西瓜切る

merongree

「生命線を透かせば西日病室に」(寺山修司)

  扉を開ける時、ファファは自分が家の中の物音に耳を澄ませていることに気づいた。彼女がこの家の住人を恐れるはずもなく、また実際恐れていないと自覚してもいたのだが、この数か月、彼らの生活の外殻の摩擦を受けるうちに、こんな侘しい作法を持ってしまったことを、彼女は軽い驚きを持って認めた。また、自分がこんな風に緊張するのは、彼らを本当に好きなせいだと自分に言い聞かせた。そして室内から匂うように響いている物音を踏み分けるように、鈴のついた靴で中に踏み込んだ。ざらついた沈黙が一拍出来、背後で落ちるように扉が閉まった。

 トントンは、彼女が目撃したことのある彼の習慣の最中にいた。彼は十五歳の兄で、八つ下の弟グールーのために何でもしてやっていた。この時トントンは彼らの粗末な小屋の隅で、包丁に布を巻いていた。こんな奇妙な習慣にも、続ける内に作業に脈絡が生まれてくるものらしく、この時はファファが見たことのない仕方で、天井の端から端に布が張り渡され、端が鋭く斜めに切られていた。まるで切断された食用肉のように、その姿は静謐で完結していた。生活者としての彼の緊張感はこんな物の端にも現れた。

 彼はファファを見つけると「踏まないで」と言った。「そこに、グールーがいるから」彼が促した先には、彼の七歳の弟が椅子に縛られていた。その口には白い布が噛まされていたが、これにもまた習慣の優しい縄目が見えるようで、彼女は戒められているこの小さな弟を、このまま姿のまま愛してよいものだと分かった。実際、彼女がふっくらとした手のひらを頬に押し当てると、彼は助けを求めるでもなく、その動物の悲鳴のように濃い睫毛を戦がせ、微笑に近いものを布の端まで浮かべた。

 トントンとグールーは、この粗末な小屋の家族で、彼らの他に肉親はもう残っていなかった。最初にその小屋を手に入れたのは、彼らの母親である。彼女は元々この山岳地帯で生まれた訳ではなく、麓の村の商人の家で下女として使われていたのだが、やがて主人の子としてトントンを身籠ったことが女主人に露見し、犬のように捨てられてしまった。知人を頼りに右往左往するうち、こんな山奥にまで来てしまった彼女は、雨露をしのぐ場所としてこの小屋に棲みついた。トントンを出産した後、後産の血肉を啜るほどに餓えた彼女だったが、痩せ衰えては子供に乳をやれないことを知ると、戦きながら麓の村にも出没し、畑を漁るようになった。彼女を知っていた村人の中には同情する向きもあり、敢えて放置されていたようでもあった。だが自分は迫害されるものだと信じ込んでいる彼女は村には子供を伴わず、子供が成長してからも、小屋に縛り付けてから下山するほどだった。畑でたらふく腹を満たし、小屋へと風が吹き飛ぶように飛んで帰って行く。彼女が衣服の襞からぱらぱらと、盗んだ豆をこぼす様はさながらそういう樹木のようで、トントンは母を自然の恵みのように捉えて当たり前に収穫した。

 グールーが作られた現場を、当時八歳だったトントンは目撃している。彼の母親が水汲みをしているのを見て、たまたま通りがかった男が好奇心に近い欲望から、彼女を撲りつけた。石を並べて遊んでいたトントンは、石を握りしめたまま小屋に戻り、知らない男が母親を締め上げている現場を見た。彼は、母親が攻撃されていることは分かったが、雪で撓んでいる冬の樹木の枝をみて同情を感じないのと同様、彼が日ごろから感じていた自然としての母の険しさの発露の場面のように感じ、その光景を飲み込んでしまった。暴漢は子供が何の動揺も示さないのを見、色欲に近い好奇心を浮かべてその方を見たが、女の抵抗にあってトントンから目を背けた。トントンはその光景は降雪のように仕方のないものだと思いこみ、彼らがもつれ合ううちに再び戸外に出た。それから物音が静まり返るまで、握った石で地面に歪んだ円をひたすら描き続けたことを、彼は自分でどかしようのない、やたらに体積の大きな記憶として脳裏に刻んでいる。その後も、彼はこの記憶を腑分けするような理屈を必要としないまま生き延びつづけた。

 やがて秋になって木の実が色づき、血の滴るように赤い果物が自ら枝を離れて地面を踏むようになる頃、トントンの母親は真っ赤な顔をした赤ん坊を産み落とした。これがグールーである。彼を出産した時、彼女はこれまで破れかぶれで続けてきた生活での披露のせいか、殆ど床から起き上がれなくなった。彼女の指示で、トントンが周囲の木の実を収穫してくる。川に行って魚を捕まえる。しかし彼女の乳はある時凍結されたように止まってしまった。「女はどこかで獲れないの、」と、生真面目な息子は母親に尋ねたが、母親は笑って「女というものはこの世で自分しかいないから、他所で捕まえることは出来ない」と息子に言った。やがて彼女は死に、トントンは彼らがかろうじて作り出していた畑の土に彼女をうずめた。墓という、清潔な土を必要とするもの、また死者を生活の圏外に置くという儀式のことを、彼は母親に教えられていなかった。ただ、裸の遺体に人間があたかも生者に対するような痛々しさを感じ、外套を着せてやったりするように、彼は亡き母親が餓えたりしないようにと畑の中に埋めたつもりだった。彼女を養分にしてか、畑からは豆の蔓が伸びた。あるいは彼女の衣服の襞のどこかに隠れていた豆が、彼女に命じられて成長したものかもしれなかった。

 彼女は生前、よく畑で脱糞した。彼女が麓の村で腹に詰め込んだものが、彼女が脱糞することで彼らの畑にもたらされ、芽吹いたりするということを彼らは生活のうちに発見していた。畑の中で彼女の糞を耕し、今や彼女の髪を梳き、得られるものからトントンは弟の口に入れられるものを選別した。そして彼が木の実を擦って作る偽の乳を、グールーが受け付けなくなった頃、彼はそれまで季節の到来のように仕方なく見送ってきた母の死を、全身で反芻するように号泣し、土の中から眠りかけている彼女の骸を掘り出した。まだ僅かに肉の影があることを認めた彼は、彼女の全身を掘り出して火にくべた。地面に落ちた実が、もはや樹木の一部とは思われないように、焼けてみると母の肉もただの肉だった。彼は筋っぽい部分を食べ、少しでも噛みやすい肉はグールーの口に入れた。グールーは発熱した。熱が去ると、彼はたえず水を湛えているような、不思議に穏やかな顔つきになった。熱の最中、彼は淡を吐き出すように、自分から聴覚を引き剥がして捨ててしまっていた。

 トントンはそれから十五歳になるまで、なるべく母によって潤された畑を耕し、つねに静まり切った家の中に居るような弟を守り、餓えさせないようにしてきた。自らの畑で何も取れない時は、彼は母がしていたように麓の村を荒らした。一度、村の悪童と間違えられて捕まったことがあるが、密かに彼の後を追ってきたグールーが捕まったことで、解放されたことがあった。グールーは発声も殆どできなかったが、彼の不在中、よほど恐ろしかったのか両腕に引っ掻き傷が夥しくあった。彼の透明な悲鳴が、物を持たせたことのない細い腕に絡みついているのを見てトントンは動物のように泣いた。この兄弟の哀れさ、また伝染病のように濃く罹った貧しさの気配に村人は戦き、彼らを見ても捕まえないようになった。グールーはトントンによって家に縛り付けられているはずなのだが、いつの間にか脱走の方法を覚えて村に現れ、そのうちに女に一種の人気さえ獲得していた。トントンが捕まらないように畑を荒らすのに、グールーは女に捕まり、抱かれながら現れることさえあった。

 ファファは、村の誰もが知っていて敢えて近づきたがらないこの野犬のような兄弟に、独自の関心を持った。それは単純な恋心や、純粋な好奇心とも違った感情だった。彼女の家は商売をしていて、表向きは生きた人間を使用人として売買する仕事だったが、内実は貧しくて健康な人間を、その内臓の値打ちのために売買する仕事だった。彼は健康な成人男性の内臓が幾らになるか、長年仕えている使用人に教えられ、それまで十八年間、無頓着に貪ってきた己の家の富が人間の内臓という、身近で珍妙な物で構成されていたことに驚きと可笑しみを全身で感じていた。彼女は笑いの前で骨が軋むほど、肌が震えるほど全身を投げ出してしまう癖があったが、この時に感じた面白味を全身で味わうために、自分でも一つ人間を売り捌いてみたいと思った。村の畑で背を伸ばしたトントンは、背がひょろりと高く成人男性に見えないこともなかった。村の子供に彼の十五歳という歳を知らされると、彼女は鯉の稚魚がひれを戦がせているのを見たような気になり、快く昂奮した。

 ある日トントンが小屋に帰ると、鯉のように太り華やかな衣装をつけた女が、彼らの粗末な食卓の上に座っていた。彼女は彼をみて僅かに微笑をし、それからずっとそうしていた通り煙草の煙を吐き続けた。彼は、この時いつかの暴漢を思い出した。折しも、戸外をうろついていたグールーが戻ってきた。女は、誰も居ないのを良いことに侵入したらしかった。「グールー、おいで」と言い、彼は聞こえない弟の頭を撫でた。「また三人になるよ、きっと」冬を知らなくても赤ん坊が寒さに身を縮めるように、彼は突然の闖入者が、季節を変えるように未来を支配してしまうことを本能で嗅ぎ取り、受け入れる癖がついてしまっていた。

 トントンが収穫した物を火で炙ったり切ったりしている間、彼女は進んでこの白い頭蓋骨のようなグールーの相手になった。「ぱらぱら落ちる、雨よ、雨よ」の歌は彼女の得意なもので、降雨のようにグールーの全身に浴びせた。「聞こえないんだ、」というトントンの言葉も彼女は耳を貸さず、グールーの手をとってあやし続けた。彼女の唇や舌が恐ろしい速さで動くのを、グールーは凍りついたように眺めていた。暗い口のなかで白い歯が蝶のように閃くのを見て、思わず手を伸ばしたところで、懐かれたと彼女に騒がれた。

 ファファはかつてトントンが見たこともないほど夥しい食べ物を、この地上のどこかから引きずってきた。彼女の使用人が豆や芋を満載し、彼らの粗末な小屋の前に放火するように下ろしていく。ふいに出来た豆の水溜りを見て、グールーは声にならない声をあげた。トントンは茫然とこの堆い自然を見つめ、やっぱりおんなだ、と呟いたきり小屋に引っ込んだ。別の日、彼が芋を剥いている間に、彼女がひそかに卓上に積み上げた林檎の山については、彼は気に入ったようだった。それは爆弾のように熟れた、つややかで大振りな赤い実で、かつてトントンが盗んだあらゆる食べ物の豊かさを、一個一個がかるく乗り越えていた。彼女はそれらを無造作に机の上に積み、危うい塔を築いた。

 彼女はトントンに布団の中で、マッチを擦って火をつける仕方を教えるように、無造作に愉しみを教えた。その後、彼は彼女の期待通り、彼女に特別な愛着を向けたりはせず、淡々と弟に従事する生活を続けているように見えた。しかしファファが発見した所では、それ以前に比較して、彼はファファに目撃させる彼らの生活風景の範囲を広げたようではあった。その発見の一角が「家中の刃物に包帯を巻く所を見せる」ことで、彼女は発見のついでにその行為の理由を尋ねた。「グールーが暴れるから」彼曰く、この頃グールーは機嫌が悪いことが多く、身体を掻き毟るどころか、刃物を使って手足を傷つけたりする。「言っても仕方ないんだから、口塞ぐみたいにこうするしかない」ファファはこの家の家族になった実感を味わうため、グールーの前で布の巻かれた包丁を取り出し、林檎を刃の下に敷いてころころと押して見せた。

 彼らの生活を、五分ほど支配した実感を得たファファは、彼らの生活に潜むだけでは物足らなくなり、少しばかりの変化を加えたくなった。彼女は彼らの母の墓石として、猪の死骸ほどに大きな石を使用人に運ばせた。そして彼らの持たなかった、祈りの習慣を彼らの生活に持ち込んだ。彼らを石の前に並ばせ、寝る行為を教えた時のように彼女はトントンの手を取って祈る格好を教えた。彼は祈るという行為を、激しい水流の中で魚がひれを広げている内に泳法を知らないまま覚えているように、手のひらを閉じるだけで瞼の下の暗闇のなかで体得してしまった。彼は母の安寧を祈り、また死者は万能になりあらゆる希望を叶えてくれるという彼女の説明に、弟を健康にしてほしいと平然と呟いた。彼女自身この発見には戸惑いがあったが、彼はグールーが聞こえないだけでなく、兄の行為を何一つ理解しないと思い込みすぎているようでもあった。彼女はやや感傷的にグールーの手を取り、そこで自分が見た物に驚いた。畑仕事や泥棒のために、既にしわぶき声のようになっている兄の手と異なり、グールーの手にはかつてどんな労働の柄も握られたことがなく、そこに新雪が積もったようだったからである。「そこへ字を書いて、いま教えてるんだ」きみが教えてくれた文字だよ、とトントンは平然と言った。「グールーは覚えがいいから、俺より先に字を覚えちゃうだろうな。そしたら、声が要らなくなる」と言い、弟の頭を真正面から撫でた。ファファが持ち込んだもので彼が最も珍重したものは、芋を入れた袋に書かれた文字だった。彼はグールーの手のひらに、指先でむざむざと文字を書きつけることを習慣にし、ファファはこれに軽い抵抗を感じた。彼女が本気で恋に近いものを覚えたのは、この鏡のように曇りのないグールーの手のひらだったから。

 ある時、トントンが彼女らを残して小屋を出ていくと、彼女はまるで恋人の顔を見るような気分で、自分がグールーの手のひらを見たがっていることに気が付いた。これまでも彼女は獲物を仕留めるために彼らに慎重に接して来たが、その度感じた緊張は全て偽物の昂奮で、ままごとの役をやるようなものだったと実感が来た。この物言わぬ弟の、奇妙な手のひらに向かう昂奮ばかりは、彼女が橋を架けて渡ることの出来ない奇妙な流れだった。彼女は奪うようにこの静かな弟の手のひらを見た。その微かな膨らみの形状を具に見ている間も、「この子は兄に言いつけることなど出来ないのだから」という奇妙な思いが胸に去来した。彼女は全く動かない彼の眼を見つめ、「生命線短いね、きっと長生きしない」と言った。「ここは膨らんでる、」と言い、親指の付け根の膨らみをなぞった。「ここが膨らんでる人は、生きてる時お金持ちだった人。あんた、きっとお金に困らないよ」それらは全て、彼女が家に積み上げられた死体の手を観察して得た知識だった。ふと見ると、彼は明確に「お金持ち」という唇の動きに反応して目を吊り上げていた。「まさか、聞こえるの?」と彼女は呟いたが、彼は黙っているだけだった。「お金持ち、分からないよね、お金持ちは、こう」と言い、彼女はお腹の前で弧を描く手真似をした。「太ってるの。食べ物いっぱい食べてるから、お腹が、こんなに」突然、彼は千切るように両手を引っ込めた。押し黙っている彼女に向かい、ふいに彼は明瞭な発声を思わせる手つきで「あなた」「お金持ち」違うのか、という仕草をした。ファファは驚き「違うよ、私はそうじゃない」と悲鳴を上げた。

 グールーにとっての誤算は、人間に悲鳴というものがあることだった。彼はそれが多くの人間の注目を素早く集める性質のものであることが理解できず、結局彼の仕業は自然の事故でなく、彼の作為だったことが早く知れ渡った。ファファの使用人に村で捕まえられたトントンは、転落死した妻と腹の中にいた胎児の死体を見、それから連想したようにグールーを死体の山に探し求めた。グールーは生きていて、死体とは違う部屋に寝かされていた。トントンが飛び込んだ時、彼は鏡を見るように両手を目の前に突き出していた。グールー、と言って兄がその手を取ると、彼は傷のついた箇所を突き出し、顔の包帯が緩む程度に口を動かした。

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