第3話泣き笑い笑左衛門

 笑左衛門の銅像は甲突川の最下流に近い天保山と言う場所にある。

 裃を着た銅像は小さく、穏やかな顔付きは武士の顔付きではない。彼が穏やかで優秀な能吏だったことを彷彿させる。顔や姿などの記録が残っているはずはない。百五十年前に生きた彼の姿や顔つきを後世の者が彼の人生から想像して建立した像である。

 腰を丸く屈め、今にも畳に裾を擦りながら、前ににじり寄りそうな姿勢である。正面に突き出した顔は、主君と内密な話でもしているようにも見える。

 三名でこの像を眺めた時、この像は笑っているのか泣いているのか判らないと和尚が漏らした言葉に傍のタクシードライバーが同意したのは、昨日のことである。

 自分が見るかぎり、口元を固く閉じ、憮然とした寡黙な表情から、そのような印象を受けることはないはずである。ただ台座の碑文が彼らに、そのような印象を与えたに違いないと感じた。

 面白い碑文であるので、そのまま引用させて頂く。

 「幕末に近い、一八二七年(西郷隆盛が生まれた年)に薩摩藩の借金は、五百万両の巨額に達していた。当時の藩の年収総額十数万両は借金金利に遠く及ばず、正に破算の危うきにあった。時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ五十万両の蓄えさえ残した。更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。平成五年、八.六災害で惜しくも決壊あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等甲突川五石橋も、担保山の造成も全て調所の発案である。改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。だが歴史は時の為政者によって作られる調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の檜舞台での西郷、大久保の活躍もすべて調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからと思う。此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遺ることを願う」

 このような具体的な功績を述べた内容の碑文は、今まで見たことはない。

 夜陰が迫る時刻、タクシードライバーと私は歩道に立ち、その像に再び向き合っていた。錦江湾から吹き込む風に、青く鋭い松葉がこすれ合いサヤサヤ、サヤサヤと音を立てて泣いている。

 松林を吹き抜けるかすかな風が寒々と闇に響き諸行無常の音色を奏でている。

 月は満月に近いが、月明かりは松葉に遮られて容易に大地には届かない。

 笑左衛門と言う男の銅像が天保山に建立された理由は、碑文にも書いてあるとおり、この土地は彼が担当した天保年間の財政改革で得た資金を元手に埋め立てられた土地だからに違いない。だが彼の銅像が建立されている天保山が、他の多くの維新の功労者と離れた場所に、一つだけあることは重要な意味を持つ。また、彼が一番、落ち着く場所は、この天保山であることも間違いあるまい。

 天保山には砲台もあったが、一八六四年の薩英戦争で破壊された。その砲台も笑左衛門が心血を注いだ天保の財政改革で得た資金の蓄えで構築したものである。

 彼の功績は台座の碑文が示すとおり江戸末期に膨大な金額に膨れ上がった薩摩藩の莫大な借金を整理し、藩財政を立て直したことにある。もし、この成功がなければ薩摩藩は財政難に苦しみ続け、幕末から明治維新にかけての薩摩藩の活躍もなく、日本の歴史も異なる方向に向かったやも知れない。

 実は、今朝方、蚊取り和尚が打ち明けたことがタクシードライバーと自分が、彼の銅像と向き合うことになった理由である。

 「昨日、天保山から吉之助が生まれた屋敷跡に向かう途中、後を付けていたのは笑左衛門にちがいない」と言い出したのである。

 昨夜、和尚は背後をしきりに振り返っていた。夜になり、幼い西郷と大久保が暗い屋敷跡で会っている時も、第三者の存在を感じていたと言うのである。一夜明けた今朝方、それは笑左衛門に間違いあるまいと和尚は断言した訳である。

 ところが彼は急用があるという理由で、後事をタクシードライバーに託そうとした。

 タクシードライバーは厨房で生ものを裁く機会が増えたせいで霊感が衰え、昨夜も妙な雑音を多く感じたので、自信がないと私に助力を求めたのである。

 「この件も夏海君に深い縁がありそうだ」と和尚も言った。

 彼の言葉のとおりである。和尚は私の過去をすべて見抜いているようである。

 調所笑左衛門と奄美の島々とは深い繋がりがある。それも不幸な関係である。

 彼の天保年間の改革での最大の犠牲者は、奄美の島々の人々だった。当時のことを今でも黒糖地獄と呼び、遺伝子に刻まれた出来事のように消し去ることができずに、今に至っている。奴隷のような立場に置かれたことは自慢できることではない。今でも軽蔑を対象となっているかのようである。

 彼の正体を捕らえることは無意味なことではないと私は感じた。

 二人が異変を感じたのは車の通行も途絶えた夜半の十二時を過ぎた頃のことである。

 風が強く吹き、松葉を揺らした。

 歩道を大男が足音を忍ばせてやって来た。

 彼は銅像の前で立ち止まった。

 まさしく粗末な絣を来た吉之助である。まだ若い。彼が二十才の頃の姿で、ニセ頭をししていた頃であろう。そして藩の下役人郡方書役助として農政に関する仕事を始めたばかりの頃の姿であろう。

 彼が二十才と言えば、一八四六年前後の出来事であろう。笑左右衛門の天保の改革が始まって十五年ほど経過し、着実に成果が現れ始めた時期でもある。

 そよぐ風に松葉が揺れ、漏れる月明かりに西郷に向き合う笑左衛門の表情が浮かび上がった。その表情が、まるで泣いているように見えたが、次の風で、再び月明かりに照らされた彼の表情は笑ているように見えた。

 吉之助の前では、笑左衛門の像が一層小さく見えた。

 「笑左衛門、笑左衛門。笑左衛門殿。姿を現して下さい。今宵は美しい月も出ております。月を眺め、ともに昔を思い出し、語り合いましょう」

 と彼は像に向かい吉之助は叫び掛けた。

 しばらくして像が口を開き、「自分の名を呼び掛けるのは誰だ」と尋ねて来た。

 「お忘れですか。吉之助です。藩の役務に就いた間もない頃、城下の道端で面倒な質問を投げ掛けて困らせた吉之助です」

 「吉之助か。覚えておる。吉之助なら会わねばなるまい」と像は答え、像の中から半透明の人影が抜け出してきた。

 やはり笑左衛門は小さい男である。

 城下の道端で二人が会った一八四六年の頃には、笑左右衛門は七十一才になっている。彼は、その後の二年後の七十三才で江戸藩邸で自害をする。

 「笑左衛門殿に会ったのは、二十歳の頃でした」と吉之助は言った。

 吉之助が藩の郡方書役助という下役人の仕事に就いて三年ほど経った頃だった。笑左衛門が行う天保の改革は完成しつつあった。確実に藩の財政は回復し、二百万両を越える蓄財も出来ていた。

 その反面、農民たちからの収奪は厳しさかった。農村を走り回る吉之助は、それに我慢が出来ず彼に詰問したのである。

 丁度、笑左衛門が完成したばかりの石造りの高麗橋を渡り、工事中の天保山に視察に出掛ける途中だった。

 「最初は、誰かと思いました。まさか笑左衛門殿だったとは」

 と吉之助は答えた。

 「ずいぶんお主たちの恨みを買っておった時期だったから」

 「そのとおりです。笑左衛門殿しては不用心な行為でした」

 正直な吉之助の答えに笑左衛門も苦笑した。

 「自分の卑しい身分の出身。お主たち、元気の良いニセたちが河原で相撲を取っている姿を見てなつかしさのあまり、つい声を掛けてしもうた」

 周囲には、彼より貧しい乞食同然の者もいた。その者たちとも分け隔てなく相撲を取り、時には公平な行司を行っていた。

 笑左衛門もこの大男がただ者でないことを見抜いたが、直感に過ぎず、その時は理由は解らなかった。振り返った時、分け隔てをしない、この青年の周囲には多くの者が集まり、ある時は彼を助け、ある時は彼に助けられ、一つの時代を作った。

 「笑左衛門殿が昨夜、自分と正助との再会の場に訪ねて来てくれていたのでないか」

 笑左衛門が頷いて答えた。

 「奇妙な三名組がお主たちの話をしていたので、懐かしくなって後を付けてみた」

 笑左衛門は像の台座の角に腰を下ろし誇らしげに吉之助を見下ろしていた。

 「笑左衛門殿は、吉之助等を許しておいでか」

 「もともと恨んでなどおらん。お主らのお陰で自分は救われたと思っている」

 彼の死後、彼の家族を追い詰めたのは吉之助らの維新の元勲たちであり、彼が仕えた主君の斉興の政敵でもある斉彬一派の仕業であると信じられている。


調所笑左衛門のことについては不明なことが多い。彼の功績に対しては、明治維新後、歴史の闇に葬り去ろうとした形跡さえある。彼は西郷らと同じ士族の中でも最下層の御小姓与の家格である川崎某の息子として生まれている。場所は西南戦争で西郷が最後に陣を張った城山の西側付近の池之上町付近ではなかったかと推測されている。

 西郷等の明治の元勲の多くが生まれた加治屋町とは城を挟み北側に位置する。

 西南戦争で犠牲になった者たちが祀られている南洲神社や石橋の保存される石橋公園のある祇園洲町に近い場所である。

 その後、代々茶道で藩主に仕える調所家に養子に入り、調所の名を名乗るようになった。


 笑左衛門の話をする前に、彼の時代の薩摩藩や薩摩藩主の性格や各代の不思議な関係を述べねばなるまい。

 まず二十五代薩摩藩主重豪のことである。

 重豪は一七四五年に生まれているが、一七五五年に十一才になったばかりで二十五代薩摩藩主となっている。この早すぎる藩主就任には藩を揺るがした大事件が影響をしている。父親の二十四代藩主重年が二十七才の若さでの早世してしまったのである。その原因は一七五三年に幕府から木曽川の治水工事を命ぜられたことに始まる。この難工事を命ぜられた時、薩摩藩は幕府との一戦をも辞さぬと言う論議も起きたらしいが、結局、一七五四年二月から一年がかりで、この工事を終えるのである。この工事で薩摩藩は約四十万両の経費と、工事中の自害・病死等で八十名の犠牲者を出している。工事のの最高責任者である平田靱負は幕府の検査後五月に責任を取り自刃をした。その翌年一七五五年に、父である二十四代藩主重年が夭折している。工事で心労が重なったせいだと伝えられている。このような事情を背負い重豪は十一才と言う幼さない時期に父の跡を継いだのであるが、彼は天寿を全うし一八三三年に八十八才で死去するまでの間、約七十八年の間、藩の実力者として君臨するのである。

 重豪の政策は、これまでの薩摩藩の旧習を一掃するものだった。

 薩摩の下級武士の若者は死罪人が出ることを聞きつけると、度胸を養うために処刑場に集まり、処刑された犯罪者の生き肝を奪い合うヒエモントリと言うグロテスクなゲームに興じたと言う。西南戦争で西郷軍を指揮した桐野利秋も若い頃に、そのゲームで名声を高めたと言われているので、このゲームは幕末頃まで残っていたようである。

 重豪が藩主に就任するまでの藩の雰囲気は極端な禁欲主義で酒色を戒め、道端で美しい女人に会えば避けて通り、若者が、自然に女人や娘児を嫌うようにし向けたと言う。

 ところが重豪は上方から芸妓や娼妓を呼び寄せ、城下街にに色街をこしらえてしまったのである。人間は快楽に弱い。この改革は順調に進んだようである。それまでの城下の荒々しいイメージは一新された。


 彼の二女茂姫は一八七六年徳川家斉に嫁いだが、嫁ぎ先は徳川家斉である。徳川家斉が一七八七年に十一代将軍に就任すると彼女は御台所広大院となり、重豪は将軍の舅として権勢はふるうのである。幕府から木曽川工事のような無理難題を言い渡されることもなくなった。幕府に賄を送り、御台所の広大院に仕送りをしている。ところがこの権勢を維持するために経費が嵩み、藩の財政は破滅的な状況になっていくのである。

 重豪の時代には、それまでの日本の中でも南端に位置し、頑強によそ者の侵入を拒み続けていたのであるが、薩摩藩は他藩との交流も盛んに行うようになった。息子の一人は豊後中津藩の奥平家の養子となり、五代藩主になっている。一人は筑前福岡藩の十一代藩主になっている。一人は東北の八戸藩の藩主となっている。

 重豪はオランダや外国のことを熱心に勉強し、オランダ文明を積極的に取り入れようとする蘭癖大名としても有名であった。八十二才の高齢であったが、一八二六年には後の二十八代薩摩藩主となる斉彬を伴い、江戸参府に同行するシーボルトを大森の宿泊所に訪ねた記録も残っている。薩摩藩は田舎の外様大名ではなくなった。


 重豪が藩主に就任した一七五五年頃の藩の借金は六十六万両ほどであった。木曽川の治水工事で四十万両ほどの借金を背負っていたが、それ以降も借金は膨らみ続け、一八一九年には大阪の銀主らが薩摩藩に一切の貸し出しを拒むという騒ぎまで起きている。この十年後には借金の額は五百万両に膨れ上がっている。一両を二十五万円とし現在の貨幣価値に換算すると一兆二千五百億円である。当時の藩の年収は十四万両程度で利息さえ払えない状況になっている。大阪の銀主が借金を断るようになり、やむを得ず高利貸しから借金を始めて以降、借金が雪だるま式に増えたせいだと言われている。

 様々な努力したが藩の財政は好転しない。

 重豪も薩摩藩の危機的な財政状況は承知していた。

 財政改革の必要性を感じるが、重豪とて焦りを感じるが、打つ手はなかった。

 笑左衛門は江戸の重豪の元で茶坊主として働いていた。彼は二十三才で重豪の茶坊主となり、四十三才で御使番に昇進にするまでの約二十年間もの間、江戸の重豪のもとで茶坊主として仕えている。

 笑左衛門が登場するのは、歴史上に登場するのは一八二七年のことである。

 吉之助が生まれた頃である。

 財政の素人である笑左衛門に藩の財政改革を任せてみようと言うことになった。その理由は彼が町奉行時代に唐貿易で利益を上げたことが重豪の目に触れたせいだと言われている。

 突然、隠居の身であるが、先々代藩主の重豪と二十七代藩主斉興から呼び出され、三箇条の大命が笑左衛門に下された。

 一 十年間で五十万両の積立金をつくるこ   と。

 二 平時並びに非常時の手当も蓄える。

 三 古借証文を取り戻すこと。

 と言う三箇条である。

 笑左衛門も最初は無理だと断った。ところが斉興が刀に手を掛け、主君の命が聞けぬかと脅迫し、本人に承諾させたのである。

 この時から笑左衛門等の財政改革が始まった。すでに笑左衛門も五十才を越えていたが、参勤交代の途中でお金が尽き、進むことも退くこともできず、借金を重ね、やっと鹿児島に辿り着くことが出来た日本一の貧乏藩を脱却して、明治維新へと財政的な蓄えをしていくのである。

 

 笑左衛門の改革は、七年後の一八三五年に大きな山場を迎える。

 いよいよ藩主との約束である古い借証文商人から取り戻すことになったのである。貸し主には古い証文を書き換えるので、証文を一時預けるようにと説明した。貸し主は全員信用し、証文を薩摩藩側に預けた。ところが、いつまでも薩摩藩が証文を返す気配はない。実は証文を集めて回った海老名某と高崎某と言う男が笑左衛門に古い証文を渡すと彼は証文をすべて焼き捨てしまったと言えられている。

 総額五百万両を越える莫大な金額である。商人たちも黙っているはずはない。証文を集めて回った海老名某と高崎某と言う二人を捕まえて証文を返せと詰め寄るが、煮るなり焼くなりしろ二人は開き直る始末である。

 二人を責めても一銭の得にもならないので商人たちは奉行所に訴え出たが、薩摩藩は幕府に十万両ほどの賄が渡されており、しかも重豪の娘が御台所に収まった十一代将軍家斉が将軍職を執っているので、奉行所もまともに請け負なかった。諦めた債権者の商人側の方から打開策を言い出してくる始末であった。

 商人は薩摩藩側の言い分に従うしかない。無利子で二百五十年かけ、毎年二万両ずつ借金を返済をすると言うことになったのである。

 その翌年には薩摩藩への債権者が多かった大阪で倒産者が続出し、社会問題にまで発展するのである。さらに、その翌年は大塩平八郎の乱が起き、街の半分は焼け野原になってしまった。強気で頑固な薩摩藩主斉興も、しばらく大阪に近づくことも出来なかったらしい。


 松葉から漏れるから月明に、笑っているのか泣いているのか判然としない笑左衛門の歪んだ顔が映えた。吉之助も、その奇妙な表情に気付いた。

 「笑左衛門殿、泣いておられるのか。それとも笑っておられるのか」

 「両方だ」

 「天保の改革のためとは多くの民に苦しみを与えたことを思い出したか」

 あの改革が周囲に与えた影響は計り知れない。

 自分が生まれたのは西郷が島に流された時に隠れ住んだ村の隣村であるが、この天保の改革の時代に、本島の南にある加計呂麻島から連れて来られた人々が開墾した村であると伝えられている。狭く痩せた平地、山には岩がむき出しになり、ソテツが自生している。それも東シナ海から吹き付けられる風に捩れている。沖に横たわる珊瑚のラグーンが東シナ海から押し寄せる波を防いでいる。珊瑚礁には波が砕け白い波頭を立てている。ラグーンの内側のコバルトブルーの海だけが救いである。土地を耕し、砂糖黍畑にするように命じられた先祖たちは土地を持たない奴隷たちに違いない。西郷の目には、当時の村の様子はどのように映ったのであろうか。

 天保の改革は島の生活を一変した。島に厳しい身分制度を持ち込み、これまでの不用心で牧歌的な島の生活は終わった。薩摩藩の役人の手下となった、ほんの一部の者が、同じ島の者を酷使する立場になった。多くの者は彼らに酷使される家中と呼ばれる奴隷同然の立場になった。

 その間の島の人々の生活は砂糖黍生産に従事するだけの奴隷になったのである。厳しい監視体制が敷かれ、水田も、すべて砂糖黍畑にされ、砂糖黍以外の生産は許されなかった。砂糖黍の切り株が高ければ、さらし者にされ、切り株を囓れば、むち打たれ、砂糖の製造が粗悪なら、首かせや足かせをされた。抜け荷なが発覚したら死刑である。

 その過酷な制度で得た砂糖販売での収入であるが、残された記録から一八三十年から約十年間で百万両の収入があったと推測されている。もちろんそれ以前も黒糖の販売利益は重要な藩の財源だったが、天保の改革で一層、引き締めが厳しくなった。南西諸島でしか生産できない黒砂糖の利益を薩摩藩を独占したのである。当時の一両を二十五万円とすると十年間で二千五百億円の収奪が行われた。島の人々には、不幸な状況は西南戦争が終わる一八七七年頃まで続いた。単純に計算すると約一兆円の収奪が行われたと言われている。

 もちろん調所たちは、品質の維持や薩摩藩以外からの砂糖の市場流入の防止をし独占の維持、砂糖価格の維持に努めた。

 彼の改革が進めば進むほど、多くの者が損害を被り、生活を破壊され、笑左衛門は恨みを買うことになるのである。

 密貿易による収益もあったと言われるが、計数的な裏付けは残っていない。長崎の出島での貿易の収益が大幅に下がり、その原因が薩摩藩から出される外国製品が大幅に増加したせいだと商人たちが騒いだ記録はある。

 薩摩藩もともと琉球を通じ、ある程度の外国との貿易が認められていた。密貿易とは、幕府から許された以上の貿易を行ったことで言われるのである。

 薩摩藩の財政改革は順調に進んだ。

 実のところ笑左衛門は斉興より、重豪の方にあつい思いを抱いていた。重豪から命ぜられた仕事を成し遂げるためにも斉興や彼を取り囲む者達や、もちろん斉興の愛妾のお由羅の周辺の者たちともうまくやっていかねばならない。ただでさえ敵も多かった。彼を古くから格式の高い家の者たちは彼を茶坊主あがりとして対等に相手にしなかった。それを支えたのが斉興の力であった。

 世間の非難にさらされる時に、心の支えとなったのは重豪の存在だった。毎朝、改革の進捗状況を重豪の隠居所のあった高輪の方に向かい報告していたのも、そのせいである。

 重毫は笑左衛門の心情をすべて承知の上で斉興っと二人で笑左衛門に大事業を命じたのである。

 笑左衛門が吉之助を甲突川の河原で見かけのは一八四六年の頃である。笑左衛門が財政改革を始めて十五年ほど経過しており、成果も上がった時期である。肥後から有名な石工を招き甲突川に橋を築く事業を始めたりしている。天保山の埋め立て事業も、その頃の事業である。

  吉之助は、笑左衛門に農村の疲弊について訴えた。

 その時は、笑左衛門は元気の良い若者吉之助の言葉を黙って聞いていた。

 江戸から笑左衛門へ召喚書が届いたのは、その二年後の一八四八年後のことである。彼は七十三才になっていた。

 当時の老中は、阿部正弘が薩摩藩の密貿易の実体を調査していたが、証拠も掴めないまま、彼は江戸に呼び出され、江戸の薩摩藩邸で毒を仰ぐのある。

 「しわの走る老い腹に流し込んだ毒が今になって暴れ、死に際の苦しさを思い出されたか」

 「正助や、お主とて同じではなかったか。お主は賊軍の長として自害し、正助は頭を叩き割られた道端に死んだ。自分の死に比べて、どのような差があったというのだ」

 「笑左衛門殿は、噂とおり斉彬公のことが嫌いだったか」

 笑左衛門が江戸の藩邸で命を落として一年後の一八四九年に鹿児島で御家騒動が起きる。家督を斉彬に譲ろうとしない斉興と斉彬派の争いはのお由羅騒動で頂点に達した。単純に言うと斉興は正式のお世継ぎである斉彬には藩主の地位を譲りたくなく、愛妾お由羅の息子久光を藩主にしたいと考えていたらしい。

 この騒動の直接の原因は、世継ぎである斉彬の子が次々に夭折したことである。その夭折の原因が、お由羅が自分の息子久光を藩主にするために雇った修験者が斉彬を呪詛しているせいだとする噂が広がったのである。

 それに対し、呪詛をする兵道者やお由羅一派の主要な人物撃ち殺そうと、斉彬派の者たちが企てられたのである。それが事前に発覚し、藩主斉興は斉彬をすぐにでも藩主にしよと企てる者たちを粛正してしまったのである。西郷の父も大久保の父も斉彬側に属していた。

 斉興は重豪の影響を受けて江戸で育った学問好きの斉彬が藩主になれば、ふたたび藩の財政を傾けると考えていたようである。笑左衛門も斉彬と同じ意見で斉彬が藩主になるのを陰で妨げたと言われているが、斉興に仕え、家老で御家を支える彼には考える余地も自由もないのである。まして笑左衛門は軽輩ではなく家老という立場である。笑左衛門や彼を支えた者たちの多くは斉興派と目されたのである。

 この騒動は、笑左衛門が江戸藩邸で毒を仰いだ翌年に起きているが、この騒動が原因で、笑左衛門も維新の元勲達の恨みを買うことになる。維新の元勲は多くの者は斉彬派に属する下級武士の出であった。まして彼らが慕う西郷自身が斉彬に育たれたに等しかった。

二十七代藩主斉興も維新の元勲たちには評判が悪い。この騒動を通じて、彼が二十八藩主斉彬公の政敵であったと信じられているせいである。だが笑左衛門を半ば脅しながら天保の改革を成功させたのは、この人物であるお陰でもある。

 「江戸の桜田藩邸の奥で斉彬公と、何を話されたのか」

 「斉彬殿と話したことは言えない。語る必要もないことだ。新たな誤解を生むだけだ」

 吉之助は引き下がらなかった。彼は斉彬のことをついて少しでも多くを知りたかった。

 笑左衛門は重い口を開けた。

 「斉彬公は重豪殿と瓜二つだった。重豪の生まれ変わりのように見えた。吉之助、これ以上は話せない。年寄りを困らせるものではない」

 笑左衛門が吉之助をなだめようとした。

 「笑左衛門殿は実は斉興ではなく、斉彬公に命を差し上げようとしたのではないのか」

 吉之助の言葉に笑左衛門は驚いた。これまで思い付きもせぬことだった。

 密貿易の嫌疑について幕府の詮議を受ける前に彼は江戸桜田藩邸で自決している。これまで二十七代藩主斉興を庇うための行為であった言われていた。だが之助の言葉のとおり、あるいは重豪公にそっくりの斉彬公に命を捧げたのではないかと思い始めたのである。

 「斉彬公も夢を持っておられたか。吉之助は斉彬公の仕事に満足されたであろうか」

 彼と斉彬の藩主と忠義とも、父親の久光とも、うまくいった言えない。だから彼の斉彬への気持ちは一層、強いのである。

 笑左衛門は、押し黙っている。

 「吉之助は正助を恨みに思うか。桐野を恨みに思うか」

 吉之助は否定した。

「自分も同じだ。重豪公も、斉宣公も、斉興公も、そして最後に会った斉彬公も素晴らしい方たちだった」

 笑左衛門も、吉之助の問いに答えにならないことを言っていることを承知していた。

 「それでは何故、そのような悲しい顔をされる。迫害され離散してしまった自分の御子孫たちのことを不憫に思い出されたか」

 「馬鹿なことを申すでない。地位も財産も家族も子孫もすべて生きている間こそが価値があるというもの。死なば肉体は滅び混じり合い、すべてが無に帰してしまうものだ」

 和尚の言葉とおり、二人の激しいやりとりも、自分自身の心中のわだかまりが夜陰に映し出された結果にすぎないのか。

 笑左衛門が自決してお由羅騒動が起きた後も、三年間ほどは斉興は藩主の座を斉彬に譲ろうとしなかったが、一連の騒動の責任を取らされる形で、一八五一年に斉彬が、二十八代藩主に就任するのである。老中の阿部正弘や重豪の九男で福岡藩の十一代藩主となった黒田長溥の力添えがあり、彼は藩主に就任することが出来た。

 斉彬は吉之助を育てた藩主として有名であるが、その吉之助こと西郷が、やがて大久保利通や他の維新の元勲たちを育てて、活躍の場を提供をし、明治維新を成功させるのである。

 斉彬は藩主になる四十二才まで江戸で育ち、喋る言葉も江戸言葉であった。斉彬が重豪以上に開明的思想の持ち主であることは間違いなかった。西洋に遅れた技術を取り戻すために近代化を促すための鹿児島の磯に工場群を創り集成館事業を始めている。反射炉やガラス工場や溶鉱炉を作り、洋式の軍艦を建造し幕府に献上したりしている。その時に始めて日の丸を国旗として掲揚している。

 これらの事業は、すべては笑左衛門の財政改革が成功したお陰で出来たことである。

 ところが彼が藩主に就任して八年後のこと、今では笑左衛門の銅像も建つ、天保山で閲兵式を望んだ直後に原因不明の高熱を発し、急逝したのである。

 この急死に毒殺説や笑左衛門の呪いを信じる者も現れた。今では真相は閲兵中に飲んだ水が原因の食中毒だったと言われている。

 一陣の強い風が松林を吹き抜け、松葉の隙間から明るい月明かりが地上に照り注ぎ、奇妙な表情の笑左衛門の顔が月明の中に浮かび上がった。

 松葉の隙間から月が見える。はるかかなたの星も見える。

 吉之助も笑左衛門の表情に変化に気付き、「笑左右衛門殿、笑っておられるのか」と叫んだ。

笑左衛門は、慌てて表情を引き締めて銅像と同じ寡黙な老人の表情に戻って言い訳をした。

 「月明かりのせいで、そう見えるだけだ」

 吉之助は笑左衛門の言い訳に疑念を浮かべた表情で笑左衛門の顔を見詰めていた。

「吉之助、今夜はこれで勘弁しろ。また会える機会もあろう。それにしても不思議なものよ。このような小さな星で何を理由に争ったのか。争う理由があったのか」

 笑左右衛門は、松葉の隙間に見える月を見上げながら続けた。

 「それにしても、吉之助、人間はどこに行こうと言うのか。たかがあの月に行ったばかりで、宇宙のどこにでも行けると思い上がっているのではないか」

 笑左衛門は月を見上げている。

 「この小さな星以外では、どこにも生きる場所はないと言うことを忘れてしまったかのようではないか。」

 笑左衛門は吉之助に言った。

 笑左衛門は吉之助の答えを待たず、現れた時とは逆に像の中に吸い込まれるように姿を消した。

 笑左衛門は吉之助に打ち明けなかったが、斉彬から藩のために責任を取り、跡始末をつけろと詰め寄られた時、彼の脳裏に甲突川で遊び興ずている黒ダイヤのような大きく輝く目をした吉之助らの姿を思い出していた。

 江戸藩邸の奥の部屋での出来事であり、彼と斉彬しか知らない出来事である。


 それまでも吉之助は上司の迫田太次右衛門を通じて幾度となく藩庁に農政に関する意見を献策していた。改革を進めるために聞き入れることの出来ない意見が多かったが、彼の人に対する見識を知ることの出来る意見だった。

 笑左衛門は吉之助と名乗った若者に賭けて見ようと思いつき、「吉之助らを取り立てて頂きたい」と斉彬に交換条件を申し出た上で毒を仰いだのである。そして笑左衛門は草場の陰から、吉之助や正助が自分が死力を尽くして蓄えた金子を費やし働く姿を誇らしく見守っていた。

 毒を仰ぐ直前に吉之助等を抜擢するように、斉彬に約束させた目論見が見事に的中したことに対する満足の微笑みであった。

 笑左衛門は否定したが、実は笑左衛門は微笑みながら吉之助を見ていたのである。残された時間のない年寄りに出来る精一杯の行為だった。

 高齢になり自分に藩の財政建て直しを命じた時、重豪殿もこのような心境だったのだろうかとも振り返り思った。

 真実を知らされない吉之助は月明かりの下に、まだ釈然としない表情で一人立ち尽くしていた。

 彼の耳には笑左衛門の最後の言葉が残っていた。

 あの頃の人間には、まだ未知の世界が残されていた。まだ無限という言葉を信じることができる時代だった。だが今の人間には残されているものは少ない。閉塞感が人の心を閉ざしている。

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雨の日の出来事 夏海惺(広瀬勝郎) @natumi-satoru

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