界の果てを旅するブリキの箱だった。箱の中から降り立つ人の姿はなく、逆に乗り込む姿も見られない。


 出発のベルが鳴る。がたり、と一度軋んで、列車は再び動き出した。馬がいななくような音を立てて、西の地へと旅立っていくのだった。

 駅舎に冷たいほどの静けさが戻った。私はベンチから立ち上がった。


「帰ろう、おばあちゃん」


 私が差し出した手を、祖母は黙って握りしめ、立ち上がった。彼女の手はざらざらとして、冷たい。そして、少女のように小さかった。

 その日の最後列車が去るのを見送って家に帰る。それが、祖母の一日の終わりだった。



* * *



 毎日待合室のベンチに座って、何を待っているのか。祖母は黙して語らない。けれど、私は知っている。

 祖母が待ち続けているのは、祖父だ。


 祖父は戦時中、若い祖母を村に残して出征した。以来、一度も村に帰っていない。遠い異国の戦場で戦死したのか、それとも生きているのか分からない。祖母は祖父の帰りを待ちながら、女手一つで父を育てた。


 祖父を戦場へ連れて行ったのは、北陸鉄道だった。当時はくろがねの機関車が走っていて、田舎の若者や父親たちをたくさん乗せて、遠い世界へと連れ去ってしまった。彼らを返してくれたのも北陸鉄道だったが、祖父は、返してくれなかった。

 北陸鉄道は外の世界へと続く道だったが、死の国へと続く道でもあった。黒煙を吐き出す黒い箱は、祖父を飲み込んだ棺であった。


「……おばあちゃんにも困ったものね。これ以上、ぼけが進まなきゃいいんだけど」


 台所で沢庵を切っていた母が、ぼそりと呟いた。私は黙々と小鍋に味噌を煮溶かしていた。

 祖母は茶の間でテレビを見ている。近頃はすっかり耳が遠くなってしまって、母の声は聞こえていなかった。


 祖母が駅に通うようになったのは、七十を超えた頃だった。最初は物忘れがひどくなっていたのが、だんだん周りの人間が誰なのか分からなくなり、今では自分のことすら分かっていなかった。


 祖母の中で、今は過ぎ去った時代であり、自身は夫の帰りを待つ妻であった。彼女は夢を見ているのだ。いつか祖父が北陸鉄道に乗って、自分の許に帰ってくるという、夢を。

 けれども、現実の北陸鉄道は東西をつなぐ短い線でしかなく、世界の彼方へと続く道ではない。祖父を乗せた鉄の機関車も、もう走ってはいない。


「悪いけど、明日もおばあちゃんを迎えに行ってあげてくれる? パートの帰りが遅くなりそうなの……」


「うん、いいよ」


 私はうなずいて火を止めた。鍋の中で靄のように溶かした味噌がわだかまっていた。

 窓の外から、ひゅうっと切り裂くような風の音が聞こえた。今晩もたくさんの雪が降るのだろう。


                      * * *        



 翌日、私は学校を終えて駅へと向かった。灰色の空の端が、微かに赤く染まっている。

 長靴の底で、ぎゅっぎゅっ、と雪が潰れる音がする。除雪されていない農道には、自動車と、人の通った跡が二本の轍となって、深く刻まれていた。祖母は今日もまたこの道を通り、そして駅舎で待ち続けているのだろう。灰色のホームから、今日の最終列車が立ち去ろうとしているのが見えた。


 深い雪に埋もれるようにして建つ、小さな駅舎。人形の家のようなそれは、まるで誰からも忘れ去られているようだった。中に入って待合室を覗くと、いつも通り、ベンチに祖母が座っている。赤い肩掛けを撒き付けた背中が、ことさら小さく見えた。


「……列車、行っちゃったよ」


 私は薪ストーブに手をかざしながら、祖母に言った。返事はない。ここ数年、祖母からまともな返答がされたことはなかった。夢の中に生きる彼女には、私の声など届いていないのだ。


「もう止めよう、おばあちゃん」


 ストーブの中で、ぱちん、と薪が爆ぜた。それ以外には、何の音も聞こえない。


「待っても無駄なんだよ。誰も、帰って来ないの。だからね、もう、帰ろうよ……」


 私の声は、今にも泣き出しそうなほど震えていた。

 祖母が哀れでならなかった。帰らない人の帰りを信じて、誰も乗っていない列車を待つ祖母の姿は、これ以上なく孤独で、滑稽だ。老いてしまった、待つことしか出来ない雪国の女の、なれの果てだった。


 その時、私は祖母が目を開けていないことに気が付いた。ぐったりとうつむいて、柔らかい頬のしわが、雪像のように凍っている。


「……おばあちゃん?」


 祖母は、私の声に応えてくれることはなかった。


                      * * *


      

 その後、祖母は隣町の病院に運ばれて亡くなった。

 祖母は巨大なストーブのような火葬炉に焼かれ、骨と灰になった。まるで粉雪のように白い骨だった。それを骨壷に入れてお寺に納めた頃には、とっぷりと日が暮れていた。


 ちらちらと雪の降る夜道を、父と母と共に歩いた。二人ともむっつりと黙っていて、喪服を着た黒い後ろ姿は、まるで知らない人のようだった。私もコートの襟をきつく掻き合わせて、ざくざくと水っぽい雪を踏んでいた。


 何気なく顔を上げた時、私は、おや、と思って足を止めた。星明かりすらない暗闇の中に、ぽつりと、橙色の明かりが灯っていた。

 あれは駅舎の明かりだ。この時間には、もう誰もいないはずなのに。


 父と母は駅舎の明かりに気が付いていないのか、そのまま黙々と歩き続けていた。私は虫のようにその明りに吸い寄せられ、通い慣れた田舎道を手繰った。

 駅舎の中は明かりが点いているものの、駅員さんの姿はなかった。しんと空気が凍っている。

 待合室に視線を移すと、小さな人影が見えた。


 がらり、とガラス張りの引き戸を開けて、私は待合室に入った。薪ストーブにも火が入れられて、空気が暖まっている。

 その正面、着物を着た女の人が、ベンチに座っていた。

 私は少しだけ距離を取って、女性の隣りに腰掛けた。彼女は艶やかな黒髪を肩まで伸ばし、真っ赤な肩掛けを身体に巻き付けていた。その肩掛けは、私が毎日見ていたそれによく似ていた。

「あのう」と、私は恐る恐る声をかけた。


「……どちらへ、行かれるんですか?」


 女性は顔を上げて小さく微笑んだ。彼女の肌は透けそうなほど白く、それこそ雪の色が染み込んでしまったかのようだった。

 雪国の女だ。


「いいえ。待っているの」


 そう言って、彼女は首を振った。


 その時、無人のホームでベルが鳴った。

 女性は「来た」と呟き、赤い肩掛けを翻して待合室を飛び出して行った。私も慌てて立ち上がり、彼女のあとを追う。

 

 改札口から外を覗くと、しゅうっ、と蒸気を吐き出す音がした。高密な鉄の肌に、私は目を奪われた。

 それはブリキの列車ではなく、かつて北陸鉄道を走っていた機関車だった。黒々とした煙突から煙を吐き出すその姿は、まるで太古から生きる大きな獣のようであった。それに連なる客車に、女性が駆け寄っていた。


 客車の扉が開くと共に、黒いコートを着た腕が伸びて女性を抱き寄せた。黒いコートの人物は向こう側を向いていて、その顔をはっきりと目にすることは出来なかった。ただ、どこか懐かしい雰囲気をまとっていた。


 再びホームに出発のベルが鳴り響いた。その瞬間、雪交じりの風が激しく吹き付けて、私は思わず顔を背けてしまった。

 次に顔を上げると、機関車の姿は跡かたもなく掻き消えていた。

 煌々と灯っていた駅舎の明かりも消え失せ、まるで夢から覚めた後のようだった。私は、真っ暗なホームにぽつりと立ちつくしていた。


 吹き荒ぶ風の中に、遠く、汽笛の音を聞いた気がした。

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