末期の玉子

CAT(仁木克人)

末期の玉子

 午前0時。

 俺はなるべく音を立てないように部屋の鍵を開けて中に入り、スーパーの買い物袋をそっとテーブルに置く。

 ネクタイを緩めて外したところで、明日着ていくワイシャツが無いことに気が付いた。出社前にコンビニで新しいものを買うしかないだろう。

 溜息をつきながら寿司のパックを開ける。閉店間際のスーパーで買った寿司は半額になっていた。ネタもシャリもすっかり渇いて、新鮮さのかけらもない。売り場の隅っこで干からびて、誰にも見向きもされず、後は捨てられるだけの寿司だ。


「俺みたいな寿司だなあ」


 独り言を言い、半笑いになりながら次々と寿司を口に入れる。どうせずいぶん前から何を食べても味がしない。自分にとって食事が日々の楽しみではなく、ただ餓死しないための作業になっている事を実感していた。イカも、エビも、マグロも、どれを食べても変わらない。

 最後に残った玉子を手に取る。子供のころ、寿司は玉子が一番好きだった。甘い味付けの玉子はなんだかお菓子のようで、食事の時間に食べていいのだろうかという不思議な背徳感と、わくわくする気持ちがあった。

 子供の頃を思い出すと、余計に今の自分の生活が惨めに思えてくる。今日も失敗しかしていない。楽しいことなどひとつもない。もう、疲れた。なにもかも意味がない。この玉子を俺の最期の食事にしよう。末期の玉子だ。


「一緒にするな」


 口の中から声がした。思わず咀嚼を止める。


「俺はお前とは違う」


 玉子の声なのだと思った。そんな事があるはずもないのに、なぜかそう思った。

 こいつを俺が食っている事が、その満ちたりた声の源なのか。捨てられることなく、食物として、寿司としての役目を全うしているから、それを誇っているのか。

 むしょうに腹が立ってきて、俺は奥歯で思い切り玉子を噛み潰した。噛んで、噛んで、バラバラにしてやった。


「今はな」


 それきり声は止み、俺の目からは涙が溢れた。

 玉子は、優しくて甘い味がした。

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