(5)
あの後、加奈と理穂は何も言わずにその場を去っていった。
後悔は無かった。
何かが吹っ切れたような、そんな感覚だ。
志帆の制服は水浸しで、身体はとても冷たく、震えていた。
濡れた身体をタオルで拭き、水浸しの制服からジャージに着替えた。
下着も水浸しで、髪も乾ききっていなくて、マリアさんに連絡を取ると、マリアさんはすぐに正門前に迎えに来てくれた。
私が不甲斐ないせいで、志帆をこんな目に遭わせてしまった。
志帆をこんな目に遭わせてしまった、自分の弱さが許せなかった。
何度も志帆に謝った。
マリアさんに合わせる顔がなかった。
志帆の傍に居る資格は、私には無いのだと、そんな思いが私を埋め尽くした。
「そんなことがあったのね」
広いリビング。ダイニングテーブルの椅子に対面して腰掛けるマリアさんの表情は神妙で、私はただ俯くことしか出来なかった。
「本当にごめんなさい」
私はマリアさんに話した。
中学生の時にいじめに遭った事。
そのことがきっかけで、嫌われることが怖くて、加奈と理穂にいいなりになってしまった事。
そんな不甲斐ない私の代わりに、志帆が加奈と理穂の事を何とかしようとしてくれた事。
祐二君との事は話せなかった。
夏希さんにも、母にも、この先、誰にも話すことは無いと思う。
マリアさんは、私の話を真剣に聞いてくれて、
「くるみちゃんは悪くないわ……ただ……」
戸惑いながらもマリアさんは、悲しい表情で、
「志帆もね……くるみちゃんと一緒で、中学生の時にいじめに遭ったの」
驚いた。でも、それは心の片隅で密かに感じていた。
マリアさんは続けた。
「その時、私はこうしてマリアとして志帆の傍に居なかったから、詳しいことは分からないのだけれど。志帆が中学三年生の時、初めて志帆と会った時、今にも自殺しちゃうんじゃないかってくらい塞ぎ込んでたの。私が志帆に付き添って、一緒に暮らしいくうちに、少しずつ元気になってくれたのだけれど……。だから、くるみちゃんも志帆も、この先、その子達と何も無いといいなって……それだけが心配」
ふと、初めて志帆と出会った時の事を思い出した。
入学式の時、孤立しないように、話しかけてくれた加奈と理穂に一生懸命付いて行こうとした私とは反対に、あの時の志帆は常に一人で、誰かに話しかけられても冷たくあしらって、堂々としていた。
強い人だと思った。こんな風に周りに怯えずに、常に堂々としている人になりたいと、憧れた。
でも、それは、一緒に過ごすうちに、表情豊かな志帆を知る度に、間違いだと気づいた。
志帆がどんな日々を送ってきたのか、私には何も分からない。
志帆は怖いのだと思う。
心を許して、裏切られることが。
だから、夏希さんやクラスメイトに対して冷たい態度をとるのだと思う。
きっと、私に見せる表情豊かな志帆が、本来の志帆の姿なのだ。
「もう、志帆に……そんな思いはさせないです」
それは、決意であり、誓いでもあった。
正直、自信は無い。
それでも、こんな私なんかの為に、身を挺してくれる彼女を守りたいと思った。
支えたいと思った。あの時、私を支えてくれた様に、今度は私が。
マリアさんが手を伸ばして、私の頭を優しく何度も撫でてくれた。
「あの子のことをよろしくね。もし困ったことがあったら、遠慮なく私に相談して。志帆もくるみちゃんも、私にとっては妹みたいなものだから」
「……ありがとうございます」
「さて、そろそろシャワーも浴び終わる頃だと思うから、ちょっと志帆の所へいってくるわね」
リビングを後にしようとマリアさんが立ち上がった。
「あの、マリアさん」
マリアさんが不思議そうな顔で首を傾げた。
初めて志帆のことを知ってから、今まで、ずっと疑問に思っていたことを私はマリアさんに訊いた。
「志帆が喋れないのは……生まれつきですか」
シャワー上がりの志帆は、パステルピンクのもこもこした部屋着を身に着けていて、その姿が新鮮で可愛らしくて、思わず何度も見てしまった。
志帆の天蓋付きのベッドに腰掛けて、二人で外の景色をぼんやりと眺めた。
時折、窓から吹き入れる心地よい風と共に、志帆の良い匂いが漂ってきた。
「あのね」
志帆がゆっくりと私を見た。
小さく息を吐き、呼吸を整える。
「私、中学の時にいじめられてたんだ」
志帆が驚いたような顔で私を見つめる。
「親友がいたの。私、背が低くて、声もこんなんだし、よく男子に揶揄われて。その度に親友のその子は、私を庇ってくれて、可愛いよって慰めてくれて。その子には、好きな男子がいたの。でも、その子の好きな男子に私が好かれちゃって……」
あの時の事を思い出しても、不思議と怖くはなかった。
「それで、いじめに遭った。最初はクラスの女子から無視されたり、ごみを投げられたリ、物を隠されたり、それくらいだった。でも、段々と男子も面白がるようになった、叩いてきたり、ジャージを脱がしてきたり……。誤解を解こうと何度も親友だったその子に話しかけたんだけど、結局……だめで。だから、怖かった。加奈と理穂の機嫌を損ねたりしたら、またあの時みたいにいじめに遭うんじゃないかって。それで、何も言えずに……言いなりになってた」
志帆が私の手に触れた。
私の顔を覗き込んで、言葉を待つ志帆へ私は続けた。
「志帆をこんな目に遭わせちゃって、本当にごめんなさい。もっと私がしっかりしていれば、こんな目に遭わなかった。もう、迷惑を掛けないようにするから、だから……」
志帆の手がゆっくりと離れた。
窓から強い風が吹き入れた。
顔を上げると、志帆は真剣な顔で、
「……志帆?」
ゆっくりと、私を押し倒した。
ふかふかのベッドに身体が沈んだ。
志帆の体温がゆっくりと伝わってくる。
見つめ合った。志帆の目は、私を捉えて離さない。
聞こえてしまうんじゃないかってくらい、鼓動が早い。
志帆の顔がゆっくりと近づいてきて、思わず目を閉じた。
「……ん」
柔らかいものが私の唇に触れて、離れた。
キス――?
志帆が、私にキスをした。
再び志帆が顔を近づけてきて、
「だ、だめ」
咄嗟に、志帆の肩を手で押して抵抗した。
悲し気な志帆の表情に、胸が痛くなる。
嫌では無い。
むしろ、して欲しいのかもしれない。でも――、
「私……汚いから……、だから、だめ」
いつの間にか、身体が震えていた。
身体が寒くて、どうしようもなく怖くて、
志帆が私を抱き締めた。
温かい。温かくて、安心した。
私も志帆を抱きしめた。
離さないように強く抱きしめて、そうしているうちに、身体の震えはゆっくりと治まった。
「キス……するの?」
志帆が頷いて、私の頭を優しく撫でた。
「私……汚いよ」
志帆が首を横に振った。身体を起こして、私をじっと見つめる。
長くて綺麗な指が、私の唇をなぞった。
まるで撫でるように、何度も、何度も。
「……綺麗に……してくれるの?」
志帆が頷いた。
見つめ合う。
ゆっくりと志帆の顔が近づいてきて、目を閉じる。
浅いキスを繰り返した。
触れて、離れて、触れて、離れて、触れて、離れて、
様子を窺いながら、志帆が少しずつ舌を入れてきた。
窺うように、なぞるように、求めるように、志帆の舌と私の舌が、触れ合う。
お互いを求め合う厭らしい音と、時折漏れる吐息だけが部屋中に響き渡った。
頭がくらくらして、身体が熱い。
心地よくて、気持ち良くて、切なくなって――、
何度も何度も、私と志帆は、深いキスを繰り返した。
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