第2話 鬼女誕生

1 鬼女誕生

 

 寅年寅の日寅の刻。人間道に一人の女の子が生れ落ちた。元気に泣く我が子に目を細めて、微笑む母の虎御前。女の子は虎千代と命名された。父は勇猛さでその名を轟かせる武人、長尾為景。長尾家では代々女の子が生まれると「虎」の字を冠する習わしとなっている。

 父為景は、産着に包まれた虎千代を抱くと、ふんと鼻を鳴らして、乳呑児を虎御前に投げつけた。虎御前は生まれたばかりの我が子を落としてはなるまいと、慌てて抱きかかえ、申し訳なさそうにその場にしゃがみ込んだ。

 虎御前が為景を直視できない理由が複数あった。一つは世継ぎが産めなかったこと、もう一つは婚儀を上げて僅か六カ月で子が生まれたことだった。為景が「わしの子では無い!」と憤慨しても仕方ない。しかし、虎御前には全く身に覚えの無いことだった。いくら「そのような不埒なことは」と為景に弁明しても、為景の怒りは収まらなかった。虎御前は俯いたまま、口を歪めて部屋を後にする為景を、落胆して見送るしか手立てがなかった。

 為景と虎御前の出会いは、数奇なものだった。為景の父能景が越中般若野で一向宗相手に戦死した時のこと。

 一向宗とは、浄土真宗本願寺教団が発した「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従い、集結した農民が強固な信仰組織を形成したものである。

 一向宗は加賀守護富樫政親を滅ぼしたことでその存在を世に知らしめた。一向宗は各地で武士に対抗し、戦を繰り返していた。一揆は全国に拡大し、武家政権の基盤を脅かした。領地安寧の為、武士団はやっきになって一向宗撃退に乗り出していた。

 他国との戦で死すならまだしも、百姓相手に父を殺されたとあっては、連綿と続いてきた武家の名折れ。為景は怒り心頭。毛を逆立て、女子共に至るまで抵抗する領内の一向宗を根絶やしにしたのだった。幾ら、父殺しの憎い敵とは言え、女、子供にまで手を掛けなければならなかった今回の戦は、為景の胸中を押し潰した。居城だった春日山城に帰る途中、為景は心胆疲れ果て、楠の大木に体を預け、腰を砕け落とした。返り血を浴びて羅刹と化した為景の頬にふわりとしたぬくもりが弧を描いた。力無く重い目蓋を上げて擡げた首を起こすと、少女が目の前に立っていた。天女が舞い降りたのではないかと、為景は目を擦り、少女の顔を食い入るように見つめた。血塗られた為景の顔面を拭いて赤く染まった手巾を握ったまま少女はニコリと微笑むと、小走りで為景の前から姿を消した。

 為景は国に帰ると、その少女を血眼になって家臣に探させた。行方知れず、為景は途方に暮れていた。会えぬと思えば思うほど、胸が詰まり、情愛の深淵に沈潜していった。父能景の葬儀で奇跡が起きた。恋い焦がれた少女が目の前に立っていた。その娘は、為景の府中長尾家の分家筋にあたる、上田長尾家当主長尾景隆の娘、豊姫だった。探し人が存外近くにいたのだと、不覚にも為景は厳粛な父の葬儀で声を上げて笑うのだった。

 幾ら本家の当主に望まれたとは言え、四十を前にした為景に十五を迎えたばかりの娘を後室にやるなど、と豊姫の父景隆は最後まで首を縦に振らなかった。が、執拗なまでにせがみ続ける為景にこれ以上拒否を続けることは、本家に弓を引くのと同じぞと、凄まれ、止む無く了承せざるを得なかった。豊姫は為景に嫁ぐにあたって、一つ条件を出した。至極仲の良い姉である、穣姫も共に娶って頂きたい。と言うものだった。為景は正妻がいる上に、側室も何人も囲っていた。豊姫だけてよいのだが。と眉間に皺を寄せたが、豊姫を手に入れる為ならと、姫の条件を渋々呑んだ。

 かくして、見目麗しい豊姫は、二十才以上年の離れた為景に嫁ぎ、名を虎御前と改めた。為景の喜び様たるや、鼻の下を伸ばし、目じりを下げて、家臣が見たことも無いような浮かれようだった。

 蜜月の日々もつかの間、虎御前の妊娠をきっかけに為景の態度が豹変した。

 虎御前は信心深い女だった。為景は一向宗や越後守護上杉家との戦で殆ど城にいることが無かった。虎御前は毎日のように弥勒菩薩をご神体とする、尼寺である光燦寺へ日参し、一日寺で過ごしていた。

 為景の側室に入り三月ほど経った頃、虎御前の体に異変が起きた。その日も為景は戦で城を空けていた。丑三つ時、突然虎御前の腹部が唸りを上げて、波打った。腹は膨張、縮小を繰り返し、ごうごうと嘶く。不思議と痛みは皆無だった。別段驚きもせず虎御前は、変化激しい己が腹を茫然と眺めていた。激動する腹が落ち着き始め、何ことも無かったように元の形を留めた。虎御前の黒く大きな瞳が真紅に光り輝いている。

「愛しい我が子」

虎御前は慈しむように腹を擦った。


 

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