第5話

 階段を駆け下りる愛莉ちゃんの忙しない足音が聞こえなくなると、ウメさんが苦笑いを浮かべた。

「まったく。手のかかる孫だよ。よっぽど不安で頭が一杯なんだろうね、何をさせてもこんなふうに抜けが出ちまうのはさ」

「不安?」

「不安だろうよ。スポーツ特待生で高校入学。人生の分岐点は目の前なんだから。そりゃあね、愛莉は確かに走るのが好きさ。好きだけども、節目節目で、やっぱり本人なりに迷ったり悩んだりもするのさ。親の前じゃ溌剌としてみせてるようだけど、私にはよく零すよ。『周りの期待が重い』だの『何のために走ってるのか分からない』だの」

「あの愛莉ちゃんが?」

 そんな弱気な言葉を――。そういえばさっき実家に居づらいとか何とか言ってたような。

「中学に上がりたての頃もそんな調子だったんだよ。親元離れてこっちに来てはみたけれど、周りは自分よりも速いのばっかりで。不安を吹っ切ろうと走れば走るほど、迷路に嵌まり込んで行くみたいな気がしてたんだろうね、あの子は苦しそうだった。何日も笑わなかった」

 そんなある日の夕方にね、とウメさんは懐かしそうに、細い目をいっそう細くした。

「日課のジョギングから帰ってきた愛莉が、やけに晴れ晴れした顔してる。おや吹っ切れたみたいじゃないかって私が言ったら、あの子、何て返してきたと思う? 『頑張る私、すごく格好いいって!』。顔真っ赤にして、目ぇキラキラさせてさ」

「愛莉ちゃん……」

 ウメさんは、らしくないくらい穏やかな表情で俺の顔を見上げてきた。

「いたんだよ。前向きになるきっかけをくれた誰かが。あの子にとっての兄貴分がさ」

 ウメさんの優しい眼差しを真っ直ぐ受け止めることができずに、俺は俯いてしまった。

 ややあって、唐突に、ウメさんは俺に頭を下げてきた。ぎょっとする俺に彼女は言った。

「アンタに私から頼みがある」

「ちょ、ウメさん?」

「もう一度、愛莉の背中を押してやっちゃくれないかい?」

「頭上げてくださいウメさん!」

「まずはアンタが元気になってみせてさ。頼むよ。この通り」

 狼狽える俺のことなどお構いなし。ウメさんはまたも赤い小鍋を突きつけてきた。混ぜ込まれた緑の一つ一つを節くれ立った指先で指し示す。

「ごらん。こいつはね、キランソウっていう。解熱作用がある。こっちのユキノシタにも熱を下げる効果がある。ツユクサもそうだね。オオバコは咳を鎮めてくれるし、これ、ゲンノショウコは喉の腫れにいい。イカリソウは強壮だ」

 ウメさんの口から次々に出てくる思いも寄らない効能の数々。

 嘘だろう? ようするにどれもこれも生薬? 本当に? 

 俺は呆気に取られるばかりだった。見た目はかなりアレだけど、ひょっとしてこのお粥、風邪には覿面に効くんじゃないのか?

「薬効は私が請け合うよ。無いのは味の保証くらいのもんさね」

 できればそれも欲しかったけれど。

 ウメさんは片方の眉を上げて皮肉っぽい顔をした。

「やっぱり見た目にビビってたね。ヒスモンペばかりじゃない、アンタら今の若いのはさ」

 我が道を行く老女一流の、今度こそ説教だった。

「ビクビクしすぎだと私は思うね。いいじゃないか、食ってみれば。食わせてみれば。やってみれば。やらせてみれば。飛び込んでみれば。突き放してみれば。少しくらいお腹壊したって、派手に転んだって、得るものは必ずあるよ。失敗だって前進さ。我が子から、自分から、そういう経験や機会を取り上げちまうことの方がよっぽど可哀相ってもんさ」

 そう諭されて俺が考えたのは、過度な干渉なんて一切してこない、うちの親父とお袋のことだった。

 喧嘩別れしたあの日を最後に一言も話をしていない親父。半年に一度の安否確認の他は電話もかけてこないお袋。

 ノータッチの、黙ってする応援だってあり得るんだと思った。言葉少なの励ましに、俺はこれからどんなやり方で応えていけるだろう。

 階段を駆け上る足音が聞こえてきた。と思った次の瞬間には勢いよくドアが開いた。

 肩で息をする愛莉ちゃんはその片手にトゲトゲした緑色の何かを握っていた。アロエだ。

 変わり七草の最後の一種はアロエ。『医者いらず』の異名を持つ多肉植物。

 俺は驚かなかった。アロエで良かったとさえ思った。葉先の方だったっけ、外皮を剥くと現れるゼリー質の葉肉に苦みは少なかったはず。

「ありがとう愛莉ちゃん。それ、俺にかして?」

「えっ? あ、はい」

 俺は戸惑う愛莉ちゃんからアロエを受け取った。二人に背を向けて台所に立った。

 鍋を火にかけ、緑色に汚れたまな板を手早く濯ぎ、包丁でアロエから可食部を取り出した。程よく温めた小鍋の中に放り込み、ためらうことなく味をみた。驚きだ。想像したよりもエグくなかった。ケチャップが思った以上に良い仕事をしていた。いくつかの調味料を加えただけで、赤いお粥は食えなくないものに化けた。

 俺は物も言わずにただ食べた。というかほとんど噛まずに飲んだ。空きっ腹に染みた。苦いし酸っぱい。喉に葉っぱが筋っぽい。けれど米粒一つ残さず食べきった。その勢いのままにスマホを取り出した。

「ちょっとだけ、いいかな? 俺も忘れてた。年始の挨拶」

 愛莉ちゃんとウメさんに見守られながら実家に電話をかけた。お袋が出た。

「俺。琢磨だけど。……ああ、うん。あけましておめでとう」

 お袋の声は普段よりも高く、はしゃいだ感じに聞こえた。

 何も変わりは無いかと尋ねると、アンタこそどうなのと返された。

 学校は行ってる? 卒業後は? こっちに戻ってくるつもりは無いの?

「は? 誰が? 戻るわけねえし。いやいやいや、諦めたりとか絶対ねえし!」

 俺の剣幕に愛莉ちゃんが首を竦めた。ウメさんも溜息をついて首を振った。

 ハッとした。待て待て待て。声を荒げるな。落ち着け俺。そうじゃない。そうじゃないだろう?

「ごめん。いや、……うん。初めから有名店とか、まず無理だから。けど前向きに、……そう、そういうこと」

 俺はお袋と話しながら心に決めた。

 並外れて厳しく感じた、いつかのあの店でもう一度揉まれたい。教務部を訪ねて担任に相談してみよう。

「だからさ、親父にさ……」

 不安そうにこちらを見ている愛莉ちゃんと目が合った。

 知らず入っていた肩の力を抜いて、俺は微笑んでみせた。

「いつか献立に、フレンチのアレンジメニューとか、入れる気は無いか聞いといて」

 愛莉ちゃんは溢れ出す笑顔で応えてくれた。

 一つ頷いて、彼女はキュッと唇を結んだ。潤んだ瞳の奥に何かがみなぎっていく。

 その何かに衝き動かされるまま、愛莉ちゃんは今にも外へ駆け出しそうに見えた。了

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七草粥にアロエ 夕辺歩 @ayumu_yube

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