第13話


 長いことヘンリエッテの部屋でふて寝をしていたエルネスタだったが、どうにもそれでは埒が明かないことに気づいて重たい体を起こした。

  時計を見ると、もう昼前だ。

  拗ねていたいという気持ちも、眠ったことでおさまっている。

 悠人に会ったら、まず謝らなければ。それから、気持ちを伝えようか――廊下を歩きながら、エルネスタは悩んでいた。

 脈なしだと思っていたのに、昨夜カチリと、二人の気持ちが噛み合った気がしたのだ。あのときは、狙ってやったわけではなく、ただ悠人を慰めてやりたいだけだった。疲れて、どこか傷つきて帰ってきた様子の悠人をゆっくりさせてやりたいだけだった。

 だが、膝枕をして癖のない髪を撫でてやっているうちに、悠人が自分に対して心を開いたのをエルネスタは感じた、。

 だから、何となく伝えてみてもいい気がしていた。朝目覚めたあの瞬間が絶好のタイミングで、それをみすみす逃したということはわかっていたけれど、それでもうまくいきそうな感じがする。

 夜までにどんなふうに伝えるか考えなくちゃ――そんなことを思っていた。だから、隣室の気配にエルネスタはたじろいだ。


「……ユート、いるの?」


 聞くまでもないが、カーテン越しにエルネスタは声をかけてみる。


「エルか。うん、午前にとってた講義がひとつ休講になって、大学は昼からになった」


 そう返事があったため、エルネスタは隣室に足を進めた。


「ユート、あの……」


 心の準備ができていなかったため、エルネスタはすぐに言葉が出てこなかった。

 そんなエルネスタを見て、悠人はゆるく微笑んだ。


「朝のこと、ごめんな。さすがにデリカシーなかったな。今度から、黙って運んだりせず声かけるから」

「あたしこそ、ごめんなさい。ぶったりして……」

「いいよいいよ。あれでさっぱり目が覚めたし」


 本当はニコルが来るまで意気消沈していたくせに、エルネスタが何も知らないのをいいことに悠人はそんなことを言う。

 謝ろうと思っていたのに先に謝られてしまって、エルネスタは勢いを失った。しかも悠人は、上着を着てカバンを持ってもう外出する支度を整えている。


「ユート、あの……!」


 このままではまたタイミングを失ってしまうかもしれない――もう一度勢い込んで言ったのに、それを悠人に遮られてしまった。


「あ、今日はバイトが終わったら何が何でも早く帰ってくるから、また研究の続きしような。エルが魔術従士になれるよう協力するから! 頑張ろうな。じゃ、行ってくる」

「……うん。いってらっしゃい」


 悠人はひらひらと手を振って、玄関へと歩き出した。笑顔だが、どこかよそよそしい感じがして、エルネスタはそれ以上声をかける気を削がれてしまった。

 鍵がガチャリと締まる音がしても、エルネスタはしばらく立ち尽くしたままだった。

 その音は、まるで悠人が自分を拒絶した音のようにそのときのエルネスタは感じたのだった。



「……怒ってるのかな、嫌われちゃったのかな」


 ニコルと、二度寝から目覚めたヘンリエッテを伴って食堂へ行き、昼食をとりながらエルネスタは呟いた。悠人に拒絶されたかもしれないという思いが胸につかえて、食事はあまり入っていかない。だが、手持ち無沙汰を解消するためだけにスープをかき混ぜていた。


「大丈夫よ、きっと。ビンタひとつで長々と怒ってるタイプじゃなさそうに思うけど?」


 高速身支度でとても寝起きには見えない姿になったヘンリエッテは、優雅な手つきでサラダを食しながら言う。この子なら今朝のシチュエーションをどう乗り切っただろうと、エルネスタはふと思ったが、きっと聞くだけ虚しいのでやめておく。

 勢いこむたびタイミングを逃している気がして、脈ではなく縁がないのではないかと思い、エルネスタの口から自然とため息がこぼれた。


「エル、そんなことよりも気にしなきゃいけないことがあるでしょ?」

「……ニコル」

「聖人誕までもうひと月ないんだよ? ちゃんと研究の成果をあげないと」

「……うん」

「余計なこと、考えてる余裕なんてないよ」


 いつになく強い口調のニコルに、エルネスタは驚きすぎて何も言い返すことができなかった。ヘンリエッテも目を丸くしていたが、ニコルの意志を汲み取り黙っていた。


「そうだね。……頑張らないと」


 エルネスタはそれだけ言って、体は欲しくなかったけれど食事を再開した。

 食べなければ、間が持たなかった。長い付き合いになるが、エルネスタはこの二人とほとんど喧嘩したことがない。ヘンリエッテの美容のアドバイスをエルネスタが聞かないせいで言い合いになることはあったが、おっとりしたニコルがこうして厳しいことを言うなんてなかったのだ。

 だからこそ、この沈黙のやり過ごし方がエルネスタにはわからなかった。それはヘンリエッテも同じで、困った顔をしてエルネスタとニコルを見ていた。

 ニコルは黙々と食事を続けながら、悠人との約束を守るための方法を考えていた。

 悠人はきっと、自分との約束を守ってくれる。なら、自分は悠人に頼まれたことを成し遂げなければならない――そんなふうに、ニコルは考えていた。



 それから表面上は、何事もなく日々は過ぎていった。

 エルネスタとニコルはいつものように話すようになったし、後に残るものもなかった。

 悠人とも、良くも悪くも何もなかった。だが、気持ちが通い合ったあの感覚は二度と訪れることはなく、それどころか自分との間に薄い膜を一枚隔てたような気持ちにすらなっていた。

 会話もするし、笑い合いもする。だが、それ以上先へは決して踏み込ませないぞという気迫のようなものを悠人から感じて、エルネスタの気持ちはどんどん萎んでいくのだった。

 エルネスタの気持ちの盛り下がりに反比例するように、悠人は熱心に魔術に取り組むようになった。

 火、水、風のように、身近にあり尚且つ記号化しやすいものの絵文字をまず最初に二人で話し合って考えた。

 次に、それを魔術として形にするために、イメージトレーニングに励んだ。魔術の発動に大切なのは魔術の効果を明確に頭に思い浮かべることで、そのためにエルネスタが発動する魔術をよく見ることから始めた。

 指先に小さな火を灯す、手をお椀のような形にした中に水を満たす、微かな風を起こして前髪を揺らすなど、ささやかで初歩的な魔術を目に焼きつけることで、まずはしっかりと魔術というものに慣れることにしたのだ。

 魔術に馴染みのない世界の人間が魔術を使おうとするとき、意識の中に「魔術が存在する」という前提条件がないことが大きな障害になるとエルネスタは気づいた。

 だから、繰り返し繰り返し魔術が発動することを目の前で見せ、それが当たり前に存在することを悠人の意識に刻もうとした。それは、点火つまみをひねればガスコンロに火を点くように、ハンドルを回せば蛇口から水が出るように、スイッチを押せば扇風機が風を生み出すように、ごく自然なことなのだと。

 そうすることによって、成功回数は少ないが悠人も簡単な魔術なら発動することができるようになった。


「魔術って、かなり集中力がいるんだな」


 ちょっとした風を魔術で起こしたあと、息も絶え絶えになって悠人は言った。エルネスタの世界では幼い子供がハンカチなどを揺らして遊ぶために使うような魔術も、悠人にとってはひどく高度なものらしい。

 当たり前のように魔術がある生活を送るか否かがこんなにも違いを生むのかと、エルネスタは改めて自分が異文化交流ならぬ異世界交流をしているのだと実感した。



「なぁ、手から火を出すって地味じゃねぇか? こんなんで、本当に研究成果として認めてもらえるのか心配になるな」

「そうは言っても、複雑な魔術を使うにはそのぶん考えなければいけない絵文字が増えるし、覚えるのも使うのもユートよ? イメージするのも大変になるし」

「そっかぁ……だなぁ」


 ある日の夜、バイトがなく大学の講義を終えて帰宅した悠人は、何度かの失敗を経て手のひらに小さな火球を出現させる魔術を成功させ、床に伸びていた。

 どのように研究発表をするかという話し合いをして、聖人誕のパーティーに悠人も出席して、そこで魔術を披露しようということになった。

 それで、悠人が使える魔術の中からパフォーマンス性の高い火の魔術を選んだのだが、派手さには欠ける気が悠人はしていた。


「なぁ、ただの火じゃなくて、色のついた火って出せねぇかな?」

「そりゃ、出せないことはないわよ。そうやって発動するようにすればいいんだから」

「簡単に言うなぁ」


 感覚で魔術を使っているエルネスタにとって、こういった根本的な部分の質問は苦手だった。「あるものはある」「できるものはできる」というふうにしか言いようのないことを、わかる言葉で置き換えて納得してもらうのはかなりの骨折りだ。


「エルネスタは、何色が好き?」


 寝転んだままの姿勢でエルネスタを見上げて、悠人がそう尋ねた。

 長身なため普段は見上げるばかりの悠人の視線が低いのを新鮮な思いで見返しながら、エルネスタは考えた。


「そうねぇ。好きな色はたくさんあるけど、しいて一番をあげるなら青かも。私の体の、どこにもない色だから」

「そっか、青か。俺も好きだな」

「そうなの? 青って、いいわよね。見ていたら気持ちが落ち着くし。瞳の色が青だったらなぁって、小さいときはたまに思ったわ」

「エルの目だって綺麗だろ。なんていうか、朝霧のかかった森の色みたいで、遠くに薄く緑なのが」

「……そんなふうに言われたの、初めて。ありがと!」

「なに照れてんだよ」


 気が抜けていたのか、思わず褒め言葉を口にしてしまって悠人は焦ったが、エルネスタはそれには気づかず照れ隠しにプリプリとして見せただけだった。

 気づかれなかったことにホッとしつつ、寂しいのが本音だ。こうして一緒にいると、エルネスタを可愛く思う気持ちは強くなる。だが、自分が気持ちを見せるとエルネスタが夢へとひた進む歩みを止めることになるかもしれない。イレギュラーな自分との出会いが、これまで夢を叶えるために努力してきたエルネスタの邪魔になることは、どうしても避けたかった。


「悠人、疲れたの? また、膝枕してあげようか?」


 天井を見上げ物想いに耽る悠人に、エルネスタはニッコリしてそんなことを言う。この誘いに乗れたらと悠人は思うが、堪えて首を横に振った。


「いや、疲れたからこそマジで横になりたいから、今日の練習はここまでってことで」

「……そうね。じゃああたしも部屋に戻るわ。おやすみなさい」

「おやすみ」


 悠人の言葉をそのまま受け取り、あっさりとエルネスタは引き上げていった。

 その背中が少し寂しそうに悠人には見えたが、よく考えると寂しいのは自分じゃないのかと思い直した。


 風呂に入り、髪を乾かし、悠人が寝る支度を済ませた頃にはエルネスタの部屋の灯りは落ちており、カーテン越しにベッドに横たわっているのがわかった。

 これまで、悠人はヘトヘトで帰ってきて何も考える余裕もなく、ベッドに入った瞬間眠りに落ちていたため、こうしてカーテンの向こう側に意識をやることはなかった。

 だが、よく考えれば薄い布一枚隔てて女の子が眠っているなんて状況は、やっぱりおかしいのだ。とんでもないのだ。それが好きな子だったら尚更だ。

 辛いな、と悠人は思った。

 手を伸ばせば届く距離にエルネスタがいるのに、触れてはいけないことがすごく辛い。

 悠人は部屋を真っ暗にする気にはなれなくて、リモコンで電灯を常夜灯に落とした。

 そして、オレンジ色の薄明かりの中で、エルネスタの微かな寝息を聞いていた。 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る