FALL IN NEPENTHE

Calling

 カコン。

 竹が石を打つ、小気味の良い音でぼくは目が覚めた。朝である。朝とえいば、古式ゆかしい円窓の障子に濾され洩れてくる陽の光、これが冬らしくクリーム色にやわらいでぼくをうっとりとさせてくれるし、黴臭い布団のなかで息を吸えば、古い材木や畳のにおいが鼻いっぱいにひろがってくる。

 見慣れない焦茶いろの天井構えは複雑に梁が組み合わさり、古風な様式美を体現しているようだったが、ぼくは平戸の出島でこうしたものにはじめて触れるオランダ商人同様の気持ちでただただぼんやりしていたようで、そのうちに当然ともいうべきあるひとつの疑問、すなわち、ここはどこだっけという困惑をおぼえ、なにもかも忘れてしまった人のように、真上に手のひらをかざしている。

 夢のなかで、ぼくはなにかを掴もうとしていた。けれど今は、かすかにしか思い出せない。なぜだろう、小さな部屋はものさびしく、ぼくの身体は温泉からの帰りのように疲労していて、なにごとかを成し遂げたようでありながら、なにひとつこの手には残らなかったかのような、遠い空虚が胸の内側からじんわりと染みのように広がりつつある。眠りについた場所と、目覚めた場所が違うということに気がついたのはそのときだった。

「そうか……マユ……」

 口をついて出たその言葉は、違い棚に飾りつけられてある、世にもけざやかな蛾や蝶の標本を見て言ったのかもしれないし、あるいはもっと昔に見た、深層的イメージの決壊だったかもしれない。とにかくぼくはそこに気配を潜ませる、なにものかに向かって呼びかけていた。

 夢と現とのあわいでぼくはよく幻覚を見る。ヒプナゴギアというらしいが、床板のきしむ静かな音がこちらを目指して近づいてくるのに気づくまで、実際それが続いていた。が、知覚をもちはじめたばかりの嬰児のようなまどろみは、むろん断ち切られねばならないわけで、

見本みもとさん、見本さん」しきりの外から、ため息が洩れる。「はぁ、まだ寝てんのですか……」

「いや、起きてるよ。起きたとこだよ。今から起きると言っても過言ではない」

「寝てんじゃねーですか。……入りますよ」

 重たい瞼をこすりながら身体を起こすと、まるでタイミングを図ったかのように、典雅な水墨画の描かれた襖がいまゆっくりと開かれたところで、姿を現したのは、正座した、生きた、等身大のフランス人形。そう形容しても遜色ないくらいの美少女だった。ただ残念なことに、そのかんばせの端から端までつらぬいている仏頂面を見るかぎり、ぼくに対してあまり好意を抱いてはいない様子で、いかにも箱入り娘ですといった風情で佇んでいる面影からは、必要以上にべたべたしたくはない、という雰囲気が発せられるのをひしひしと感じる。

「ああ、ええと、まあその、おはようございます。布団、畳むんでさっさと退いてください。あ、まだお疲れのことでしょうからゆっくりでいいですけど、可及的速やかにお願いしますよ」

「(どっちだ?)……おはようございます。布団ぐらい自分で畳めるからいいよ」

「いえ、わたしがやります、仕事なので。それより見本さんは服でも着替えといてください。寝間着はどっかそのへんに」

「どっかそのへんに、ね」

 ぼくは自分のものではない、更紗さらさ模様の羽織り物を一枚着ているだけだったので、言われた通り、この娘が手際よく布団を畳んでくれているあいだに、ちょっと失礼して脇に用意されていた自分の衣服を着ることにする。

 対する少女が身につけているのは、西洋のドレスと東洋の着物とを折衷したような、目に新しいセンスの光る衣裳なのだが、つややかな金いろの髪をおさげにして伸ばしているのと相まって、見るものに可憐な印象を与える。蒼味を帯びるほど透き通った肌の繊細さや、迦陵頻伽たる声のせつなさについては、あえて触れるまではないにしろ、当然押さえておくべきところだろうし、紫いろした雪割草の造花を挿したカチューシャもまた洒落ていて、黒蝶貝に守られる真珠さながらきらきらしている瞳なんかは、取って眺めてみたいほどだ。

 ここだけを切り取って見れば、旅館のうら若き女中と客の関係のように見えなくもないが、べつにそういうわけではなく、そもそもここは宿屋ですらない。ぼくがこの古い屋敷で一泊したのには、いろいろな思惑と、それなりの経緯がある。いまこの娘は仕事ということを言ったけれども、彼女がぼくを起こしに来たのは、おそらく取り次ぎのためだろう。

 なのでぼくらの関係はまだそんなものに過ぎなかった。

「そういえば、名前」

「なんです?」

「いや、聞いてなかったなと思って」

 すると彼女は一瞬思案するような表情を浮かべ、

「……ありません」と答えた。

「ないわけないだろ。なんて言うの?」

「ないと言ったらないんです、わたし、身元不明です」

 どうやら意地でも教えたくないらしい。

「でも、そんなの困るだろ、いつも決まった呼び方がないと」

「そうですね」

「そうですねじゃない」

 何が不満なのか、彼女は雑に布団を片付け終えると手を払い、大きなため息をついて、ちょうど半裸になっていたぼくの身体を横目で見やり、そして唐突に毒を吐く。

「……そんなことより、貧弱なお身体ですけど、具合のほうはどうなんですか?」

 喧嘩を売られていることを自覚しつつ、年長者としてぼくはさわやかに答える。

「ちょっと背中がぎしぎし痛むな。それに確か、ぼくが眠っていたのは地下室だったはずだ。ここは地上だよな? いったい誰に運ばれてきたんだろうか」

「ああ、それは私です。先生からお運びするようにと申しつけられましたので」

 一瞬、ぼくの脳裡にあの厳格な顔つきがちらついた。

「……ん? おいおい、そんなひよわな身体でどうやってぼくを……。まさかとは思うが、引きずってきたんじゃないだろうな?」

 すると彼女はにっこりとして、

「いやあ、骨が折れました」などとのたまう。

「たはは。粉骨砕身ってか? バカアホドジマヌケ。うまくねえよ。返せ。ばらばらになったぼくの心を、さっくりと抉り取られてなくなったぼくの尊厳を返せ」

 細かいところで礼儀正しく、大事なところで人を馬鹿にしている……それがこいつのナチュラルボーンな性格らしい。

 こんな不遜な小娘を小間使いに回すあたり、よほど人手が足りない業界と見える。

 ……うますぎる話だとは思っていたのだ。

 もっとも、こいつやこの広い建物の持ち主について、多くのことをぼくは知らない。ぼくはただ「実験」のためにここへ呼ばれて、MAYUという、あのグロテスクな地下室の装置を見ただけだし、それ以外のことは自分にとって関係ないと言ってもいいが……。

 一通り話を聞き流したあと、彼女は卒然と口を開いた。

「そのほかに正常なところはありますか?」

 こいつは嫌味しか言えない病気なのか?

「ほっといてくれ。ああもういまの一言でぼくは完全に自信をなくした! もう再起不能だ、立ち上がれない。貧弱だと言ったな? ああそうだよ、確かにぼくの身体は貧弱だ。けどな、自分だってまな板のくせにいけしゃあしゃあとよく言えたものだな?」

 ぼくはめっちゃへそを曲げていた。

「ではおなくなりになった見本さん、わたしの胸をちらちら見るのはいいですから、早くその半勃起を直してください」

「な……」ぼくはへその下をおさえて言った。「おいあんた、ポリティカル・コレクトネスって知ってるか? これ以上ぼくを愚弄するなら、ソフ倫への審議申し立ても辞さないぜ?」

「ポリコレだかパリコレだか知らねーですが、人前で恥じらいもせず着替えるあなたに言えたことですかね……? まあとにかく、お元気そうでなによりです。お立ちになられるぐらいですから」

「てめえ、表に出ろ、今すぐだ!」

「ええ、もとよりそのつもりでした。先生も待ちくたびれておりますし」

 ――先生。

 その言葉を聞くのは今日で二度目になるけれど、ようやくぼくの不整脈な頭脳にも、確乎たる目的意識が目覚めつつあった。

 ぼくはこれから件の「先生」本人に会う。

 そして昨晩のうちに何が為されていたのかを、「実験結果」をこの目で確認せねばならない。

「だが待て、もう一度だけ聞くが、自分の人権を奪った相手の名前を覚えておきたい」

「覚えてどうすんのですか?」

「呪う」

「……逃げます」

 つかみどころがないとはまさにこのことで、散々狼藉した挙げ句、少女はくるりと背を向け、襖の奥へと消えてしまう。その背中を即刻追いたいところではあるが、それに先立ってまずはむらむらと殺気立つ下半身の不自由を直しておく必要があった。

「殺す……絶対に殺す……」

 念のため、名誉のために言うが、ぼくは決してあんなやつのために半勃起していたわけではなくて、ただの生理現象である。しかしまた、ぼくはフェアな男だから、かの少女に人を勃起させる要素がないとも言わない。もちろんぼくがその気になればの話だが……。

(フッ……、あいにくぼくはここ最近、半勃起以上の状態に『達した』ことがないのでね――)

 エンド・デストロイヤーEDの異能(そんなもんあるわけねえだろ)を持つこのぼく――見本ケイは、かくのごとき少女の背中に追いついた際、ふわりと鼻をくすぐった無形のものに対し、ついついそんな独白を禁じ得なかった。

 ってなんでやねーん。そりゃ異能やなくてただの不能インポテンツやないかーい。自分こんな歳で立つもの立たんでどないすんねーん。もうええわ。ありがとうございました。(ぼくの妹は息をしているエンディングテーマ・君が代)

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