第1話菊次郎と菊子

 菊次郎は聖護院という町に住まいを定めた。今は京都でも観光客で賑わう平安神宮のある岡崎や南禅寺にほど近い場所である。明治三七年(一九〇四年)十月のことである。その年の二月には日露戦争が始まっており、国内は戦争気分一色であった。海軍は旅順港封鎖や仁川沖海戦など東アジアに展開するロシア軍艦の無力化に必死に力を注ぎ、陸軍は旅順攻撃や沙河会戦などでロシア軍と一進一退の攻防を繰り広げていた。

 そのような時代に西郷菊次郎は前任の京都内貴市長に乞われて市長に就任したのである。  

 一家五名の大家族であったが、聖護院は十分に広かった。

 もちろん市役所からも近い。

 当時、市役所は議会の一角に京都市役所が陣取っていた。


実は市政が日本の法律に定められたのは、以外に新しく、明治二十一年のことで、それまで内務卿が指名する県知事が地方自治を担う末端であった。


 京都市が市長を頂き、名実ともに京都市となったのは明治三十一年のことである。

 初代市長は西郷菊次郎を市長に招いた内貴市長である。

 そして明治三十七年の西郷京都市長誕生となった訳である。

 このような行政組織が完成しない時期に大事業を起こし、完成せしめる原動力となったのは京都の町衆と言う民衆のエネルギーではないかと菊次郎は達観していた。

 菊次郎は市会議員と別の京都の町衆との会話を試みた。

 この町衆と言う者は裕福な商人たちのことである。

 応仁の乱後に権力から身を守る自治組織として面々と伝えられるものであると聞いていたが、昔、鹿児島の郷中教育と言う若者の団体で心身を鍛えて育った菊次郎に理解できない部分が多くあった。

 同じ地域の者で仲間を造るかと言うと、そうでもなく。同じ商い仲間で造るかというとそうでもない。

 まるで網の目のように、互いに町衆仲間が存在し、つながっているのである。

 本能寺の法華経を信仰する者が多いと聞いたが、全員がその信徒ではないのである。

 京都市の行事を支え、寄付をし市を支える存在でもあった。京都市の自治の歴史は古く応仁の乱で街が灰じんに帰した後の復興から始まったと言われる。その時期に町衆と言う団体の歴史も始まったようである。

 京都市でも市政が法律で決められた後も、しばらくは市の有力者で市の事業等を合議で決めていた。

 いち早く学校を新設し、教育事業に力を入れたのも、明治一八年に開始した第一次琵琶湖疎水事業を、六年の歳月をかけ明治二三年に完成させた原動力も、この町衆を中心にする自治体の力であった。


 西郷菊次郎は四郷隆盛の長男である。

 遠島を命ぜられ、奄美大島に蟄居する間にアイカナという女性との間に設けた子供である。

 菊次郎は文久元年(一八六一年)に生まれた。

 一年後には菊子という女子も生まれている。

 隆盛は前にも妻を娶っていたが、最初の妻との間には子どもはなく、この菊次郎と菊子という娘が長男、長女となる。

 菊次郎や菊子が育った当時の奄美大島は薩摩藩の支配下にあり、砂糖の原料となるサトウキビ造りに奴隷同様の酷使をされていた。


 砂糖は大阪方面に運べは莫大な利益を生んだ。薩摩藩が明治維新で他藩に先んじて主導権を握ったのは財政力であった。その財政力な砂糖が産んだ利益によることが大きい。

 薩摩藩に絞り取りが厳しくなったのは一九三〇年代の天保年間の島津斉興の時代である。この時代、どこの藩も藩財政の立て直しに心血を注いだが、薩摩藩も例外でなく、大阪方面商人の借金の踏み倒しや、琉球を介しての密貿易、そして奄美大島方面の砂糖生産利益の独占により、大きな蓄財を成功させるのである。この蓄財があってこそ、薩摩藩は明治維新の原動力として働けたのである。

 奄美大島の人々には過酷な労働が強いられた。島民支配の強化のために、薩摩藩は島民に家人制度と言う新たな身分制度も強制した。

 経済政策よる本土の職業による身分制度ではなく、経済状態による身分制度である。ある者が必要に差し迫られ、有力者から金を借りる。借りた金を返せない事情が生じれば、本人は有力者の家人として生涯を奴隷同様の強いられるのである。さらに恐ろしいことは家人同志の間に生まれた子どもは、生涯、有力者の家人として過ごす運命になるのである。

 当時の島の人々の苦しく貧しい生活は、哀切な民謡として今も歌い継がれている。

 サトウキビの刈り入れに際しては、切り株の高さまで役人が監視していた。切り株を僅か残し、甘い汁を啜るのを防ぐためである。

 もちろん、この家人を支配する有力者は、薩摩藩の支配を受けることになる。

 龍一族はそのような家柄であり、アイカナも、その一族であった。

 だが島を出たら通ずる身分ではない。

 鹿児島と奄美大島の間には厳然と溝が存在し続けた。それでも菊次郎も菊子も西郷隆盛の血を受け継ぐ子として、西郷家に引き取られ、隆盛の新しい妻のもとで二人は成長するのである。

 菊次郎は明治二年に九才で鹿児島の西郷家に引き取られ、隆盛の妻イトの元で西郷家の一員として育てられ、明治五年一三才の時に、父の命令ででアメリカに渡り、二年間を過ごした。その間、大久保利通の次男である信熊と一緒であった。二年半の留学後、アメリカから帰国後、隆盛の指示で吉野開墾社に入った。征韓論に敗れた父隆盛が創設した青少年育成のための団体であり、鹿児島の着たに吉野地区の開墾に従事しつつ、鹿児島市の北に広がる吉野地区のシラス台地を開墾しつつ青少年を鍛錬しようという場であった。

 明治十年の西南戦争には菊次郎は父に従い従軍した。その時、右足を弾を受け膝下から切断する重傷を負ったが一命を取り止めた。 政府軍の捕虜になったが、伯父の西郷従道の計らいで罪を許され、父の死後は従道の庇護を受けることになったのである。


 地方行政官としての菊次郎の経歴は台湾の冝蘭庁(ギラン庁)という庁の長官(県知事)から始まる。実は、それまでは彼は外務官僚として活躍していたのである。

 冝蘭庁とは台湾北東部にある地域である。

 そこでの彼の功績は戦後の今でも語り継がれている。

 彼が建設を推進した河川堤防も現状のまま残り、大きな石碑が彼の功績を語り継いでいる。

 台湾が正式に日本領になったのは明治二八年(一八九五年)ことである。

 日清戦争後の下関条約で台湾は日本領として日本の最初の植民地となった。台湾原住民が、素直に日本の植民地支配を受け入れることはなく、同年に台湾民主国が独立を宣言した。日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出し、乃木希典も第二師団も率い台湾へ出征し、制圧した後に、明治三十年(一九八七年)までの二年間を台湾総督として過ごした。

 初の植民地経営であり、乃木が苦労したのは利益をひたすら貪ろうとする日本人の扱いだったと言う。

 彼の功績は悪辣な日本人の綱紀粛正にあったと言って良いとされている。

 彼の後を継いだのは児玉源太郎である。

 児玉は後藤新平に台湾経営を全面的に任せた。後藤新平は医師であり、合理的な思考で台湾経営を軌道に乗せた。

 その時、菊次郎は冝蘭庁の発展に寄与したのである。

 しかし彼は体を壊し、明治三十五年(一九〇二年)に依願退職し庁長を依願退職し、鹿児島で京都市長に招かれるまでの二年間を静養している。


 菊次郎の台湾での活躍は国内で密かに語られていた。父のように巨漢ではないが、隆盛の性格を多く受けている。後を託すに菊次郎以上の人物はいないと内貴市長は判断したのである。



 当時の京都市は工場水などの増加に対応するために疎水の拡大と下水の整備、道路の基盤整備を行わねば、発展はないと考えたのである。特に市内の道路は狭く大通りで馬車がすれ違うと人が通る隙間がなくなった。

 横浜など明治維新以降誕生した新しい都市と比較すると、市民は京都市が零落の一途を辿ると焦ったのである。

 だが、いずれの事業にも莫大な金が必要である。

 そこで内貴市長が西郷隆盛の長男であり、しかも薩摩閥として多くの係累を擁する菊次郎である。

 菊次郎なら工事計画の認可や、予算獲得にも力を発揮してくれる菊次郎に目を付けたのである。

 菊次郎は内貴市長の期待に背かなかったことは、その後の歴史が証明する。

 現在の京都の姿は、一九〇五年から一九一〇年の間に完成したのである。他の日本の都市が関東大震災な戦災を通じて、完成したのであるが、現在の古都京都は震災にも戦災にも無縁で人的に造られたのである。


 当時の京都市は行政区は西は山陰本線から、南は東寺付近を境とする狭い地域であり、東と北は山に囲まれている狭い地域であった。

 議会や市民が求めていることは明白である。

 琵琶湖疎水の拡大、電気事情の改善や道路拡幅事業は菊次郎を市長に招く運動をしてくれた前市長の内貴から申し受けていた。

 ただ内貴市長には資金を集める力はなかった。彼は菊次郎に京都市の未来を託した。

 アメリカなどで近代都市や近代技術に触れて来た菊次郎には、内貴市長の意図することが、すぐに理解できた。

 予算獲得のために、菊次郎は東京で過ごすことが多かったと言う。東京在住の京都市長と言われるままになったと言う。それだけ彼は情熱を傾けた事業だったのである。

 菊次郎が上京する時に携行した黒かばんは、今でも琵琶湖疏水記念館に展示されている。

 菊次郎は少年時代のアメリカ留学や青年時代のアメリカでの外務省勤務時代などを通じてアメリカ滞在の期間も長くアメリカの近代技術にも早くから触れていた。

 京都市の都市計画にはアメリカでの生活体験が役だったことは言うまでもない。

菊次郎が市長時代を過ごした聖護院付近の様子は京都の蹴上の琵琶湖疏水記念館に残る都市模型でおぼろげに把握できる。

 周囲を日本庭園に囲まれた建物と寺院が点在する。当時は別荘地としても人気があり、多くの高位高官が付近に別荘を求めた。

 周囲には南禅寺や東福寺も近く、明治になる新たに造られた平安神宮、京都美術館などもある。今では京都市有数の観光地である。

 維新直後から京都市は産業振興に力を入れていた。そのために水と電力の大幅な確保が必要であったのである。第一次琵琶湖疏水事業もそれに応えるために実施された。疏水用水路は淀川と京都、琵琶湖を結ぶ運河としての重要な役割を担っていた。蹴上はその要所にもあたり、船着き場や発電所が設置された。

 京都市は古くから水利事業に熱心であった。

 まず平安遷都に際し、京都北部の北山から材木切り出しのために堀川を掘削した。

 また江戸時代初期において角倉了以による高瀬川掘削も重要な事業である。

 今はポント町という歓楽街になっているが、この高瀬川沿いに大名屋敷が点在し、幕末には動乱の巣になり、龍馬や大村益次郎暗殺の地になるのである。明治期になると島津製作所なども高瀬川沿いに発祥の地を求めている。


 京都での菊次郎の一家の生活が安定したの年が明けて、春を迎えようとする頃であった。

 そんなある日、菊次郎は妻の久子から、妹の菊子が夫の誠二郎と別れ、京都で菊次郎一家と生活をしたい望んでいることを聞かされた。

「家事手伝など何でもします」言っています。

 と菊子の言葉を久子は代弁したのである。

 二人は鹿児島でも仲が良く、久子は菊子の苦労を知っていた。久子は申し出を伝えながら夫に伝えながら思わず、目頭を押さえていた。

 ただ久子も菊子の心の底までは読み切れていなかった。彼女は、何より京都に行きたかった。それは島で育った頃から母から聞かされていて都と自分たち先祖の関係であり、やがて成長して耳にする父の西郷が活躍する都であったのである。だから兄の菊次郎が京都の市長に就任することが決まった時に誰よりも歓んだの菊子であった。

 妻から聞く妹の希望に接しても菊次郎は表情を変えない。

 妻の久子には凡庸と聞き流しているように見えた。

 ただ、それでいて引きこまれそうな雰囲気なのである。

 西郷家に縁のある男性が共通して兼ね備える特質である。今、大陸でロシアとの戦いで指揮をする大山巌も、そうである。菊次郎は物腰や話し方、態度、考え方、すべてにわたり、隆盛に似ていると言われていた。

 菊次郎は答えに戸惑った。

 誠二郎と妹菊子の不仲は菊次郎も気付いていたが、離別を許す前に、できれば妹菊子の夫である誠二郎の兄の大山巌に一言、断りを入れたいと思ったのである。当の大山巌は日露戦争の真っ最中で、野戦の指揮官として日本の将来をかけた戦の真っ最中であり、家族間の些細なことで連絡を出来るはずはなかった。

 久子は主人の気がかりに気付いた。

「義理の姉の捨松さんには、菊子姉さんから了解を頂いているようです」

 菊次郎は頷いて、

「おまんさが、それでよかなら、それでよか」と応えた。

 菊次郎は家庭で久子と話す時は鹿児島の方言を使った。

 久子は肩の荷が下りた。

「明日にでも菊子さに連絡を差し上げます」


 一週間後に菊子が次男、次女を連れて京都にやって来た。長男、長女は鹿児島の誠二郎の元に残しての離別であった。

 すでに桜が満開の時期で京都の街は華や時期であった。大陸での陸戦の成果は京市民を震わせ、興奮させていた。連日のように提灯行列が街を練り歩いていた。菊次郎も、後は東郷平八郎の指揮する連合艦隊の勝利を祈るだけであった。

 菊次郎の戦争体験は父に従っての西南戦争である。彼は、その戦場で右足を失ったのである。それ以来、軍人とは縁のない生活を送っていたが、実は台湾勤務を命ぜられた時には陸軍の大本営所属となり、任地に赴いている。その時にはるかに年長者で、今は大陸の戦場で活躍をする乃木や児玉の知己を得ている。

 その当時、菊次郎が東京に通う目的は日ロ戦争の行方を知るためである。伯父従道はすでに二年前に一九〇二年に死没していたが、世話になるのは従道の家であった。

 伯父従道が死没前に海軍の後事を後を託したのが山本権兵衛であり、権兵衛が連合艦隊を託したのが、東郷平八郎である。

 大陸での陸戦を指揮する大山巌も、父の西郷とは近親者という以上に親しく、菊次郎は台湾を勤務を経て乃木や児玉とも知己を得ていた。

 この人脈を活用することで、戦場の様子はは把握できていた。もちろん乏しい国力で戦を続けることの限界も承知していた。

 菊子が京都にやって来た春頃には、戦の終わりが近いことも承知していていた。


 菊次郎たち、当時の日本人が、どのような国際関係、あるいは国際感覚を擁して生きていたか概略を説明する必要があろう。

 特に日露戦争勃発までの経緯である。


一八九五年の日清戦争終了後の下関講和条約に戦争の原因があったと言ってよい。その翌年にロシア、ドイツ、フランスの三カ国は日本が条約で旅順を得たことに異議を申し立て清国に返還するように強要したのである。日本は圧力に屈服するしかなかった。ところが、その旅順半島を日本に代わりロシアが租借し、万里の長城以北の満州に勢力圏を拡大し、鉄道を引き、旅順港を見下ろす周囲の高地に永久基地を構築し始めたのである。

 もちろん極東進出の基地にすることが目的である。

 日本は臥薪嘗胆で見守るしかなかった。

 日清戦争の勝利以降、日本よりに外交を進めようとしてきた朝鮮国内でも、日本の軍事的、政治的権威が失墜し、閔妃など親ロシア派が台頭してきた。

 ロシアと交渉に当たった清国の総理大臣李鴻章たちの懐には多額の賄賂が入ったと言われている。

 当時、東アジアの大国である清国は光緒帝の治世であったが、李鴻章配下の袁世凱の裏切りで西太后以下の保守派のクーデターで、光緒帝は捉えられ、彼の元で近代化を進めていた変法派と呼ばれる康有為や梁啓超らは日本に亡命をし、生きながらえることになるのである。

 ところが一九〇〇年に山東省に台頭した義和団と言う奇妙な団体が中心になり、扶清滅洋と言う、清国を助け外国勢力を排除しようと言うスローガンを掲げ北京に向かい、移動し始めるのである。

 光緒帝を幽閉し、彼に代わり国内の実権を握る西大后は、義和団の行動を歓迎した。そして義和団の主張に乗じて西欧列国に宣戦布告をしてしまうのである。

 義和団事件、あるいは北清事変と呼ばれたいる。

 慌てた外国居留民は紫禁城東南にある東交民巷という地域にある公使館区域に逃げ込んだ。しかし各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても五百名に足りない。

 清国軍は公使館区域に連日のように砲撃を繰り返した。しかし東交民巷という区域内の損害はまったくなかった。理由は西大后が宣戦布告したにも関わらず清国軍は本気に西欧列国と戦争をする気がなかったのである。

 清国は出来れば、これら居留民を活かし、人質にし交渉を有利に進めようとした。

 清国軍は中の護衛兵と打ち合わせをし、空砲を撃ち続けたのであるが、西欧列国は兵を揃え、北京の居留民を救うために北京に軍を進めるしかなかったのである。

 約二か月間の籠城戦であったが、その指揮を執ったのは日本陸軍の柴五郎と言う軍人であった。彼は英語、フランス語、中国語に精通し、狭い公使館区域に閉じ込められた護衛兵の意思疎通などを通じて日本人の地位を高めたのである。

 この騒動で日本人の地位を高めるために貢献した軍人がもう一人存在する。福島安正と言う人物である。彼は義和団事件では義和団鎮圧のために臨時派遣隊司令官に就任し、西欧列国で構成する北清連合軍の総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語を駆使して調停役として活躍したのである。この戦役での二人の活躍が英国人の称賛を受け、一九〇二年の日英同盟の締結に結びつくのである。


 この義和団事件が終わると、各国は北京議定書に基づき不要な兵を清国から撤退をさせたが、ロシアは満州から兵を引こうとせず、朝鮮半島への南下政策を続けようとしたのである。

 それに危機感を感じた日本は日英同盟を結び、ロシアに当たることになったのである。

 そして一九〇四年二月八日に日露戦争の開戦となったのである。

 しかし大国ロシアに完勝できる見込みはなく、早期決戦、戦場での優勢を獲得し、アメリカの仲介を頼り和平交渉を望むしかないと感じていた。政府は、すでに開戦前からこのシナリオで、用意周到にも、当時のアメリカ大統領ルーズベルトと個人的な親睦のある金子堅太郎を特使としてワシントンに送り込んでいた。

 菊子は次男、次女を京都の学校に入れた。

 兄一家の家事手伝いと言っても、ほとんどやることはなかった。いつの時代でも、女たちにとって一番、世話のかかるのは亭主で世話である。その亭主は、ほとんど東京出張で家を留守にすることが多かった。

 自然、久子と菊子には時間ができ、周囲に点在するお寺を見て歩く機会も増えた。

 特に菊子の熱心さは久子の驚きであった。

 久子の目には菊子が何物かに取り憑かれたようにさえ映った。

 気になったので久子は主人の菊次郎の打ち明けた。

「まるで魔物にでも取りつかれたような変わりようです」と久子は、ポツンと漏らして、慌てて口を噤んだ。


 菊次郎も菊子が普通ではない六感の持ち主であることは菊次郎も感じていた。

 最初に驚いたのは西南戦争出陣の時である。

 父の隆盛を担いだ菊次郎たち薩摩軍は、二月十五日の大雪の中を鹿児島から出発した。

 大勢の人々が勇ましい晴れ姿を見ようと沿道を埋め尽くしていたが、送る側も送られる側も期待で表情は顔は晴々と輝いているように見えたが。菊子だけは違っていた。

 妹の菊子が鹿児島の本家に引き取られたのは、西南戦争の前年の明治九年、十四才で西郷家に引き取られ、言葉にも苦労していた。

 菊次郎は、その時は心細さが、彼女に狂気に走らせるのだろうと思った。なにしろ便りする父とは一年もともに暮らしていないのである。

 一月末頃に鹿児島の弾薬を大阪に移す作業を政府が始めたと言う頃から、不安気に父と兄の顔を見ていた。

 出陣の日は朝から泣いていた。

 隆盛が戦に行くのではないと、言い聞かせても聞き分けなかった。

 菊次郎は沿道の人ごみの中に義理の母のイトと一緒に菊子の姿を見たのだが、やはり泣いていた。

 もちろん、戦を覚悟し、出かける者を涙で見送る姿は感心できるものではない。

 隆盛も、隆盛に従う菊次郎も無表情でイトや菊子のそばを通り過ぎた。

 西南戦争は隆盛が率いる薩摩軍の負け戦であったが、緒戦は優勢であった。

 熊本城を包囲し、政府軍を苦しめた。

 義母のイトや周囲の者は勝利を喜んだ。だが菊子だけは来る日も来る日も泣き続けていた。

 そんな日に、朝から床に伏せる日があった。

 義母のイトが言うには、丁度、菊次郎が右足に被弾をした日に重なったと言う。

 父の隆盛が切腹する明治十年九月二十四日には、口に言い表せない激しい動揺ぶりだったと言う。

 菊子は、その日を境に変わったのである。

 口は固く閉ざし、不要なことは言わなくなった。やがて十三歳年上の誠二郎に嫁いだ後も変わらなかった。

 家族に変事が起きる前には、その後も不思議な行動をし、周囲を驚かせた。

 西南戦争が終わり、五年経過し、西郷家も落ち着きを取り戻したように思える明治一五年頃だったが、西郷従道のただ一人の息子、従理がワシントンで、わずか十一歳でこの世を去ると言う悲しい出来事が起きたが、その直前にも泣き伏せていたと言う。当時、菊次郎は東京の従道邸に世話になっていた。

 菊次郎も鹿児島で静養している時に、ふとしたきっかけで菊子の不思議な力を感じたことがあった。

 それは天気であったり、急な来訪者を予言するような些細な出来事であった。

 決して歓迎をされる能力ではない。

 周囲に不気味に女性と言う印象を与えたようである。

 彼女の情熱に鬼気迫るものを感じた菊次郎の妻は案じ、東京から帰京した菊次郎に話したのである。

 菊次郎は妹が何かを探していると感じた。

 問い質しても答えまいと感じた。

 問い質しても菊子自身にも、まだ見えていないのかも知れないと思った。

 菊次郎の思ったとおりであった。

 まだ菊子本人にも見えていなかった。

 菊子は過去の記憶を辿り、見えぬ自分と対話をしていた。

記憶の片隅に眠る古代の神々が蘇る前兆であった。菊子も思いもしなかった。

 母のアイカナは菊子が、いつか島を去る日が来ることを予感しているように先祖の歴史を語り続けた。

 この島の祖先は平家の落人だと主張する者もいる。片方では源氏の武将、源為朝が祖先だと言う者もいる。

 いずれにしろ都人の血が色濃く流れている。

 その色濃く流れている血を受け継ぐのが、自分たち一族である。貧富の差はあっても、血の濃さは変わらぬ。

 真実は不明である。

 菊子の記憶には母の言葉が刷り込まれていた。

 菊子は自らは源氏の子孫であろうとも平家の子孫であろうとも、どうでもよかった。

 いずれにしろ天皇家につながるのである。

 日本人の御先祖は、すべて天皇家に派生するとも考えられる。

 人類の先祖がアフリカの一古代女性につながると言う発想と似ている。

 母アイカナとの美しい思い出の場所があった。

 龍郷という村は湾の奥まったところにあるが、その湾を形成する岬の突端は今井崎という岬である。

 岬の突端は権現山という険しい山で東シナ海に突き出していた。山頂には古い祠が残っていた。

 平家の落人伝説に関係し、源氏との争いに敗れた平家一族の行盛が、北から追手を警戒するために砦を造らせたと言うのである。  それが今井権現の起源である。

 菊子は島を離れる十一歳から十二歳にかけて、何度ともなく、母のアイカナに手を引かれ、その祠に参った。

 冬の日が多かった。

 ハブは冬眠中であり、その時期なら安全だと母は思っていたようである。それでも母は藪を竹の棒で叩きながら、菊子の先を歩いた。

 晴れていた風もなく周囲がよく見渡せた。

 細い山道を歩き、やがて馬の背のような稜線に至る東シナ海の荒波が砕けるサンゴ礁の海が見えた。あの海の色は生涯、忘れない。

 三角の岩があり、それから南の方にサンゴが伸び、波が砕けている。

 山の麓にはススキで屋根を覆う小さな家が点在していた。

 薩摩藩の命令で新しい集落であると聞いた。 薩摩藩は平坦な土地を探し出すと、それが猫の額ほどの土地でも入植を強制し、開墾させた。もちろん砂糖の原料となるサトウキビの増産のためである。

 左側の麓に目を転じると、遠い対岸の岬がうす青く見え、白い砂浜が、青い海にあざやかに映えていた。

 椎の木に囲まれた急な石段を登り、今井崎の祠にお参りをした。

 母と過ごした楽しく、甘酸っぱい切ない記憶として菊子の胸に残り続けていた。

 源氏一族に対するお参りでも、平家一族に対するお参りでもなかった。古代に都を追われた都人に対するお参りであった。

 もともと龍氏が源氏を名乗るのは、当時に支配者である徳川家に対する配慮にすぎない。薩摩の島津家も源氏の末裔だと名乗っていたはずである。支配者は源氏でなければいけないのである。それは島の支配層にもつながるのであるあ。

 末端とも言えでも、支配者の龍家が平家の末裔であっては困るのである。

 天皇を守るために、平安期に源氏と平家と言う二つの武門が発生した。源氏は主に京都の北に位置する関東や東北地方に勢力圏を広げ、平家は京都の南の中国、九州に勢力圏を広げた。この二つの武門が互いに後世まで争うことになったという図式である。

 江戸時代にもこの系列は生きていて、天皇家を守るのは源氏である徳川家であると言うのである。徳川家は源氏の子孫だと言うが、本当のことは不明であろう。

ユタを中心とする古代から奄美大島の伝わる信仰は源氏や平家の落人伝説とは、別の存在であった。権現山の頂きにある祠は天下の争いごととは異なる場所であり、それ平家の一族が監視所を設ける以前から、神からの預言を賜る聖地として崇められていたようである。

 その神は、むしろ天照大神に近い存在であり、古代神話につながっているように思う。

 とにかく神様である。

 菊子は、その神の元は京の都にあると信じていた。それは父である隆盛の行動を母から聞くことで増幅された。

 父は天皇陛下と国をお守りするために京都や江戸で活躍していた。また維新の前後には、かすかに役人から聞いた話を母は菊子に伝えていた。

 維新や成功したことや、神様である天皇陛下を救うために隆盛が重要な役割を果たしたことである。

 京都に上った彼女は古代の先祖の地に帰ったのである。

 島を去ってからの彼女の人生は幸福ではなかった。差別に苦しんだ。明治維新で江戸時代の身分制度が否定された後も奄美大島は薩摩藩の士農工商の身分制度の下部に位置するものであった。誠之助は、ことごとく大山巌と言う明治の元勲を兄に持つ身であるが、ことごとく事業に失敗するのは、菊子のせいだと責めているように菊子には思えた。

 菊子は菊次郎と違い十二歳の頃まで奄美の母の元で暮らしていた。丁度、年齢的にも初潮を迎え女になる頃である。

 菊次郎が物心が着く前に、鹿児島の西郷家に引き取られ、隆盛の正妻であるイトの元で鹿児島で育てられたが、菊子は島での暮らしが長すぎたようである。鹿児島の暮らしに馴染めなかった。歳月が経っても島で身に付けた記憶や習慣、価値観が離れなかった。

 菊次郎は数度、故郷の島に帰り、母に会う機会があったが、女である菊子には許されなかったようである。菊子が慕い続けた母も二年前の明治三十五年(1902)に亡くなっている。ユタの血筋を引いていても、その能力を開花させるためには苦しまねばならない。例えとして相応しくないが、釈迦やキリストが救い主として誕生するまでに、断食を行い、荒野をさまようという苦難の道を歩むのである。

 菊子は四十を超えている。荒行をする訳ではない。ただ心の中で葛藤と戦っていたのである。日露戦争の戦場のニュースで街がどよめくたびに狭い京都の盆地に多くの死者の霊が集まっているように感じたのである。亡者の霊が夢に現れたりするのである。だが恐ろしいとは感じなかった。哀れであり、切なさを感じるのである。


 久子は押し黙った菊次郎に話しかけた。

「鹿児島のいる頃の菊子さんとは別人のようです」と

 菊次郎は上の空で妻の言葉を聞いていた。

「慣れたか」と菊次郎は自分の家族とも、妹や連れてきた子どもたちのこととも、どちらと言えない家族ことについて聞いた。

「子どもさんは、学校に通い始めもした。うちの子とも仲良く遊んでくもす。かえって助かっています」と久子は答えるしかなかった。

 京都での新生活を始めるあたり、菊次郎の妻は友達が出来るかどうか不安を感じていたのである。

 菊子のことを、久子は話し足りなかった。

「どうした」と菊次郎は妻の顔を見て尋ねた。

「菊子さんは変わりもした」

 菊次郎の妻と菊子は鹿児島で、長く一緒に過ごしていた。だから互いに知り尽くしていたのである。

 菊次郎は聞き耳を立てた。

 妻の言葉に不安を感じたのである。

「どのように変わった」

「よう分かりもさん」と頭を傾げた。

 長い付き合いがあるとは言え、菊子の心の中までは見通すことはできない。

 菊子の夫の誠之助の愚痴も人の言葉を通じて聞いていた。

 愚鈍という印象である。ところが、最近では娘のように活発になった。

「良いことではないか」

「そうですね」と久子は答えたが、納得できないと言う様に首を傾げた。

「子どもたちは」

「みんな元気です」

「菊子の子ども元気か」

「みんな元気です。鹿児島にいる時より明るくなりもした。京都に上って良かったかも知れません」

「良かった、良かった」と菊次郎は呟きながら目は笑っていなかった。

「鹿児島の誠之助さんは大丈夫でしょうか」と久子は案じた。

「何とか、なろう」と菊次郎は答えた。

 菊次郎は西南戦争後、まだ年少者であり、重症の怪我を負っていたことで罪を許され解放されたが、十二歳ほど年上の大山巌の弟である誠之助は、三年間の牢獄生活を送った。この牢獄生活で、心に傷を受け、今も立ち直ることができない。おまけに事業に失敗し、多額の借金を背負い、大山巌の実弟と立場があるが、世間の信用を失っていた。菊子は、そのような夫の姿を自分のせいにすることがあった。とりあえず鹿児島を離れた彼女は、この心の苦しみからは解放されたようである。

 丁度、日露戦争の勝敗を決する日本海戦が行われる五月二十七日前の頃の話であった。

 菊次郎はこの戦争が大きな山場を迎えたことを肌で感じていた。

 京都市長として行動する時期が近付きつつあることを分析していた。

  

 菊次郎は二週間ほど京都で公務をこなし、ふたたび東京に戻った。

 まだ戦争の最中で、菊次郎の話を十分に聞いてくれる者は少なかったが、戦争を指揮する大本営は広島に移され、天皇陛下みずからが、広島に陣取っている。そのせいで空虚な忙しさも漂っているように感じたが、ニュースは京都とは比較にならないほど、街にあふれていた。それに触れるだけでも価値があるように思えた。

 菊次郎にとってこの戦争の行方を把握することが最重要課題になっていた。

 当時の首相は桂太郎という長州出身の人物であったが、ロシアとの開戦を決意すると同時に、ハーバード留学時代に当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと面識のあった金子賢太郎をアメリカに派遣し、ルーズベルト大統領に常に接触させ、同時に終戦工作を担任させていた。そのようなニュースを遂次、耳に入れていたのである。

 またロシアのバルチック艦隊の動向もイギリスからの通報で把握できていることも内密に知っていた。

 日本としては万全の態勢を敷いていると菊次郎は感じていた。

 戦争の勝敗次第で京都の事業が成功するかどうかを左右することになる。しかし、もし勝利してもロシアから多くの賠償金を得ることはできない。

 日本政府には金はない。外債を募るしかないと判断をしていた。

 菊子は落ち着いていた。

 西南戦争の時の違い、悲しそうな表情をすることがあっても取り乱すことはなかった。

「多くの人が犠牲になります。でも日本はギリギリ勝てます」

 事情を知るはずの菊子が漏らしたと久子は菊次郎に打ち明けた。

 菊子の予言じみた言葉は、不思議と菊次郎を安堵させた。

 ロシアと日本の国力差や戦力差は歴然としていた。

 陸戦も海戦も緒戦は日本軍はロシア軍に勝っていた。だが東アジアに展開していたロシア軍を壊滅させるような勝利ではなかった。

 シベリア鉄道で遠いヨーロッパから続々とロシアは大量の兵員や武器弾薬を投入してくれば日本は敗れるはずである。

 バルチック艦隊が日本海に到着する時が勝敗の鍵になるはずである。

 菊次郎の耳には、日英同盟を締結したばかりのイギリスが各地の植民地に寄港しようとするバルチック艦隊の動きを日本に通報してきていることや、バルチック艦隊の寄港を拒否していることが耳に入っていた。

 日本近海に到着する頃には、燃料の石炭も底を尽き、船底にはカキなどが付着し、船の速度も遅くなっているに違いない。

 イギリスの妨害により、船の整備も思うに任せない状況での航海であるようだった。

 ロシア海軍にとって海戦を行うには、まったく不利な状況である。

 日本海海戦で圧倒的な勝利を日本海軍が収めると菊次郎の仕事も具体的になっていった。

 日露の講和条約が十月に締結される頃には、すでに菊次郎が京都市長に就任し、丁度、一年が経過していった。

 世間はロシアとの講和条約内容に不満の声が渦巻いていたが、これは菊次郎にとって無関係ではなかった。

 京都一般市民の中からもロシアとの戦争に勝ち、ロシアから多額の賠償金を獲得すれば、薩摩出身で西郷隆盛の長男である西郷市長が工事のための予算を獲得してくれると期待する声が上がっていたのである。

 東京ではすでに賠償金が獲得できないことを知った国民が騒ぎ始めていた。

 菊次郎も対策を急ぐ必要を感じた。

 国からの大きな支援は当てにならない。

 債権を発行し、外国から資金を調達するしかない。

 これが、その頃から思い描いた資金調達の方法である。

 もちろん債務であるから、将来は返済の必要がある。それでも計画を実行する覚悟があるかである。

 議会対策より市民対策が重要であると考えたようである。議員は日露の国力差について知識もあり、事情を納得をしてくれるはずだと自信があった。最終的に議会の承認が必要であるが、直に非公式に市民の意思を確認する必要があると直感したのである。

 明治維新後、三十年を経ていたが、当時でも日本の地方自治は未完成であった。多くは国が指定した県知事、京都の場合は京都府知事が市長を兼ねて市を束ねていた。

 それでも京都では市議会は存在し、市の意思を決めていた。ただ市議会とは言え、もちろん一般の庶民には選挙権はなく、町衆と言う有力者の中から選ばれていた。

 例えば菊次郎が市長に就任する以前に京都市は明治二十三年に十年かかりで第一次琵琶湖疏水事業と大事業を完成させ、水道整備、運河整備、京都市への電力供給に成功しているのであるが、それを実行せしめたのは京都の経済界を代表する町衆であり、有力者の中から選ばれた市会議員の合議に基づくものであった。

 これら事業は近代産業育成に重要な役割を担ったことはいうまでもない。

 京都市は、今、その規模拡大と市内の道路整備、国内初の電車の導入を図っているのである。

 そのための西郷菊次郎に市長就任を要請したのである。

 今回は短い東京滞在であった。

 菊次郎は、確証をもって京都に帰って来た。 彼は町衆の代表者と話をする必要があると感じた。

 議員ではなく、すでに引退した実力者を紹介して頂くことを前任市長の内貴市長に頼んでいたのである。

 菊次郎の頼みに内貴市長は快く応じてくれた。

 菊次郎は京都で活躍する近代産業の担い手とは交際の輪を広げていた。高瀬川沿いに本社をおく、社名に島津という名前を使用することを許可された島津産業などとは交誼を深めていた。


 菊次郎の行動が菊子の迷いから目覚めさせ、菊子の能力を開花させ、預言者、あるいは黄泉の国の亡者たちとの通話者として成長させる切っ掛けになった。

 ポント街に住む町衆の代表者を宿舎に招き、菊次郎が話を聞いた時である。

 その男は七十近い白髪で銀髪の好々爺であったが、孫を失うという不幸な出来事に見舞われていた。玄関に迎えに出た菊子は、すぐに彼の心中を読み取った。表情とは不釣り合いなひどく不幸な印象であった。好奇心を感じた。応接室の隣りの部屋で菊次郎との会話に聞き耳を立てたのである。彼の訪問に慶兆を感じたのである。




 

「うちみたいな客商売は、多少、世の中が乱れた方がもうかります。天皇や周囲の公家はんが京都を去った後はあきまえん。今、京都で景気が良いのはお寺はんだけや」。

菊次郎の挨拶に対する答えであった。

 徳次郎という七十歳ちかい男性であった。

 菊次郎は市長と言う立場を離れて京都に長く住む人の心情を汲み取ることも必要だと感じていた。

 応接室に招かれた徳次郎と言う老爺の飾らぬ発言であった。

 三十年ほど前には菊次郎の父の隆盛の姿も見かけたことがあると言った。

 菊次郎も挨拶の延長ぐらいの気持ちで徳次郎の言葉で最近の生活についての質問に対する答えである。

 もちろん菊次郎も割り引いて聞いていた。 同時に、お寺はんと言う存在が京都の街の特色であることは見抜いた。無意識に京都の人が使う言葉かも知れないが、よそ者の菊次郎には特別な意味があった。

「本当に京都はお寺が多いですね。妹も菊子もひどく喜んでいます」

「菊子さんとは先の玄関で会ったお方ですか」

「そうです。何か」

 徳次郎は、頭を傾げて考えていた。しかし言葉が見つからないようであった。 

「恐れ入りやす。でもお寺さんの本音は明治維新で陛下と一緒に東京にお引っ越したかったと違いますやろか。でも建物をお持ちやさかい、そうはいきますまい。やはり寂れるのを恐れておりますな」

「寺が天皇陛下と一緒に東京に引っ越しを。それに寂れるのを恐れるとは」と菊次郎は思わず聞き返した。

 徳次郎は菊次郎の反応に驚いた。

「天皇家とお寺さんは切っても切れぬ縁がありますさかい。お寺と天皇陛下の、お二方が協力して死後の世界と現世が混乱せぬように治めておりますよって。天皇陛下とお寺はんが消えてしまえば、冥界と現世の境が、のうなってしまいます」

 菊次郎は徳次郎が真剣に信じているのか疑い、彼の顔を見つめた。

 からかわれているような気さえした。

 しかし徳次郎のは真顔であった。

「庶民はお寺さんに戒名を頂き黄泉の国に旅立ちます。それに加えて偉いお方は天皇さんから叙位を頂き、あの世に旅立ちます。天皇さんのお子様や血筋の者がお寺のお偉い立場にお付になるのも、そのせいでしょう。黄泉の国に結界を設け、現世を守るのも天皇さんお役割とちがいますやろか」

 と間をおいて応えた。

 菊次郎も初めて聞く死生観である。

 驚いて、思わず、うなり声を上げていた。

 アメリカ留学や公使館勤務も体験した。

 台湾では県知事を体験した。

 国内では鹿児島と東京で人々と接してきた。

 今までに初めて耳にする、死生観であった。

 隣の部屋で息をひそめる菊子も驚いた。

 これこそ彼女が求めていた死生観だった。

「最近になって東京に靖国神社なるものが出来ましたやろ。あれは天皇陛下が京都におられたら京都にできるはずのものや。天皇陛下や、この国を護るために尊い命を犠牲にされた方の魂を慰め、黄泉の国から蘇り、ここの世を乱さぬための結界ではありまへんやろか。その結界を守る力も、天皇陛下のあるさかい、東京に造ったと違いますか」

 菊次郎にとって天皇陛下は支配者と言う立場であったが、京都に住む者にとって神様という意味合いが強いように感じた。

 とは言え、京都に住む者や、古代人が完全に神秘的な力を信じているとは思えない。

 風水でいう東に青龍として鴨川、西に白虎として山陰道、南に朱雀として巨椋池、北に玄武として船岡山などの配置は地形の力を借りて敵の進入を防ぐ軍事的な妥当性を兼ね備えていると菊次郎は考えていたのである。

 戦略的な妥当性を神仏の権威を借りることで強調するとともに敵を抽象化し周囲に実力者の感情を害さぬ目的もあったはずである。

「実は困った話があるのです」と菊次郎が切り出した。

「西郷さんの息子が困っている」とは。

 徳次郎は身を乗り出した。

 やはり市民にとって菊次郎は、市長という呼び名より、西郷隆盛の息子という呼び名の方が市民の間で通じているようである。

「事業に必要な金の件だ」と菊次郎は打ち明けた。

「金です。国には金がない」

「日露戦争に勝ってガッポリ、ロシアから賠償金を頂けますやろ」

「そうでもないようだ」

 と手を顔の前で動かし、政府の内情を菊次郎は打ち明けた。

「やはり、そうどすか」

 徳次郎も、すでの内心で不安を感じていたようであった。

 京都の町衆全体が感じていた不安でもあった。大国ロシアとの戦は勝つだけで精いっぱいだと思っていたのである。

 領土の大きさを見ても分かる。兵の多さを見ても分かる。

「大山さんも東郷さんも、よう頑張りおった」と菊次郎の先輩を褒めた。

「それでは事業は取りやめと言うことですか」

「そうでもない。債権を発行することは内々に政府の要人と話を付けることはできもす」

「どこから借金をするのどすか」

 すでに京都の商人はあてにはできないことは菊次郎も承知していた。

「外国から借金をすることになりもす」

「京都市が直接、外国から借金をするのですか。そんなことが出来ますか」と徳次郎は驚いた。

 徳次郎も商売人の端くれであるが、江戸時代は各藩が商人から金を借りた。外国に借りたと言う話は聞いたことはない。それこそ国を危うくしかねないことである。

「政府は許可をする雰囲気です」

「もし京都市が返せねば、政府が責任を持つと言うことになりますやろうか」と徳次郎は考えあぐねた。

 西郷は頷いた。

「今回の戦争の勝利で日本は西欧列国と肩を並べることもでき、条約改正も出来ると見込んでいる様子でした」

 日露戦争勝利で日本が得ることが出来た大きな成果は、この条約改正である。徳川幕府がアメリカと日米通商条約を締結して、約五十年間、日本はこの不平等条約に苦しんできたのである。

「京都市民が納得した上でと言う条件付きだったが」と菊次郎は付け加えた。

「政府は京都市民を信用し、京都市が外国から借金してもよい」と

 徳次郎は腕組をして繰り返した。

「西郷さんの息子さんだから、政府も約束したのでしょうな」と徳次郎も納得した。


「問題は、議会や町衆が納得するどうかです」

 菊次郎も腕組をし呟いた。

 応接室の隣の部屋で菊子は聞き耳を立てていた。

「町衆全員の気持ちは分かりませんな。でも、わてはやむを得ないと納得します」

 その時、久子がお茶を運こび入れるために、部屋に入って来た。応接室に入るためには、菊子が聞き耳を立てている部屋を通過するしかなかった。

 菊子の姿に気付いて驚いた。

 久子は足を止めたが、菊子の唇に小指を立てる合図で、気付かぬふりをして応接室にお茶を運ぼうとした。いつも島の出身ということで肩身の狭い思いをしがちな菊子を久子は支え続けてきたのである。

 久子は義理の姉である菊子を慕っていると言っても過言ではない。

 自分では真似できないと思っていたのである。

 それでも鹿児島では菊子の消極的な態度にイライラすることがあった。京都に来て以来、生き生きとしていることに喜びを感じていた。

 男性の話を盗み聞きするところを見咎められるなど、男尊女卑の鹿児島では大変な勇気が必要なことである。

 隣の部屋の菊次郎が人の気配を感じて声をかけた。

「菊子か」

 久子は肩をすぼめた。

 玄関で客を迎えたのが妹の菊子であることに思い出したのである。そして菊子がお茶を運んで来るものと思い込んでいたのである。

 名前を呼ばれて菊子は慌てて、久子から茶盆を奪い取り代わりに応接室には運んでしまったのである。

 隣室の様子は菊次郎の知ることになった。

 徳次郎は笑って頷いていた。

 彼は自分の心にわだかまっていた気持ちを素直に気付いたのである。

 菊子には不思議な力があると直感したのである。

 お茶を出し部屋を出ようとすると、菊次郎は菊子に話に加われと促した。

 鹿児島では男同市の話に女が加わるなどありえない。以前の菊子なら固辞して部屋を出るはずだった。だが菊子は徳次郎の顔色を伺った。そして瞬時に目の前の老爺が自分に期待することがあることを悟ったのである。

 徳次郎も菊次郎も男同志二人きりの話で窮屈感を覚えていた。

「西郷さんの娘さんですか」と、大歓迎の様子であった。

 このような会話に男として好奇心が漂うはずであるが、徳次郎の目には、すでにそのような好奇心さえなかった。

「よく、お寺を参りをされているとか。それに大山巌さんの弟に嫁がれたとか」

 菊子は自分の行動を言われて驚いた。

「この時期が京都の一番、よい時期かも知れませんな」

 徳次郎は菊子の動揺に構わなかった。

「桜も奇麗で」と続けた。

「これで戦争に勝てれば、言うことなしですな」と言い、徳次郎は自分の無神経さに気付いたように表情を曇らせた。

「陸戦の方は巌さんたちの頑張りで何とか押しているようですが」と言うが、菊子は涙ぐんでいた。そして何ものかが乗り移ったように口走ってしまったのである。

「お孫さんの行方が知れぬ大変な時期に、来ていただきありがとうございます」と徳次郎に挨拶してしまったのである。

 徳次郎が目を丸くした。

「どこでそのお話を」

 菊次郎も耳にしていない話であった。

 よい話ではない。

 菊子は我に返った。

「昨年の十二月頃から行方不明」と応えた。

 菊次郎は「旅順城の攻撃ですか」と聞くと、年老いた徳次郎は頷いた。

「お国のためとは言え」と菊次郎が同情した。

 徳次郎は大きくため息を吐いて、肩を落とした。

「右脚は、やはり擬足ですか」と徳次郎はお茶をすすりながら、話題を変えよとした。

「ええ、二十年前の西南戦争で」と市長は答えた。

「不自由なことですな。それにお父さんは痛ましい目に遭いましたね」と心から同情を示した。

「二十年前の話です。最近では日本帝国憲法の発布で名誉は回復することができました」


「でもな菊次郎はん、京都に人は迷信深いですよ」と徳次郎は膝を寄せた。

「西郷さんが、まだ生きていると信じていはる人もおります。十年前の話になりますやろうか。隣の大津で津田という巡査がロシアの皇太子を襲ったという事件がありましたやろ。あの輩は西郷さんがロシアで生きていて、西南戦争の仕返しにロシアから帰ってくると、ずうと信じていたそうどす。おそらく生きておれば、今も信じておりますやろ。まあ害のないとことどでは、西郷さんが星に戻り寄ったという迷信も西南戦争の頃には、この京都でも大流行しました。軍服姿の西郷が星にいるのが見えたとか」

 西南戦争当時に火星が地球に大接近し、賊軍であったが、西郷隆盛を慕う庶民は、その星を西郷星と呼び、西郷の死を悼んだのである。

「京都市民は天皇陛下を東京に移した維新や、それを行った父を怨んでいるのでは」と菊次郎は聞いた。

 徳次郎は頭を傾け考えて応えた。

「怨まねばいけないでしょうな。でも不思議と西郷さんのことを怨んでいる人はいないようです。これは人徳というものでしょな」と、呑気に答えた。


 大津での事件とは、日露戦争から遡ること約十年前の一八九一年(明治二十四年)に日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライが大津市で警備の警察官津田三蔵に突然斬りつけられ負傷するという事件が起きたが、犯人の津田は西南戦争に官軍の一員として参加し、それで警察官としての職を得ていた。ところが当時、彼の周囲では西郷がロシアで生きており、ロシア帝国皇太子のニコライは彼の帰国準備を行うための日本訪問するのであるという噂がまことしやかに囁かれていたのである。もちろん奇妙な迷信をかたくなに信じるの津田巡査だけではなかった。ただ津田は行動し、ロシア皇太子に切りつけ、怪我を負わせたのである。

 現実には彼の訪問の目的はモスクワとウラジオストクを結ぶシベリア鉄道の起工式に参加するために海路、はるばるヨーロッパから旅して来たのである。

 一巡査が起こした、この暗殺事件が国内外で大きな波乱を巻き起こした。ロシアとの関係悪化、ロシアとの戦争まで危惧する者もいた。発布されたばかりの日本帝国憲法を無視してでも津田を極刑に処すべきだと、当時の内務大臣西郷従道も主張したが、司法は厳として従わず、暗殺未遂事件であるとし、津田を無期徒刑に処した。

 従道は事件の責任を取り、内務大臣を辞職したのである、


 帰り際に徳次郎は菊子の言葉を思い出した。

「待って下さい。菊子さんは行方不明」と徳次郎は叫んだ。

「ええ、確かに」

 菊次郎は玄関の土間を見つめていた。

「私も京都人どす。迷信深いのどす。孫は死んでおりません。孫は満州の片隅で生きています」と徳次郎は孫の死を認めず、切り返してきた。

 菊子も反省した。

「ええ私もそう思います。きっと御無事ですよ」と菊子は言い直した。

「菊子さんは孫が死んだと思いやった」

 菊子は慌てて、お寺参りの際に、葬儀の列に出会ったのかも知れません。その時、徳次郎さんをお見かけしたかも知れないと言い、その場を取り繕った。

 徳次郎は納得した。

「京都は魔京と呼ばれるぐらいに地獄に通ずる入り口や、鬼の伝説が仰山あります。京都の庶民を動かしてきたのは、迷信の類のものかも知れません。日本を動かしてきたのが天皇はんで、京都としたら、日本は、それらの伝説や迷信が動かしてきたと言えます」と徳次郎は言った。


 徳次郎が帰った後、菊次郎は妹の菊子に尋ねた。

 菊次郎も菊子の不思議な眼力を信ずるようになっていた。

 菊子は見えたのですと答えた。

 徳次郎さんのお孫はさんは、やはり戦死したのかと菊次郎は聞いた。

 菊子は頭を振った。

「それは分かりません。可哀相な徳次郎さんは、心の中でそう信じかけています。でも違うような気がします」と兄の質問に正直に答えた。

「お孫さんは生きている可能性があるのか」

 菊次郎の声は大きくなった。

 菊子はうなずいた。

 菊次郎もそれ以上のことは聞かなかった。 妹には不思議な力が授けられていることを実感した。

 菊子の頭には、母が魔よけとして大事に使っていた遺品の銀のカンザシが飾られていた。

 菊子は二年前に亡くなった母とは、明治九年に離別してしてから一度も会ったことははずである。菊次郎は明治二年で九歳で母と離別したが二度、島に帰ることができた。その時には母は乏しい身なりながら、いつも正装して、そのカンザシは唯一の華やかな飾りとして菊次郎を迎えてくれた。


 六月下旬頃のことである。

 徳次郎が、自分で菊次郎の住まいを訪ねて来た。

 あいにく菊次郎は東京出張中であった。

 玄関に出た出迎えたのは菊子であった。・

 梅雨の雨が続き、お寺参りも出来なくなる日が増えた。その日も雨で、菊子は部屋にこもっていた。

 その頃の菊子の様子を久子の言葉を借りて言うと、家事手伝いの合間は、一日中、部屋でぼんやりしていることも多くなったという。

 その日は、そんな様子であった。

 ただ明らかに来客を予想している様子であった。

 玄関で訪問者の声がするなり、菊子が扉を開けたので徳次郎が驚いた。

 用意していた言葉を、徳次郎は、あわてて早口で声にした。

「いつも菊子さんには驚かされます」と慌てて言い。「今日はな、菊子さんに用があって来ました。雨も降っている境に、きっと出かけておられへんやろうと思いましてな」と断った。

 徳次郎は背が縮んだような丸っこい老人である。高い玄関の土間で迎えた菊子を上目使いに見るような格好になった。背中で菊子と同じ年配の婦人が傘をたたんでいた

 菊子は主人不在の応接室に案内した。

 徳次郎は訪問を前から予測していたような菊子の応対ぶりに頭を傾げた。義理の娘を連れての訪問であったが菊子が彼女の同行さえ予想していたように見えたのである。

 応接室さえも、来客を予想していたように準備されているようにさえ徳治郎の目には見えた。

 月並みの挨拶を交わすのが無駄なように徳次郎は感じた。

「実はな。家に帰り、ずうと考えておりましたんや。孫のことです。そして四五日前に夢を見たのですわ。孫が枕もとに現れまして、もう一度、菊子さんを訪問しろと言うのです。それでも迷いましてな、それで息子の嫁に相談した訳ですわ。そしたら嫁が自分のついていくと言いだしたね」と連れの息子の嫁の方を見た。

 菊子は軽く、徳治郎が同伴した婦人に軽く会釈した。

「お初にお目にかかります。父からお話を聞くうちに、不思議な力をお持ちではないかと思いまして」と、縋るような眼で婦人は挨拶をした。

 菊子も自分に力があるのかどうか分からない。

 ただ徳治郎を最初に見掛けた時から、心に浮かぶことがあったのである。

 徳治郎の悲しい思いに違和感であった。

 それが現実に起きた事件と重なるのである。 すでに日本海海戦も終わり、大陸での大きな陸戦も終わっている。

 ところが菊子も心に、その戦場の風景が目に浮かぶのである。

 銃弾が飛び交い、軍馬がいななき、大砲がどよめく壮大な大陸での会戦である。

 どこの風景かは特定できない。

  鴨緑江の会戦、遼陽会戦、あるいは奉天の会戦かも知れない。

 その会戦の現場から捕虜になり、追い立てられる一人の幼い面影を残す青年の姿がはっきり見えるのある。

 菊子は婦人の顔を見た。

 その青年に似た面影がある。

「息子さんの写真をお持ちでないですか」

 婦人は和服の袖から、大切な写真を取り出した。

「出征する前の写真どす」 

 婦人から受け取った写真を見て、菊子も驚いた。

 戦場の風景に浮かぶ若い青年であることは間違いなかった。

「この話は誰にもしないで下さい。たまたま当たっているかも知れません。しかも幸運です」

 二人の顔が喜びで輝やいた。

「くれぐれも過分な期待はしないで下さい。決して他言をしないで下さい」と念を押した。

「実は徳次郎さんに会った翌日、本能寺に何気なく伺いました」と。

 菊子は町衆の多くが本能寺の法華経を信じ、菩提寺にしているなど知らなかった。

「そこで徳次郎さんの御先祖や、ゆかりにある墓を探し出したのです」

 その日、菊子は墓石に引き寄せられるように本能寺を訪れたのである。

「浩二郎さんに姿を現すように念じて見たのです。でも安太郎さんは現れませんでした」

 徳次郎は驚いた。

「菊子さん、私は孫の名前をあんたに教えた覚えがないのすが」

「孫さんの名前を、そう思いました」 

「浩二郎さんの魂は先祖伝来の墓に戻ってきていないのです」と。

「そうです。遺品は届きましたか」

「いいえ何も。ただ二〇三高地で戦死したという国からハガキが一枚」  

 そこでも菊子は頷いた。

「子孫を残すことなく両親やお年寄りより先に黄泉に来る者がいたら、黄泉の国のご先祖様は、嘆き悲しむものなのです。ところまったく、その悲しんでいる様子はないのです」

 徳治郎は頭を傾げた。

「国からの連絡ですから、葬式は盛大に上げたのですが」

「普通は、それで魂はお墓に戻るはずです」

「失礼とは思いながら、墓前で祈ったのです。すると、マツヤマに行けと言葉が浮かんだのです」

「マツヤマ」と、婦人が呟いた。

「多分、行けと言うお言葉でしたから土地の名前だと思います。マツヤマという土地に何か縁がおわりですか」

 二人とも思い当たることはないようだった。

「それにメドベージという言葉も思い浮かぶのです」と菊子は不思議そうに繰りかえした。

「一体、どのようなことでしょう」

 と三人は考えあぐねた。

 しばらくして謎を解いたの徳治郎であった。

「マツヤマとは四国の松山のことではではないでしょうか。ロシアの兵隊が多く収容されているという新聞で読んだことがあります」

「私も読んだことがあります。ロシアにも同じような施設があり、浩二郎がそこで無事に居てくれると言うお言葉では」と婦人が身を乗り出した。

「メドベージと言う収容所はロシアの収容所で、浩二郎がそこにいるのですか」

「菊次郎さんなら、調べることができませんしょうか」

 徳治郎は藁にも縋る思いで聞いた。


「兄なら捕虜収容所の名前ぐらいは、すぐに調べることが出来ると思います」

「ぜひ、頼んで貰えないだろうか」

 二人は机に頭をこするように頼んだ。

 もちろん菊子は二人の頼みを兄に伝えると約束した。

 兄の行動も不明でそれ以上のことが調査できるどうか不明だと念を押した。

 二人は戦争中のことであり、それ以上のことは望まないと約束した。

 菊子は、別れ際にも他言はしないように二人に念を押した。

 二人は約束を守ると言明した。

 アメリカのベルが発明した電話は、西南戦争の明治十年には日本にも紹介をされ、明治三五年頃は日本の家庭には普及をしている。

 京都市長の私邸にも例外ではない。

 菊子は菊次郎の久子に頼み兄に電話をした。

 そしてメドベージという村がロシアにあり、そこに収容所があるのか。できれば徳治郎の息子の安太郎という人物が収容されていないか知ることができないかと頼んだのである。

 さすがに安太郎の安否の確認はできないだろうと諦めていた。

 しかし驚くことに一週間に京都に帰って来た兄は徳治郎一家に朗報をもたらした。

 兄がアメリカのワシントンでの外務省書記生時代に培った友人を通じて赤十字に働きかけて得た情報であった。

 戦は外交の舞台へと移りつつあった。

 直に日露間のハガキのやり取りも自由になり、捕虜交換も可能になるだろうと言うことであった。


 七月中旬赤十字を通じて、浩二郎から便りが届いた。

 梅雨も上がり、真夏の暑い盛りであった。

 徳治郎と母親は、喜び市長宅の菊子を訪ねてお礼を言った。

 他言をしないようにと菊子は二人に念を押した。

 徳治郎は、人のお役に立つ能力ですのに、勿体ないと菊子に言った。

 菊子は、今回は良い結果に終わりましたが、いつも、そうとは限らないと顔を曇らせて、徳治郎親子に念を押した。

 二人は納得した。

「もうすぐ会えますよ」と菊子は二人に明言した。

 単なる慰めのための言葉ではなかった。

 すでに日露間で捕虜交換の交渉が赤十字を通じて、始まっていた。

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菊草の話(京都の西郷家) 夏海惺(広瀬勝郎) @natumi-satoru

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