(4)錆びついたカップリングロッドの猛き咆哮


 一番安いハンバーガーを二つ。これ以上は食べたくないし、これより少ないと物足りない。

 ぼくの胃の容量を考えると、この数が妥当なのだけれど、一つ目を食べ終えたあたりで、もう胸が苦しくなってきた。

 雑踏から少しだけ離れて、遠巻きに彼らを眺める。

 ジャンクフードを片手に携えて、そんなことをしているから、自分が何か高尚な存在になったような気がしてくる。

 涙が流れた後の頬が痛い。後先考えずに擦ったから、きっと目も赤くなっているだろう。

 残り一つのハンバーガーをどうするか。泣き腫らした余韻は、そんな俗っぽい思議に吹き飛ばされた。

 さっきまであんなに悲しかったのに、トイレで惨めに泣き喚いてハンバーガーを食べたら、それまでのぼくとは別人になってしまった。

 きっと良いことなのだろうけれど、馬鹿みたいだ。悲しみの余韻を無理やり手繰り寄せようとしているぼくは、被害者なのか、被害者になりたいのか。

 泣き腫らした後、胸に風が通り抜けるような感覚を頑なに認めようとしない。その浅ましさ。自分で曝け出した尻尾を掴んで、いたぶっている。

 我儘な自分を俯瞰し、胸を痛める。それすら「想定通りでしょう?」と見下ろすぼく。その冷たさに胸を痛め、どこまでも、堂々巡り。

 それをはっきりと自覚した楢原メイとしては、やはりそういう錆びついた鎖を断ち切りたい。

 痩せ細った手足に食い込む鎖は、骨すらへし折ってしまいそうなのに、その痛みに支配されるのはすごく楽で、解っていても抜け出せそうにない。


 小雨は降り続けている。

 食べたくない二つ目のハンバーガーを無理やり口の中に放り込む。そして一歩進むごとに、胃の中が掻き回されるような気分になった。

 雑踏の中に潜る。くしゃくしゃに丸めた包装紙を、ポケットの中で握り潰しながら。

 あんなに痛かった足。今も痛いけれど、じっとりとのしかかるような感覚は無くなっていた。


 まだ歩ける。

 まだ歩かなきゃいけない?


 あの子が言う痛みのない場所が、そのままあらゆる痛みを排除した場所だというなら、そんなものは本当にあるのだろうか。

 そして何より、ぼくはそんな場所にいて耐えられるのだろうか。


 心臓を追いかけて、走って、元交際相手と向き合って、弟に怒りをぶつけて、痛んで、痛んで。

 痛みのない場所からはどんどん遠ざかる。痛んでいる自分を認めるのは癪だし、浅ましいとすら思うけれど、認めざるをえないだろう。


 雑踏。雑踏。そして、雑踏。


 その中に、霧のような雨に覆われた向こう側に、あの子は、いた。

 街灯に照らされて明るい交差点の真ん中で、あの子の足元だけが浮き立ったみたいに仄暗い。

 赤色のパーカーのフードをすっぽり被った顔はよく見えないけれど、その口元が紡ぐ言葉は、はっきりと見えた・・・


「こっちにおいで」


 霧雨が弾け飛ぶような気がした。風が吹き抜ける。前髪が舞い上がって、雑踏の音が息をひそめる。

 踏み出した右足がアスファルトに着地する。その一歩。時間を限界まで引き延ばしたような感覚。

 あっさり撒かれたぼくだけど、次はそうはいかない。

 心臓を奪ったファンタジー極まりない盗人と、没個性的女子高生ぼく。

 この足を重くする感傷は一度置いて、うんざりするような鬼ごっこの第二ラウンドを始めよう。

 ちいとも楽しくなんかないけれど、厭世にも近い鬱々とした感情の捌け口に、それはちょうどぴったりだ。

 左足が、右足を追い越した。その瞬間、引き延ばされた時間はゴムみたいに縮んで、元通りになっていた。

 霧雨のベールを突っ切って、ぼくは走る。

 男の子は口元を歪めて、笑っているように見えた。

 ぼくに背中を向けて、夕方と同じ調子で駆ける。ぼくだって負けていない。

 人の群れを押し退けて、左肩の先から聞こえる見知らぬ人の罵倒を振り切って、淡々と駆ける男の子を追う。

 身体がぐんぐん進んでゆくのに、あの子との隔たりは縮まらない。

 それでも走るしかない。交差点を駆け抜けて、保険会社のビルを横切って、片側二車線の道路を傍に、湿った歩道の点字ブロックを踏みつけてゆく。

 まるで躁鬱病みたいに、ぶっつりと切れてしまった鬱屈。きっぱり忘れ去ることが出来るほど、都合の良い人間じゃない。

 それでも今はお預け。しみったれた感傷は、ぼくの胸に血が通うようになってから、いやというほど。

 きっと死にたくなるだろう。それでも、ぼくの死因が心臓を奪われたなどという素っ頓狂でファンタジーなものであってはならないから。


「待てこらああああああああ!!」


 歩道を歩く人々は、皆ぼくらとは逆方向に進んでいる。ありったけを込めて叫んだ声は、彼らの表情を強張らせるだけの凄味を孕んでいたらしい。

 こんなにはしたなくて、野蛮な声を上げたことがあっただろうか。

 相も変わらずすれ違う人々はあの子じゃなく、ぼくを見てぎょっとしている。

 構うもんか。既に追い風にぶち当たって、ラインで呼びかけたって誰一人来ることは無い。

 徹頭徹尾孤立無援。更に狼少年は大仰な警鐘を鳴らし続けているときた。

 分が悪いのは初めから。湧いて出た感傷だってぼくを足止めするのだから、あてを見つけたら、もう無我夢中で走るしかない。

 追い風が運ぶ雨の匂いが、更に強くなった気がした。今夜はずっと雨になるだろう。

 それでも雨宿りをするつもりは無いし、今度こそ、足を止めたらお終いだ。

 テナントの隙間の路地裏に、小さな背中が潜り込む。踵でブレーキをかけるようにして、コンクリートの壁にもたれるように手をつきながら後を追う。

 細い道の向こう側に、車のヘッドライトが横切る光が差し込んでいて、赤い背中は迷うことなく眩い場所に向かっている。

 ブラウスのボタンを一つだけ開ける。機関車の連結某みたいに振るう腕。

 頭に血がのぼっているみたいで、ぼくの全てが、もうでたらめだった。

 

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