【2月刊試し読み】妖狐に嫁入り 〜平安あやかし奇譚〜

角川ルビー文庫

第1話



     †


 見渡す限り、一面の薄野原には、爽やかな風が吹き渡っていた。

 天気のよい日で、都を囲む山々の稜線がくっきりと見えている。秋が深まり、その山々は黄金色に染まっていた。

「兄上―、見つけました! ここです! ここに道標が!」

 茶色がかった癖のある髪を美豆良に結った七、八歳ぐらいの子供が、明るい声を上げる。

 空色の水干を着た子供の姿は、丈の高い薄にほとんど隠れてしまう。なので子供は、両手を上げてぴょんぴょん飛び上がり、自分の居場所を教えた。

「詞音はいつも元気だな」

 牛車から降り、ゆっくり近づいてきた年長の少年は、整った顔に優しげな笑みを浮かべた。

 艶のある黒髪はまだ元服前の美豆良だが、色白でほっそりした肢体に水色の水干をまとった姿は、十二という年齢より遥かに大人びて見えた。

「兄上、こちらですよ」

 歳下の子供は、名を土御門詞音という。

 土御門家は陰陽を能くする家だ。そして、兄の清良はまだ若年ながら、不世出の陰陽師との名声を得た祖父をも凌ぐ才の持ち主だと言われていた。

 今日、子供ふたりで薄野原に来たのは、父に命じられて、都をとおる龍脈の様子を調べるためだ。

 密生する薄を掻き分けると、地面に打ち込まれた四角い石の杭が見える。頭に刻まれた印は五芒星だった。

「よく見つけられたね? 偉いぞ、詞音」

 陰陽道の天才である兄に褒められて、詞音はにっこりと微笑んだ。

「だって、兄上が真っ直ぐに行けば見つかるよって、教えてくださったもの。だから、真っ直ぐに歩いてきただけ」

「それでも、薄で埋まっていたから、見つけにくかっただろう?」

「うん。ほんとはね、ここで躓いたの。だから、見つかっただけ」

 詞音はあっさり謎解きをする。

 すると、兄はとたんに心配そうな顔になった。

「転んだのか、詞音? 怪我は?」

「平気だよ? どこも痛くないし」

 詞音はそう言って、笑みを深めた。

 ほんとは臑のあたりを少し擦り剥いてしまった。でも、正直に明かすと、兄を心配させてしまう。

「ほんとに、大丈夫?」

「平気ですって。それより兄上、早く儀式を見せてください。ぼく、すごく楽しみにしたんだから」

 詞音ははしゃいだ声で兄を急かした。

 陰陽師の家に生まれたものの、詞音にはその才能がまったく備わっていなかった。父にも早くから、おまえには陰陽道が向いていないと断言されていた。

 しかし、兄のほうは詞音と違って、すでに父の手伝いを務めている。

「それじゃ、始めようか」

 清良はおもむろに両手を前に突き出した。

 詞音は兄の邪魔をしないように、一歩後ろへと下がる。

 兄は道標の上に両手を翳したままで、低く真言を唱え始めた。

 詞音は懸命に目を凝らす。

 兄が唱える真言は自分も習っていた。しかし才能のない詞音では、真言に秘められた〝力〟を解放することができない。ゆえに、じっと見守っているしかないのだ。

 道標に刻まれた五芒星から、ざわっと霊気が立ち上る。

 だがそれも、詞音には、かすかに空気が揺らいだようにしか感じ取れなかった。

 兄の目には、きっと鮮やかな光が放たれる様が見えているのだろう。

 いったいどんな光なのか、一度でいいから見てみたい。

 しかし、どんなに願ったとしても、それは叶わない望みだった。詞音は才能のない自分をもどかしく思うだけだ。

 しばらくして、兄の真言が終了する。

「さあ、これで大丈夫だ。龍脈の淀みはすべて解消した」

 清良の言葉を聞いて、詞音は詰めていた息をふうっと吐き出した。

「兄上はいつも、すごいなぁ」

 詞音は心より誇らしく思いながら、憧れの兄を見上げた。

 たった四歳しか違わないのに、兄はすでに、陰陽寮天文博士を努める父の右腕といっていい存在だ。

「別に私がすごいわけではないよ。陰陽の道に沿って、正しい処置を施しているだけだから」

「うん、でも兄上には、龍脈から立ち上る、きれいな光が見えるんでしょ? ぼくにはなんにも見えなかった。ねえ、兄上。ぼくにもいつか、見えるようになるかな?」

「詞音……」

 兄は困ったように首を傾げ、それから詞音の頭にそっと手を乗せる。

 陰陽道の修行は積んでいる。誰にも負けないほど熱心に、日々研鑽も重ねていた。しかし、どんなに修行を積もうと、才能の有無は歴然としている。

 兄もそれがわかっているからこそ、迂闊な慰めは口にしないのだ。

 全部、心得ている。だから、これ以上兄を困らせることは言えない。

「兄上、風が冷たくなってきました。もう帰りましょうか」

 詞音はにこっと笑いながら、兄を促した。

「ああ、そうだな。もう家に帰らないとな……」

 天賦の才に恵まれた清良にも弱点はあった。生まれついてより、あまり身体が丈夫ではないのだ。冷たい風に吹かれていれば、風邪を引いてしまう。

 兄弟は手を繋ぎ、牛車を止めた場所を目指して歩き始めた。

 しかし、薄の中を進む途中で、詞音はふと何かの気配を感じて振り返った。

「あ……」

「ん? どうかしたか?」

「ちょっと気になることがあって……。見てきますから、兄上は先に牛車まで戻っていてください」

 詞音は兄の手を離し、薄を掻き分けて横へと進んだ。

 二十歩ほど歩いた時、薄の根元で、かさりと音がする。

 何か、小さな生き物が潜んでいるのだろう。

 詞音はその生き物を驚かさないように、そっと薄の穂を掻き分けた。

 なんと、そこに蹲っていたのは、純白の被毛を持つ狐の子だった。

 後ろ肢に血がべったりついている。

 狐の子は、びくりと身をすくませ、詞音を威嚇するように、唸り声を上げた。

「待って。何もしないから、怖がらないで……。怪我してるんだね? 大丈夫だから、ちょっとぼくに見せて」

 詞音はなるべく優しく聞こえるように囁きながら、静かに両膝をついた。

 子狐が逃げ出す様子はないので、そおっと手を伸ばす。

「いい? 抱っこするから逃げないでね? 傷を見るだけだから、心配しないで」

 子狐は詞音の言葉を理解したかのように、じっとしている。

 詞音は両手でそっと子狐を抱き上げた。

 懐に収め、注意深く見てみれば、右の後ろ肢から血が出ている。

「これ、どうしたの? 猟師の罠にでもやられたの?」

 詞音は優しく声をかけながら、子狐の傷を調べた。

 両側から何か鋭利なもので挟まれたような痕がついているが、幸いなことに骨は折れていない様子だ。

「ぼく、傷薬を持ってるから、つけてあげるね。もう少しじっとしてるんだよ? 怖くないからね?」

 詞音は子狐を膝の上に乗せたままで、懐を探った。

 応急処置用の軟膏はいつも持ち歩いている。自分のためではなく、兄に何かあった時にと思って用意しているものだが、子狐にも効くはずだ。

 詞音は二枚貝に詰めてある軟膏を指ですくい、子狐の傷に塗り込めた。

 染みる薬のはずなのに、子狐は健気にもじっと動かずに耐えている。

「偉かったね。これで大丈夫だよ?」

 軟膏を塗り終えた詞音は、子狐をそっと地面に下ろした。

 抱いていた温もりが消えると、なんだか寂しい気持ちになる。ふさふさした子狐の背中から、手を離すのが惜しいと思ってしまう。

 逃げ出す様子もないし、家まで連れて帰ったら駄目かな?

 詞音は一瞬、そんな考えにとらわれた。

 しかし、野生の獣を手元に置くのは道理に反している。そのぐらいは弁えていた。

「ぼくは、もう行かなくちゃいけないんだ。寂しいけど、これでお別れだ。でもね、ぼくはまた兄上のお供でここに来るよ? いつになるとは言えないけど、また会えるといいね……」

 詞音は子狐に優しい声で話しかけた。

 子狐は真っ青な瞳で詞音を見上げ、じっと聞き入っている様子だ。

 その時、兄が呼びかける声が聞こえてくる。

「詞音、どうかしたのか? 早く戻っておいで。あたりに少し不穏な妖気が感じられる」

「兄上、なんでもないです。今、そちらへ行きまーす」

 詞音は未練を断ち切って、立ち上がった。

「じゃあ、またね。元気でいるんだぞ?」

 最後にそう声をかけて、あとはもう振り返らずに、兄の元まで一気に駆け戻る。

「詞音、無事だったか……」

 兄はほっとしたように息をつく。

「はい。ぼくなら、平気です、兄上。お待たせしてすみません。怪我をした子狐がいたので、手当をしてやっただけです」

 詞音は、まだ心配そうな顔をしている兄に、にっこりした笑みを向けた。

「子狐……が、いたのか?」

「ええ、真っ白な子でした。すごくきれいな青い瞳をしてました。ここら辺では珍しい色ですよね?」

「白狐の子……。では、先ほどの妖気はそれか……」

 兄の呟きに、詞音は僅かに首を傾げた。

「妖気って、そんな……別に怪しいところなんてありませんでしたよ? ただの可愛い子狐です」

「そうか、ならばいいのだ。おまえは純真だから、妖を寄せつけやすい。私がそばにいてやれればいいが、そうはいかない時もある。だから、詞音。これからも、なるべく危ない真似はしないように、気をつけるのだぞ?」

「はい。わかりました」

 心配性の兄に、詞音はことさら明るい声で答えた。

「では、戻るとしようか」

「はい、兄上。参りましょう。ぼく、もうお腹が空きました。早く屋敷に帰って、婆やが作ってくれる夕餉を食べたいです」

「詞音はいつもそうだな」

 詞音は微笑む兄の手を引いて、牛車が待つ場所へ向かった。

 途中で兄は、まだ何か気にかかるかのように、背後を振り返る。

 詞音もつられて後方に目を向けたが、そこには風にそよぐ薄野原がどこまでも続いているだけだった。


     †



     一


「おや、式も飛ばせぬ天文博士のおとおりだぞ」

「格好だけは仰々しいが、優秀だった兄と違って、威厳というものがまるでないな」

「まだ十八の若輩に威厳を求めても無駄、無駄。しかしなあ、陰陽頭様は何故に、あの者が天文博士を継ぐことを認められたのか……益人殿こそ、相応しかろうに」

「まったく、世も末だな……いくら世襲が慣例だろうと、納得いかぬ。どうしても天文部でというなら、他にも人材はいる」

「そうだ。あんな子供より益人殿だ。天文部なら奥村殿もいるぞ」

 わざと聞こえるように囁かれる悪口の数々は、すべてが自分の存在を否定するものだった。

 土御門詞音は怒りをぐっと腹に収め、しずしずと板張りの廊下を進んだ。

 陰陽寮は、大内裏で内廷関係の諸事を担当する中務省管理下の役所である。

 陰陽道、天文道、歴道、漏刻の四つの部門に分かれ、陰陽頭を筆頭に、総勢六十余名の者たちが、日々の仕事に従事していた。

 先々代の陰陽寮天文博士だった父が流行病で亡くなったのは六年前のことだ。その時、兄の清良はまだ十六歳だったが、父の跡を継いで天文博士となった。

 しかし、その兄は昨年、三の皇子のお供で西国へと出かけ、旅先で行方不明になってしまったのだ。

 嵐で御座船が転覆し、兄は海中に没してしまったという。三の皇子はなんとか無事に助けられたのだが、兄の行方はその後も杳として知れなかった。

 ──不幸にも、若き天文博士は亡くなった。

 世間ではそう言われていたが、詞音だけは兄の死を信じていなかった。

 兄はきっとどこかでまだ生きている。

 待っていれば、そのうち必ず都に戻ってくるはずだ。

 天文博士の不在は一年近くの間続いた。しかし、それ以上空席のままにしておくわけにはいかないと、最終的には、詞音が兄の跡を継ぐことになったのだ。

 何故なら、陰陽寮の中でも、暦部門と天文部門だけは、世襲制を取っていたからだ。

 代々陰陽頭を排出するのは暦部の賀茂家で、その勢力は陰陽寮すべてを席巻する勢いだ。賀茂家の流れを汲む学生や守辰丁は圧倒的に数が多く、詞音が属する天文部も半数以上が賀茂派に属していた。

 天才といわれた兄の清良は、その者たちの尊敬を得ていたが、詞音ではそうもいかない。

 若いというだけではなく、目につく才といったものがまったく備わっていないからだ。

 血統だけは優良だが、なんの〝力〟もない出来損ない。

 詞音に対する世間の評価は一致している。

 なのにいきなり天文部の長、天文博士に抜擢されたのだから、風当たりが強くなるのも仕方のない話だった。

 ──式も飛ばせぬ天文博士か……。

 詞音は内心でため息をついた。

 皆の言うことは決して間違ってはいない。詞音には妖気を感じる〝力〟や、妖や鬼の姿を見抜く見鬼の才というものが、まったく備わっていないのだから。

〝力〟のある陰陽師は、紙や石に霊力を込めて、己の都合のいいように使役する。時には虫や鳥、獣なども操ってみせると信じられていた。

 事実、兄の清良は、普通では見えないものに話しかけ、そこから情報を得たりしていたのだ。けれども詞音は、そんな真似がいっさいできなかった。

 文官用の束帯に垂纓冠をつけた詞音は、天文部の部屋に入って、ほっとひとつ息をついた。

 十八の誕生日は超えたが、いまだに大人の風格は持ち合わせない。色白の顔立ちはあどけないといっていいほどで、体つきも華奢だ。髪の色は黒にはほど遠く、癖も強い。なので、しっかり結い上げているが、それだとよけいに童顔が目立つことになる。

 詞音が文机を前に腰を下ろすと、配下の陰陽師のひとりがすぐにやってくる。

「今日の予定は?」

 詞音はにこりともせず、簡潔に訊ねた。

 詞音より十歳上の陰陽師は、奥村宗衛という。天文部きっての優秀な人材で、学生を束ねる立場だ。

 その奥村は、整った顔に渋い表情を浮かべたままで答える。

「まずは、本日より新しい学生が天文部に入りましたので、ご挨拶させます」

「新しい学生? いったい、何故?」

 詞音は思わず問い返した。

 学生の数は各部によって決められている。欠員が出たとも聞いていないし、新規に学生を登用する時期でもない。

 しかし奥村は、詞音の問いを無視して後ろに合図を送る。

 待つほどもなく入ってきたのは、驚くほど背の高い若い男だった。

 文官用の束帯ではなく、二藍の直衣を身につけている。

 直衣は貴族の平服にあたり、参内には用いないのが原則だ。直衣で参内を許されているのは、身分の高い貴族に限られていた。

 これから陰陽師になろうという者が、そんな高い身分を有しているとは思えない。おそらく規則を知らないだけだろうと、詞音はかすかに眉をひそめた。

 前まで来た男は、ゆったりと腰を下ろし、優雅な所作で頭を下げる。

 姿勢を戻した男と視線が合った瞬間、詞音は気後れを感じた。

 顔立ちが驚くほど整っている。男らしい真っ直ぐな眉に、高い鼻筋。切れ長の双眸が涼しげな印象で、口元も引きしまっている。

 顔立ちや長身を誇る体躯だけではなく、男はすべてに凛とした気品も漂わせていた。

 まるで、近頃宮中で流行っているという、絵巻から抜け出してきたかのような公達だ。

 女房たちもきっと大騒ぎしているのではと思われる、清々しい貴公子ぶりだった。

「藤原有恒と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 耳に心地よく響く声で挨拶され、男に見惚れていた詞音はこくりと喉を上下させた。

 相手がいくらいい男でも、ここでは詞音のほうが上の立場だ。

 先に装束の注意をしたほうがよいか、それとも、天文部に配属されることになった経緯を問い質すべきか……。

 だが、詞音の口から出たのは、まったく異なる問いだった。

「そなたはいくつになる?」

「この秋で、二十三となりました」

「そんな歳で、これが初めての出仕か?」

 聞きようによっては、ずいぶんと失礼な問いだった。年齢にしても、詞音のほうが五歳も下だ。しかし、藤原有恒と名乗った男は、気分を害した様子もなく答える。

「ずっと田舎暮らしをしておりました。都にやってきたのは、つい先日になります」

「そうか……」

 詞音は気が抜けたように相づちを打った。

「有恒殿は、藤原一門に属しておられる。陰陽頭様ともご昵懇の間柄とお聞きしております。本来なら、もっとお立場に相応しい役に就かれてもよいところです。しかし、陰陽寮に入るのは、本人のたっての希望だそうで、それならばと、陰陽頭様がわざわざ我が天文部へと命じられたのです。天文部としても有恒殿をお預かりできるのは、名誉なことだと心得ます」

 奥村は、新入りの有恒に阿るような説明をする。

 つまり、新参者の学生ではあるが、特別扱いをしろということだろう。

 しかし、それを否定したのは、当の有恒だった。

「藤原とは言っても、末端に名を連ねているだけですので」

「天文博士を拝命したが、私もまだ若輩の身。そなたも諸先輩に習い、励むがいい」

「はっ、かしこまりました」

 有恒は生真面目に答える。

 心配したほど偉そうな態度ではないことに、詞音はほっとひとつ息をついた。

「して、今日の予定はどうなっている?」

 有恒がまだ下がらぬうちに、詞音は奥村の白い顔に視線を移した。

「右大臣家より、四の姫が輿入れされる日の吉凶を占うようにとの、指示がございました」

「そうですか。他には?」

「他には特に急ぎの案件はございません」

「では、さっそく右大臣家に向かおう」

 詞音が何気なく告げると、奥村は驚いたように顔を上げる。

 眇めた目は、詞音に対する批難に満ちていた。

 口には出さないが、こんな大事な役目が、おまえに務まるのか?

 そう問いたいのだろう。

 帝のみならず、有力貴族の吉凶を占うのも、陰陽師の大切な務めだ。

 だが、霊力に頼らずとも、道具さえ揃っていれば、ある程度の結果は出せる。詞音は、この道具類の扱いだけは自信を持っているのだ。

「右大臣家のご要望にお応えするのです。それなりの準備も必要でしょう。今日の今日、いきなり先方へ伺うというのは、いかがなものかと思いますが」 

 奥村は苦言を呈するが、詞音は首を左右に振った。

「四の姫の輿入れなら、すでに日取りが決まっていよう。それを新たに占えということならば、何か障りがあったのかもしれぬ。様子を見るだけでも、急いだほうがいい」

「そうですか。しかし、今日は皆、抜かせぬ仕事を抱えております。急に供を言いつければ、色々と支障が……」

 奥村は気乗りのしない返事を寄こす。詞音の命令に、すぐさま応じるつもりがないのは明らかだった。

「では、そこの有恒に供をさせよう」

 詞音はさりげなく口にした。

 いくら生まれがよくても、有恒は天文部の新人だ。客人扱いはしていられない。

「今日、入ったばかりの者に、それは……」

 慌てたような奥村に、詞音は曖昧な笑みを向けた。

「今日は様子を見にいくだけだ。私ひとりでも事足りると思う。しかし、念のために道具はひととおり持参したい」

 つまり、有恒は荷物持ちとして連れていく。

 そう匂わせると、奥村は渋々といったように首肯した。

「では、有恒。私についてくるがいい」

 詞音はそう言って、座から立ち上がった。

「かしこまりました。どこへなりと、お供いたします」

 すかさず横に来て並んだ有恒が言う。

 立って対峙すると、首ひとつ分以上の身長差があった。

 思わず見上げると、澄んだ双眸とまともに視線が合ってしまう。

 何故か、心の臓がどきりと跳ね上がり、頬も赤く染まる。

「で、では、道具を取りにいくぞ」

 詞音は威厳を取り繕うように有恒から目をそらし、辛うじてそう口にした。

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