とりかえっこ ①

『二十年前、僕らは大事なものを〔とりかえっこ〕したんだ』                  


 意味もなく本のページを捲っていく、文字の上を目がスクロールするだけで内容は全然頭に入ってこない。何も持たないで喫茶店に長く居るのは気が引けるので、そのために電子ブックリーダーを持ってきているのだが……。

 体調を崩した僕は仕事を辞めて一ヶ月、毎日ぶらぶらしながら過ごしていた。亡くなった両親の遺産があったので経済的には困っていない。――ただ、途轍とてつもなく時間を持て余していた。

 毎日、電子ブックリーダーを持って喫茶店で読書をするのが僕の日課だった。その日も、いつものように喫茶店で読んでいると、後ろの席に座った男女が激しい喧嘩を始めた。

「アンタなんか最低の男よ!」

 女の金切り声の後、バシャッと水が飛んできて、僕の電子ブックリーダーにかかった。乱暴に席を立つ音がして女は走り去っていく。どうやら、男はコップの水を顔にかけられたようである。

 水に濡れた液晶画面を慌ててナプキンで拭いていると、

「水かかりましたか? スミマセンねぇー」

 後ろの席の男が謝った。

 振り向いてそいつの顔を見た瞬間、僕は心臓が止まりそうなくらい驚いた。――何故なら、僕と全く同じ顔をしていたからだ。

「――もしかして? 和紀か?」

「おまえは和久?」

 そいつは間違いない! 曽我和紀(そが かずのり)二十年前に別れた双子の兄だった。


                     *


 兄の名前は和紀かずのり、弟の僕は和久かずひさという。

 僕らは見分けが付かないくらい、そっくりな一卵性双生児だった。それで九歳の時、僕と兄は大事なものを〔とりかえっこ〕したんだ。

 ある日、兄の和紀がこう言った。

「なあ、和久。俺の名前と〔とりかえっこ〕しないか?」

「――え、なんで?」

「俺、この名前キライなんだ」

 見た目は同じに見える双子だが、小学校では僕は優等生で、兄は勉強嫌いで成績も悪かった。おまけにイタズラ好きの兄は担任の女教師にイタズラをして、もの凄く怒られたことがある。それ以来、事あるごとに教室でよく叱られるようになったそうだ。

 身から出たサビとはいえ、それが嫌なので自分とクラスを変わってくれと言い出したのだ。嫌だと僕は即座に断ったけれど――我がままな兄にしつこく泣きつかれて、遊びだから、一週間だけ名前を〔とりかえっこ〕しようと利かない。しぶしぶながら僕は和紀かずのりになって兄と入れ替わることになった。

 兄のクラスで授業を受けていたが、案の定、兄と入れ替わったせいで女教師に逐一注意をされたり、立たされたりと散々な目に合っていた。しかし、一週間近くなると僕が大人しいので反省して良い子になったと勘違いされて、逆に可愛がられるようになってきた。

 兄の方は弟の和久かずひさに成りかわり、やりたい放題イタズラして叱られていたようだった。


 僕らの〔とりかえっこ〕も、明日には元に戻そうとしていた矢先に、とんでもない事件が起こった。

 実は僕らを生んだ母親は愛人だった。父親の有馬和臣ありま かずおみはビル管理や不動産運営で収入を得ている資産家で、二十歳も年下の水商売の女に手をつけて僕らを生ませた。

 愛人の子の僕らは世間的には私生児なのだが、父親から毎月多額の養育費を貰っていたので暮らし振りは裕福だった。

 母親は子育てに興味がなく、酒と男とギャンブルが大好きで、僕らは幼い頃からベビーシッターや家政婦たちによって育てられてきた。――だから、僕らが入れ替わっても母親ですら、そのことに気づいていなかったのだ。

 ――まさか。

 それが運命の分かれ道になろうとは思ってもみなかった。

 本家(父親の家)には僕らの異母兄弟に当たる長男が一人いた。まだ結婚もしてなかったので後継ぎはいない。その長男が自動車事故で急死してしまったのだ。

 ショックも大きかっただろうが、息子が亡くなった父親は妻に僕らのことを打ち明けて、せめて双子の一人だけでも引き取って跡取りとして育てたいと言い出した。反対するかと思った、本家の妻はすんなりとその案を受け入れて、突然、僕らの片方が有馬家に養子にいくことが決まった。

 その時、僕と兄は入れ替わったままで、僕が兄の和紀かずのりで、兄が弟の和久かずひさだった。

 通常として、同じ双子だから上の男の子を引き取りたいと本家から言ってきた。父親は僕らが生まれてからは母親に養育費を払うだけで、ほとんど通って来なかったので、僕ら兄弟の見分けは父親にもつかない。

 酒好きで男にだらしない僕らの母親に浮気心で手を付けたものの……たぶん父親は深く後悔していたのだろう。僕らをDNA鑑定して実子だということだけは認めていたようだ。

 そんな事情で僕ら兄弟は離ればなれになることなった。一人は父の有馬家へ、一人は母の元に残る……。

 当時、まだ九歳だった僕らは母親と暮らすことを希望した。いくらだらしない女でも虐待する訳でもないし、美人の母親は男の子にとって自慢でもある。絶対に本家には行きたくない! きっと継母にひどく虐められるんだ。

 ――そう思って、僕らの両方が本家に行くことを拒否していた。ところが間の悪いことに……その時、僕は上の男の子の和紀かずのりになっていたのだ。

 僕は必死で親たちに訴えた! 本当は僕が下に男の子の和久かずひさだと……だが、兄は自分こそ和久かずひさだと主張して、無理から僕を本家にいかそうとする。泣きながら言った「兄さん、〔とりかえっこ〕を止めようよ!」

 兄は九歳の子どもと思えない冷ややかな口調でこう言った。

「これは遊びじゃないんだ」

 そのひと言で僕の運命は決まってしまった――。

 

 結局、兄の代わりに和紀かずのりとなって、本家の有馬家に引き取られていったのは僕、和久かずひさだった。

 有馬家は広い敷地に大きな屋敷が建てられていた。僕は使用人たちから「ぼっちゃん」と呼ばれてかしずかれた。

 心配していた継母は想像と反する善良な女性だった。「子どもには罪はないのだから……」と愛人の子である僕のことを、亡くなった長男の代わりに可愛がってくれた。

 ここに来て、僕は兄と名前を〔とりかえっこ〕して良かったと思った。それ以降、元々想い出の薄い母親のこともやんちゃな兄のことも忘れて、有馬家のとして満ち足りた生活を送ってきたのだ。


                    *


和久かずひさ、いい暮らししてそうだな」

 オーダーメイドの紺のブレザー、上からベージュのバーバリーマフラーを巻いた僕を、しげしげと見て兄がそう言った。 

 和久かずひさ、今は自分の名前になっているくせに、二十年振りに二人きりで話す時には、本当の名前で呼ぶのがおかしい。自分の席から飲みかけのコーヒーを持って、僕の席に移ってきた兄は、フェイクな皮ジャンに膝が擦り切れたジーズを穿いていた。――そんな兄は薄汚れた胡散臭うさんくさい感じだった。

「ああ、お金には困ってないよ」

「そうか、いいなあ。俺は借金まみれで……さっきも付き合っていた女に金の無心をしたら断わられて、おまけに水までぶっかけられたぜぇー」

 フフンと兄は自虐的に笑った。

 その後、金を貸してくれとせがんできたので、札入れから現金で十万円ほど渡したら目を丸くしていたが。――これっぽっちじゃあ足りないから、もっと貸して欲しいと厚かましいことを言い出した。


 たしか僕が有馬家に引き取られる時、父親は僕らの母親とはきれいに縁を切って別れたはずだった。その時に多額の手切れ金と残った子どもの養育費として、五階建てのマンションを譲渡されたと聞いている。きちんとお金の管理さえしていれば、僕の目の前に、こんな惨めな兄はいないだろうに……。

「お母さんはどうしてる?」

 僕が訊ねると、

「お袋か? ああ、とっくに死んださ。俺が高二の時だった。酔っ払ってアパートの階段から落っこちて死にやがった。あいつにはひどい目に合わされたからなあー」

 酒と男とギャンブル好きの母親は有馬和臣と別れてから、貰った手切れ金で派手に遊び回っていた、ギャンブルの借金が増えたり、あげく男に騙されたりして、五年もたない内に全財産を使い果たしてしまった。その後、水商売に戻ったが、若くもないホステスに客もつかず落ち目になるばかりだった。

 有馬家に何度かお金の無心に泣きついたようだが、『今後一切関わりを持たない』と別れる時に、自分で書いた念書を楯に援助を断られていた。――まあ、そんな母親だから、兄もずいぶん苦労をさせられ、高校の時にはグレて家を出ていたようだ。

「なあ、和久……俺は明日までにヤミ金に百万円払わないと殺されるかもしれないんだ。頼む! 今すぐ百万円貸してくれよう」

 兄は泣きそうな顔で僕に縋ってきた。

 本当に、今すぐ百万円いるかどうか疑わしいが、どん底の兄に比べて、お金の苦労なんか僕は今までしてこなかった。あの日、名前を〔とりかえっこ〕したお陰で裕福な人生を歩めたのだから、百万円くらい兄にくれてやってもいいとさえ思った。

「兄さん、今はそんな現金ないから家まで取りに帰るよ」

「ホントか!? 貸してくれるんだなあ。よし俺もおまえの家まで付いていくさ」

 金を貸して貰えると聞いた途端、目を爛々と輝かせた。そんな兄の顔は詐欺師臭かったが、まあ、そんなことはどうだっていい――。


 その後、喫茶店の駐車場に停めてあった、僕のBMWで二人して有馬家まで行くことになった。車に乗ると兄は「おまえ、すげえ高級車に乗ってるんだなあー」と、羨ましそうにシートを汚い手で撫で回していた。

「ところで、俺らの親父は元気か?」

 今度は兄が質問してきた。

「いや、三年前に病気で亡くなったよ。育ててくれた義母かあさんも去年他界した」

「和久、おまえ結婚は?」

「してない。今は僕ひとり暮らしなんだ」

「――そうか」

 少し間をあけてからポツリと兄が応えた。その後、考え込むように黙り込んだ。――そんな兄を横目で僕は観察していた。

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