晩夏の風物詩 -4-

「あれが、大野が言ってた「頼りがいのある年上の個人事業主」だってさ。笑えるよね」

「俺、スギノンがいつあの男に殴られるか楽しみにしてたのに。防犯カメラに殴られるところ映してからでよかったんじゃない?」


 サンドイッチを頬張りつつ言った智弘に、明日香は肩を竦めて見せた。


「やだよ。そんなことしたら警察沙汰じゃん。本社に怒られるよ」


 金に困っているなら、慰謝料狙いで一発ぐらいは殴られてもいいと明日香は思っているが、幸いなことに日々の食事にはありつけている。家には屋根も壁も床もあり、贅沢なことにバスルームとトイレまである。わざわざあの煙草臭い男に殴られてまで欲しい物はない。


「大野はあのクソ男に殴られて、何が楽しいんだろうね」

「楽しくはないと思うけど。男と女じゃ力が違うから力で来られたら勝てないし、それで大人しく従ってんじゃねぇの」

「世の中変わった奴がいるもんだね」 


 窓の外はすっかり明るくなり、蒸した気温になりつつある。明日香は目を擦り、その指についたマスカラの残骸を床に払い落とした。


「あ、そうだ。金返してよ。酒代とホテル代と、今の分」

「だから、次のシフトの時に返すって」


 眠いためにぞんざいな口調になっている智弘は、サンドイッチからはみ出したレタスを摘み上げ、行儀悪く口の中に入れる。


「大体、スギノンの金じゃないからいいじゃん」

「貰った時点で私の物でしょ」

「貰ってねぇだろ。持って行っただけだろ」


 明日香の財布に入っている金は、日付が変わる時にはまだ瑞奈のものだった。

 店を出る直前、明日香は瑞奈のバッグから財布を取り出して、中に入っていた万札をまとめて拝借した。一緒に入っていた、真新しいコンビニのATMの明細書と交通ICカードは温情で残しておいた。


 当然のようにそれを行った明日香に、瑞奈は最早何も言わなかった。助けを求める相手を間違ったことに気付いたのか、または疲れ切ったのかはわからない。因みに明日香は相手の沈黙を謝罪と受け取った。とても前向きでナチュラルに生きている女は、窃盗なんてケチなことはしない。


「慰謝料だって。あいつのせいで終電逃したのは事実だし」

「慰謝料って傷ついた時に貰うもんじゃねぇの?」

「いや、損害を被った時に貰うもんでしょ」

「それは賠償金じゃね?」


 明日香は煩い相手をテーブルの下で蹴り飛ばす。火傷のところに当たったのか、智弘が静かに悶絶した。


「あんた、本当にいつか恨み買って殺されるぞ」

「そんなことよりさ」

「そんなことで片付けんなよ。何スか」

「あいつ、ちゃんと仕事してるかな? どう思う?」


 智弘はまだ痛そうに顔を顰めながらも、空腹には抗えないのかサンドイッチを手で掴む。


「知らねぇよ。でもこっちに連絡ないってことは、トンズラはしてねぇんだろ」


 スタッフルームの監視カメラの映像はリアルタイムで「本社」に送られている。もし瑞奈が仕事を放棄して逃げたなら、即座に二人のうちどちらかの携帯電話に連絡が入るはずだった。

 どうして教えてもいないはずの携帯電話の番号を彼らが把握しているのかは、深く考えてはいけない。まともな企業なら「個人情報の侵害」を訴えるところだが、そんなことが通じるような相手ではない。


 誤解のないように言うと、「本社」は極めて普通の不動産屋である。検索サイトで会社名を打ち込めば、ちゃんとホームページが出てくるし、「社員の一日」という笑顔と太陽で構成されたようなページもある。

 一つ問題があるとすれば、そこに出てくる「社員」の誰一人として、過去も未来もその会社に在籍していないことだろう。


「心配だなー。見に行ってみる?」


 興味本位を隠しもしない明日香に対して、智弘は呆れた顔をした。


「行ってどうするんだよ」

「仕事してるか確認するだけだよ。ほら、私って真面目なバイトってことで有名でしょ?」

「有名じゃねぇし。というかスギノンが真面目なら俺なんてもう勤勉の類じゃん」

「見に行かないの?」

「行くけど」


 即答する辺り、結局智弘も明日香と同類だった。

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