はるかわくんの やみ -5-

「どうしたの?」

「…そんな…、優しくしないでください。……俺、わかってますから。」


 春川は、ぼくの指を握ったまま右の袖で涙を拭ったが、また新しい筋が出来てしまう。


「…昨日、俺が、冷水さんから…どんな目にあったか、…知ってますよね。」

「うん。」


 昨日、春川はぼくの策略で冷水にレイプされた。

 どのへんまでいったかは、ぼくからは見えてなかったのでわからない。

 起きてすぐその話になるかと思っていたが、ぼくが少し油断したぐらいを突いて、春川はその話題に触れてきた。

 冷水の心証が悪いのは、残念ながら予想どおり。


 すると、沈痛な面持ちだった春川の顔に、今度は自虐的な笑みが作られていく。


(なんだ?)


「…冷水さんを止めてくれなかったのは、…俺なんかより、冷水さんのほうが、大事だからなんでしょう?」


 そんな切り口で来るとは。

 親指を強く握ったままなのは、ぼくの動揺を探るためか?


「そうだね。」


 嘘は言わない。

 春川はぼくが「たじろがない」ことに、たじろいだようだった。

 無理に装った笑顔はすぐに消え、悲しげで強張った眼差しが再びペーストされる。


「じゃあ、どうして俺に、キスなんかしたんですか。」


 春川はぼくの親指を、さらにぎゅっと握ってきた。


「春川がかわいかったから、したいと思って、した。」

「そんないい加減な気持ちでキスなんてしないでください。」


 春川はかぶせるように、語気を強くして言った。


「うん。悪かったね。春川。」


 春川の頬を伝った涙が、細いあごから数滴落ちた。


「…俺は、昨日、冷水さんに嫉妬しました。」


…嫉妬?


 親指がだんだん痛くなってくる。

 離してもらおうか、いや、今の春川に言うことじゃないな。もうしばらくなら我慢出来る。


「気付いたんです。店長のことが、


  ……好きなんだって。」


「え?あ、痛(い)った」


 しまった。

 春川のこのひとことに、ぼくはかなり動揺してしまった。もちろん春川にも伝わっただろう。


…どうやらぼくもそうとう「鈍い」のらしい。

 頭に浮かんだのは、冷水のこと。

 まずい。

 春川は冷水のものなのに、ぼくがその弊害になってしまっては、まずい。


 春川はぼくの指を離した。

 そしてうなだれて膝に顔を埋め、ついに声を殺して震え始めた。ときおり嗚咽が混じる。

 春川の背に手を置くと、小柄な背中がびくんと震えた。


「冷水をけしかけたのは、ぼくだ。冷水は、きみのことをえらく気に入っていたから。」

「…そんなこと、今」

 さえぎるように続ける。伝えておくべきだ。

「冷水があまりにつらそうだったから、せめて行為だけでもさせてあげようと思った。きみは起きないはずで、すべてを朝までに終えられれば、それで冷水が喜ぶだろうと考えて、ぼくが独断で計画したんだ。安易だったよ。冷水にも怒られた。」


「うそだ…やめてください…」

「だから、冷水を恨まないでもらいたいんだ。責めるんならぼくを」

「やめてください!」

 春川は上を向いて、見えない目でぼくを睨んだ。


「ハル。きみには悪かったが、きみの言ったとおり、ぼくは冷水のことしか―」

「いやだ聞きたくない!」


 突然春川はぼくの胸の中に飛び込んできた。


 左手でぼくのセーターを引っ張るようにして伸び上がってきたので、ぐん、と顔が近づく。


 春川は目を閉じ、形のいい鼻先でぼくの鼻を探りあてると、軽くこすり、そして…そのまま、くちびるをあわせてきた。


 ミルクの匂い。


 春川が舌を入れてくる。



…あたたかくてやわらかい舌を、でもぼくは、軽く、押し戻す。

 春川はそれに気付いて、キスをやめた。


 顔を離し、へたり、と膝を折ると、春川はまた軽くうつむいて、左手で頬の涙をぬぐった。


 春川のさらさらした前髪が、泣くまいと息を殺すたびに揺れている。

 その奥、長いまつげの下にある目は、子犬のようにうるうると震えていた。

…思わず、ぼうっと見とれてしまう。


「…俺じゃ、だめなんですか…?」


「え?」


 春川は、また顔をあげた。

 こらえきれない涙が、大きな目からいくつも下へこぼれ落ちていく。


「…店長。俺を、」


 春川ははっきりと言った。


「だいてもらえませんか。」



 ぼんやりしていて、その意味は一拍遅れて思考に届く。

…聞き間違いか?


 春川は小刻みに震えつづける。

 でも目は、何度かまばたきをしながらもまっすぐぼくを見ようとしている。


 そんなことを言い出すなんて。


(どうしたんだ?春川。)


 そういえばさっき舌がさわったとき、少し熱があったような気もする。

 頭が混乱していて、微熱もあるせいで、正常な判断が出来ていないのかもしれない。


「…やっぱり、もう少し寝てたほうがいいね。」


 春川の告白を聞き流して、軽い体を背中からすくい上げるようにしてそっと寝かす。

 春川はぼくが背中に触った瞬間また体を震わせたが、ぼくがそのまま離れようとすると、今度はぼくにすがりつくように、細い両手を伸ばしてきた。

 その腕をまたゆっくりと外し、春川の頭の横に置く。


「…うっ…」


 春川の口から嗚咽が漏れて、鼻先にあたる。


―― 俺じゃ、だめなんですか…?


 そそられるけど、ぼくじゃだめだ。

 そんな、無防備で無抵抗で、純粋できれいな今のきみは、守られてしかるべきなんだ。


 ぼくじゃなく、冷水みたいな、いい人間に。


「……店長、俺を…助けてください……ッ」


 春川は苦しそうに言った。


 目の前にあるその顔は、今までに見たこともないほど美しい。


 しかたなくぼくは、震えながらまだしがみついてこようとする両手首をつかまえて、春川の横に静かに倒れてみた。

 春川と向かい合う形になる。


「助ける? …なにから?」

「俺を抱いてください…」


 春川はまだ震えながら、嗚咽をこらえて、ぼくの問いかけには答えず再び言った。

「どうして?」


 震えながら息を吐き出し、春川はつぶやくように言う。


「昨日みたいなのには…慣れてるんです、俺…。」


 慣れてる?ああ、そうか。

(やっぱり初めてではないんだ。)


…そして、気づいた。


(これが、春川の、「闇」なんだ。)


 先ほどから震えているのは、自分のなかから溢れ出しそうな「闇」を、必死に抑えこもうとしているからなのかもしれない。


「慣れてるけど、…いやなんです、…ああいうのは…。」

「うん。」


 春川は自分の闇をそれ以上ぼくに見せまいとしてか、言葉を選びながらゆっくりと話した。


「ずっと、思ってたんです。自分が好きになった人と、そういう関係がもてて、そこに、喜びを感じられたら……そしたら、今までの汚れきった俺の人生が、浄化できるんじゃないか、って……。…へんに思われるかもしれないですけど…。」

「別にへんには思わないよ。でも。」


 春川が何を言いたいのか、だんだんとわかってきた。でも。


「ぼくに抱かれたからって、きみが救われるとは思えない。」


 ぼくでは春川をますます汚してしまうだろう。


「…店長は、真逆なんです…。」

「真逆?なにと。」


 春川は軽くくちびるを噛んで目を閉じた。

 答えは言わなかったが、しかし、ぼくにはその反応で充分だった。


 ああ、そうか。


 完全にわかった。春川の闇の正体が。

 頭のなかに、ある男の顔が浮かんだ。


(そうか、この子は。)


 春川は目を開けると、今度は無理に、はは、と言って少し肩を揺らした。

 そして突然、

「俺、冷水さんよりうまいと思いますよ。」

などと言いだした。


 春川の口元の笑みは、ますます自虐的なものになっている。

…そんな、貼りつけただけの笑顔では、泣いているのか笑っているのかわからない。

(似合わないな。)

 細い手首は、肩は、まだこんなに震えているくせに。


「なにをそんなに怯えてるの。」

 春川はすこしうつむいた。

「…怯えてなんか、ないですけど、俺。」

「ぼくとの行為が怖いから怯えるし、そのせいできみは、ほら、今、やけまでおこしてる。」

「ちがいます!」


 春川はむきになって、またぼくのほうを見た。


「俺は怯えてなんかいません。店長に抱いてもらいたいんです。――…震えが止まらないのは、…期待して、はやくヤりたいって喜んでるからじゃないですか、俺の体が。」


 だめだ。どうしたんだ春川。

 あまりに幼稚だし、そんなのはまったくきみらしくない。


…いや、そこまで言うんなら、こちらから春川の「闇」ににじり寄って、「そこ」をこじあけてみようか?



 手の中にある春川の両手を思い切りひろげて、そのまま仰向けになった細い体の上に乗り、ベッドに押し付けた。

 手を放してから、少し乱暴に春川の頭を抱え込む。


「は…」


 すると春川は、今度はとっさに両手でぼくの体を押しのけようとする。

 だが、かまわずにそのまま覆いかぶさり、かわいい口に舌を押し込む。

 左手で春川の小さな頭を包んで固定し、同時に右手を寝間着の中に差し入れた。


「んっ…!」


 ぼくの突然の豹変ぶりに、春川は目をきつく閉じて肌をあわだたせる。

(…どこが「喜んでる」、だよ。)


 吸い付くような肌のうえを滑らせ、手を、春川の胸の上に置いた。

 小さな動物のように鼓動が早い。


 春川はぼくの指先が胸の突起を弄るたび小刻みに震えた。

 目を固くつぶったまま、ぼくの舌を受け入れている。

 その動きにも、ぎこちなさは否めない。


「んん!」


 試しに胸に置いていた右手を下へと動かし、下着の中へするりと潜り込ませる。

 すると春川は、ついに小さく悲鳴を上げ、反射的に自らの左手でぼくの手首を軽くつかんだ。


 次にその手をあわてて離し、今度はその手で、肩に力が入るのがありありとわかるほど強くシーツを握りしめ始める。


 彼の若い性器は、ぼくに対してすっかり萎縮してしまっているようだった。

 右手で包み込むようにして先端を少し弄ると、春川はそれだけでのけぞりそうになり、舌を噛まれそうになる。


 これほどの、「拒否反応」。


(…ほらね。)


 春川の口から舌を出すと、春川は苦しそうに呼吸をしながら頭を横に倒した。

 昨日は、クスリのせいで体が動かせず、さぞかしいやな思いをしたことだろう。


「うっ…」


 舌先を頬に這わせると、細い体がさらに凍り付いていくのがわかる。

「…ハル。」

 耳元でささやく。



「…きみは…、性的な虐待を受けたことがあるんだね。」



 春川は、はっとしてぼくのほうを向いた。

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