(6)

「本当にいいの?」

 どこか申し訳なさそうに、マリアさんが言った。

 目を閉じて、自分に問いかける。何度自分に問いかけても、答えは変わらなかった。

「いいんです。もう決めました」

 不安はあった。でも、後悔は無かった。それは、半端な覚悟で務まるものではないと、理解している。それでもだ。それでも、私はそうすることを選択し、心に決めた。

 701号室。白鳥志帆とネームプレートに書かれた病室の前で、私とマリアさんは立ち止まった。

 志帆は一命をとりとめた。異変に気付いたマリアさんが意識を失った志帆を早期に発見し、病院へ搬送したお陰だ。

 マリアさんと目が合う。頷いてマリアさんに応えた。

 マリアさんが扉をノックして、室内にいる志帆へ声を掛ける。

「志帆、入るわね」

 マリアさんの声と共に、私は扉を開いた。


 久しぶりに見る彼女の姿は、とても儚げで、今にも消えてしまいそうなくらい弱々しかった。

 マリアさんがゆっくりと扉を閉めた。個室に、志帆と二人きりになる。

 ベッドから身体を起こし、外の景色を眺める志帆に、思わず見入ってしまった。

 志帆と目が合った。私を見ると、驚いたように目を見開いて、

「突然ごめんね。身体、大丈夫?」

 志帆は俯いてしまった。

 ベッドの傍にある椅子に腰かける。

 長い髪に隠れて、表情が見えない。それでも酷く動揺しているのは目に見えた。

 白く細い腕には、点滴の大きな管が繋がっていて痛々しい。

 あと一歩。こんなに近くにいるのに、志帆とはどこか距離を感じる。

 白いベッドに置かれた志帆の細い手に、そっと手のひらを重ねた。志帆の身体が一瞬強張った。小さく震え出した志帆の手を、両手で包む。志帆の体温が伝わってきた。

「生きていてくれてよかった」

 小さく震える志帆の手を握り続けながら、

「本当によかった……」

 志帆に伝えた。志帆が横目で、私を見た。小さく微笑んで、志帆に応える。無言で志帆の手を握り続けた。

 話したいことが沢山ある。それでも志帆と触れ合えるこの時間が、今は何より大切だ。

 しばらく、そのまま手を握り続けると、志帆の手の震えはゆっくりと収まった。

「……志帆」

 嬉しくなり、思わず彼女の名前を囁く。志帆が私の手を控えめに握り返してくれたのだ。

「――ごめんね、志帆」

 俯いていた志帆が、ゆっくりと顔を上げる。

「酷いこと言って……志帆のこと、一方的に拒絶しちゃって、ごめんね」

 目が合った。今にも泣きだしそうな表情で、志帆が小さく首を横に振った。

 志帆が私から視線を逸らし、俯こうとする。

「……あのね」

 大きく息を吸い込んで、

「志帆のお父さんから……志帆の本当のお母さんとのこと、教えてもらった」

 志帆が私を見た。

「志帆とお母さんの間に何があったのか……お腹にいた赤ちゃんのことも……全部」

「なんで」と、恐らくそう口を動かすと、志帆は唇をかみしめて俯いてしまった。

「最初は断られたんだけど……私がどうしてもってお願いした。志帆との関係も隠さずにちゃんとお父さんに話した……。全部聞いたよ、志帆のこと……。だから、もう――」

 視線を上げた。思わず、息を呑んだ。

 震えていた。自分を抱き締めるように小さくなって、志帆は身体を震わせていた。

 咄嗟にベッドに乗り出して、志帆の身体を抱きしめようするも、抵抗されて、拒絶されてしまった。

 怯えるように私の目を見ながら、志帆が口を動かした。

 それは、恐らく拒絶の言葉だった。

 知られたくない過去に、勝手に足を踏み入れたことを怒っているのだろう。

 過去のことを話した、お父さんのことを憎んでいるのだろう。

 申し訳ないと思う気持ちは勿論ある。でも――、知られたくないその過去を、志帆が負い目に思っていることを私は知っている。

 祐二君とのことがあり、汚いと自分を責める私を、震えながら抱きしめてくれたのも。行為中に、いつも上着を脱いでくれないのも、昔の話をしたがらないのも、私に過去のことを知られるのが怖いからだ。

 私が全部受け止めるから、全部受け止めて、全部受け入れるから、だからこれ以上、自分を嫌わないであげてほしい。今日はそれを、志帆に伝えに来た。

 怯える志帆を真っ直ぐと見据えて、ありきたりで、でもこれ以上ない言葉を、志帆に告げる。

「好きだよ」

 驚いた表情で、志帆が私を見る。

「志帆のことが好きだよ。ううん……好きじゃ足りない」

 ゆっくりと志帆へ近づいて、戸惑う志帆を抱きしめた。

 志帆だ。以前よりも随分と痩せたような、そんな気がする。

 弱々しくて冷たい、戸惑う志帆の身体を抱きしめながら、

「愛してる。これから先も、ずっと愛してる」

 夢中で志帆を抱きしめた。

 大丈夫。大丈夫だよ。そう心の中で呟きながら、ひらすらに志帆の身体を抱きしめ続けた。

 戸惑う志帆の身体が、ゆっくりと解れていくのを感じた。

 戸惑いながら、まるで疑うように、志帆がゆっくりと私の背に手を回した。

 志帆の体温が伝わってくる。こんな華奢な身体で、ずっとひとりで抱え込んでいたのだろう。

「……怖かったよね。でも、大丈夫」

 志帆の頭を優しく撫でながら、

「過去のことを知っても、私は志帆のことを愛してるよ。嫌いになんてなってないよ。だから大丈夫」

 熱いものが――私に伝わってきた。

 遮る何かが壊れたように、志帆が私を力いっぱい抱きしめた。

「――――、――――――」

 涙を流して必死に口を動かしながら、志帆が私のことを抱きしめた。何度も何度も、今まで不安だったことや、自身の胸の内を明かすように泣き叫んだ。

 今までずっと怖かったのだろう。過去を知られたら嫌われてしまうと、ずっとひとりで抱え込んで、怯えていたのだろう。

 確かに志帆の過去は、酷く残酷だ。

 でも、それくらいで志帆のことを嫌いになるほど私は薄情じゃないし、それ以上に、志帆は沢山のものを私にくれた。

 塞ぎ込んでいた私に、夏希さんみたいな友達が出来たのも、

 加奈と理穂に、いいように使われる日々から抜け出せたのも、

 祐二君とのことがあって、立ち直ることが出来たのも、

 志帆とマリアさん。帰る家の温もりを知ることができたのも、

 全部、志帆のお陰だ。

 沢山のものを志帆は私にくれた、だから、今度は私が志帆に、沢山のものをあげる番だ。

 暫くそのまま抱き合っていると、いつの間にか、夕日が私達を包んでいた。

 泣き止んで、私の胸の中で小さく鼻を啜る志帆に向かって、言葉を用意する。

 喜んでくれるかな。反対されないといいな。少し不安になりながらも、

「あのね」

 腫れた目で私を見上げる志帆に向かって、私は告げる。

「私ね、志帆の――」

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