第8話 青松地区個人戦

 テニスとは最長で一試合終わるのに、どれくらい時間がかかるものだろうか。公式の記録ではジョン・イズナーと二コラ・マウーという選手が、ウィンブルドン選手権において、5セットマッチで十一時間を超える死闘を演じたのが、二位に大きく水をあけて歴代一位の記録である。十一時間とは恐れ入る。日没中断を挟んで三日がかり、最終セットのゲームカウントは70―68だとか。

 それでは逆に最短ではどのくらいで終わるのか。男子の5セットマッチだと三十七分という記録があるらしい。セットカウントはもちろん3―0なので、1セットおおよそ十二分くらいだろうか。いやはや観客としては高いチケット代になってしまったことだろう。

 しかし、あくまでこれらは公式の記録。その公式の記録を凌駕する記録が青松地区シングルス予選で出ようなどとは、俺くらいしか想像していなかったのではないか。もとより、1セットマッチなので5セットの試合より早く終わるのは当然なのだが、とにかく俺の高校最後の青松地区テニス大会個人戦はものの十分で終わった。恐らく3セットやっていても三十分を切っただろう。これだけ早いと悔しいなどと感じる暇もなく、むしろ大会の円滑な進行に寄与したことを誇らしく思いたくなる。

 相手は桜南高校一年生の岸田という選手で、俺の技術不足だけでなく、この岸田が割と上手かったことも記録を叩きだすのに一役買っていた。それにしても前年の優勝者が0―6で一回戦敗退というのは史上初ではないだろうか。記録の質こそ違え、こうやって史上最高のテニスプレイヤーと広く目されているロジャー・フェデラーばりに数々の記録を樹立していくのも面白かろう、と顔で笑って心でラケットを叩きつけつつ、会場の遠磯高校を後にして大原へと向かった。

 大原高校も会場になっているので、テニスコートではまだ盛んに試合が行われている。テニスコートの入口付近、ピロティとの段差の上に長机とイスを出して上杉先生とどこかの高校の先生が座っていて、四元さんはその隣で大会の記録をつけるために忙しそうにペンを走らせている。

「負けました」

 上杉先生に一応報告しておく。

「そうか」

 さすが上杉先生。その淡白さを見込んで俺は先生に顧問をお願いしたのだ。おそらく先生は俺が勝ちましたと言っても、そうか、寝坊して試合に出られませんでしたと言っても、そうか、テニス部辞めますと言っても、そうか、と答えるに相違ない。四元さんにも声をかけようとしたが、邪魔をすると怒られそうなので部室へと向かった。

 少しひんやりとした空っぽの部室に入り、荷物を置いてベンチに横になる。

 ああ、一体どうしたらテニスが戻ることやら。それとも、もう一生思い出せないのか。また地道に練習していくしかないのか。技術の研鑽に五年も費やしたのに、一発の打球で消し飛ぶとはあまりに不公平ではないか。少しテニスから離れた方がいいのかもしれない。でも体育祭のダンス練習はまだ始まらないし……

 やめた、やめた、悩むなんて馬鹿らしい。取ってつけたような悩みで青春を謳歌したと思っている奴はよほどの馬鹿だ。そんな奴らと一緒にされるのは御免だ。悩むくらいなら楽しめ、悩む暇も無いくらいに。今となってはどうしようもないテニスのことなんぞ考えるよりは姉さんが水玉パンツを履いているところを想像した方がいい。姉さんが恥ずかしそうに自分からスカートを捲り上げて「ほら、言った通りでしょ」なんて言ったら……

 唐突にガラガラと扉が開き、びっくりして首を起こした。四元さんだ。

「おつかれ」

「うん……」

 俺が再び首を寝かすと、四元さんは奥の机へ向かい、何かを探している。

「しょげてるの?」

「んー、どうだろ」

「何だ、しょげてるならたまには慰めてあげようと……」

「しょげてる。断然しょげてる。このままでは自殺してしまいそうなくらい、しょげてる」

「そう。まあ元気出しなよ」

 試合に勝ったプロ選手が観客席に向かって打ち込むウィニングボールは中々手に入らないだろう。しかし俺にとってはそのウィニングボールよりも入手困難な、四元さんの慰めの言葉である。鼓膜でよく味わいつつ、体をずらしてベンチから首を垂らし、逆さまに四元さんを見た。

 四元さんはこちらに背を向けて、やや前屈みなりながら何かを探している。すぐさまウィナーを決められそうな素晴らしいアングルだ。紺のソックスから膝、腿と伸びて、その先を制服のスカートが邪魔している。あとちょい、あとちょい。

「あれ、無いなぁ……」

「何探してるの?」

「マジック」

 四元さんは振り向かずに答える。

「イスの下とかに落ちてるんじゃない?」

「そうかな」

 四元さんの腰が少しずつ曲がる。いける、これならいける。俺は次なる瞬間を待って全神経を集中した。その集中力が今日の試合で発揮されなかったのはやや残念だが、今はそんなこと気にしている場合じゃない。

「あ、こんな所にあった」途端に四元さんの前傾姿勢は元に戻り、棚の上のマジック掴むと間髪いれずに振り返った。「わ、えっ……」

 四元さんは俺の態勢を見て固まる。あまりに唐突だったので頭を元の位置に戻す余裕が無かった。

 気まずい態勢で気まずい沈黙が流れた。四元さんは条件反射でスカートを抑えている。

「ちょっと」

「な、何……?」

 四元さんの目つきがいつもの冷たいそれと違う。率直に言えば怒ってる。当然ながら。これは随分でかいアンフォーストエラーをしてしまったかもしれん。

 四元さんは決然とした表情になり、そばに置いてあった日野が七夕で手に入れた大きいテニスボールを持った。

「バカっ」

 予想はしていたが、自分がやってしまったことを考えるとこれをガードしてしまってはちょっと紳士ではないだろう。むろん、スカートの中を覗こうとしている時点で紳士じゃないから、という見方も確かに一理ある。しかし、とにかく俺は四元さんが投げつけた特大テニスボールを紳士として真摯に顔面で受けた。

 ぼこっ、と鈍い音とともに顔面に痛みが走る。

「変態。スケベ。もうマネージャー辞めるから」

 最後の言葉に俺はガバッと身を起こした。それはダメだ。

「待ってくれ。ごめん、謝る。マネージャーは辞めないでくれ。君がいてくれないと困る。さっきだって、その、見えてないから。断じて見えてない」その時、鼻の奥からツーっと何かが垂れてきた。指で拭うと鼻血だ。「これは、さっきのボールを食らったせいだから、その……」くそ、拭っても拭っても出てきやがる。「決して興奮の産物ではない。本当に見えてないから」俺の説得は俄かにあり得ないほど説得力に欠けるものになってしまった。

 四元さんは俺を睨んでいる。俺は鼻血を拭っている。緊張した一瞬が流れた。

「分かった。じゃあ、辞めるかどうかは保留にしとく」

 ホッと気が緩むとまた鼻血がドロドロ垂れてくる。四元さんは特大テニスボールを元の場所に戻し、つかつかと扉まで歩いて行った。そのまま出ていくのかと思ったら、ドアの前で「そうだ」と思い出したように呟いて、こっちを振り返った。

「坂上くん、もっと根性見せなよ。じゃないと周りからなめられる。さっき小俵高校の先生が『坂上が去年優勝したのは偶然だったのかな』なんて言ってたから」

「それホント?」

「本当」

 四元さんは戸を開けて出て行った。

 俺は小俵高校の先生の挑発よりも、それに対する四元さんの反応に気持ちが動いた。四元さん、君はその一見無関心を装いながら意外と負けん気の強いところが、実に魅力的だよ。慰めの言葉の次に入手困難な激励の言葉をもらった俺は、今更ながらに一回戦敗退が悔しくなってきた。


 〇


「一つ判然としないことがある」

 翌日、ダブルス不参加の俺と我門と日野は大原高校で唯一の参加ペアである木戸と大場の試合を体育館横の通路から眺めていた。いや、俺はほとんどちょうど真下で今日もいそいそと試合の記録をつけている四元さんを眺めていた。

「何だ、いきなり」

「四元さんは何故マネージャーをやっているんだろうか?」

「それはお前が、球技大会の後に『今度こそ君に優勝杯を捧げたいからマネージャーやってくれ』って頼んだからだろ」

 日野が笑い出した。

「坂上って普通に勧誘できないの?」

「至って普通だろうが。てか、俺が言いたいのはそうじゃなくて、何で四元さんがそれを受諾したかということだ。まさか彼女は普段、俺に対してあれほど冷たく当たっているが、その実俺のことが好きなのか」

 昨日流したばかりなのに、危うく鼻から流血しそうになる。

「坂上の前向きで強いメンタルは敬服に値する」

「もう一度入院してCTスキャンでもして来いよ。多分、脳みその代わりにテニスボールでも詰まってるぜ」

「じゃあ、お前らは分かんのかよ?」

「知らんな」

「俺は本人に直接訊いたことがあるよ」

「なにっ」

 日野の予想外の返答に、俺と我門は同時に反応した。

「四元さんは、テニスの試合を見るのが好きみたいだよ」

「そうなのか?」

 我門は意外そうだ。

「それだけか?」

 俺は不満だ。

「そう。でも前向きに捉えれば坂上の試合を見るのも好きだったということになるよ」

「まあ、そうだが……」

 喜ぶべきかどうか迷った。どうも日野にのせられているような雰囲気が拭えない。

「お、そろそろ決まりそうだね」

 日野はコートの方を指さした。

 ネットに向かって左、アドバンテージサイドからの大場のサーブだ。木戸は腰を落としてネットとサービスラインの真ん中くらいに構えている。

 大場がトスを上げて派手な打球音を響かせる。が、フラットサーブはややワイドに逸れてフォルトになった。大場はすぐにセカンドを打つ態勢にはいる。

 二回目のトスはフラットの位置よりもややスピンより。しかし中途半端な場所だなと思っていると、大場は何のためらいもなくリバースサーブを打った。リバース回転はスライスの逆、つまり左利きの人が打つスライス回転になるのでアドバンテージサイドでは外に切れていく。ボールの柔らかい軟式の球ならまだしもコントロールが効くかもしれないが、硬式の球で打つとは恐れ入る。意表を突かれた相手は何とか当てて返球したものの、ボールは浅く浮く。木戸が飛び出し、強烈なボレーをほとんどネットに平行と言えるくらいの角度で叩き込んだ。

「40―15」

 審判の声が聞こえてくる。

 ヒュー、と我門が口笛を吹く。

「相変わらず、奔放だね」

 デュースサイドに立った大場は再びボールをバウンドさせている。そのままトスアップにむかうと思いきや、今度は最小限の動きで軽いアンダーサーブを打った。ほとんどドロップショットと言えるほど浅い。相手は驚いて一瞬固まり、やや遅れて走り出したがサーブはあと少しのところでネットを超えなかった。

「ははは、惜しいな」

 セカンドサーブはファーストのようなフラットをセンターに入れ、見事にエースを取って、木戸と大場は本戦出場を決めた。

「無茶苦茶なプレーをするな」

「ま、型にはまらなくていいんじゃないか」

 下を見ると四元さんは頬杖をつきながら、しげしげと試合に見入っている。なるほど、以前はあの眼差しが俺の試合に向けられていたのか。だとすると昨日の部室での「根性見せなよ」という四元さんの言葉は「また坂上くんのすごい試合が見たいなぁ」を照れ隠し語に翻訳したものだったということ。コースを隠すのが上手いにも程があるぜ、四元さん。おかげで返球し損なったじゃないか。試合開始から組み立ててきたサーブの配球が終盤にコースの読みにくさとなって効いてくるように、四元さんの「根性見せなよ」という言葉は一日経った今になって俺の胸にズシリと、タイブレークでの1ポイント並みの重さでのしかかってきた。

 是が非でも君の期待に応えようじゃないか。


 〇


 試合続きの土日が開けると、もう学校はあと三日しかなかった。終業式が近づき、三時間の授業が二時間になったので、油断すると布団から起き出した時には学校が終わっているということになりかねないのは困った。

 学校への危うい出席とは裏腹に、勝手に推量した四元さんの期待に応えるため部活には打ち込んだ。熱心に打ち込んだ。打ち込み過ぎて木戸が「毒キノコでも食ったん?」と言ってきたので、木戸めがけてボールも打ち込んだ。

 終業式の日はめずらしく始業に間に合った。しかしながら体育館に座っていても、いつも通り全校生徒がざわざわしていて校長先生の言葉は何一つ聞こえない。プロテニスの大会の主審は「プリーズ」とか「サンキュー」とか言うだけで会場を静かにするが恐らく彼らを雇っても意味はないだろう、とすごく意味のないことを考えながら周りを見回した。

 出席番号順とは言うものの、『楽しければすべてよし』という暗黙の規則を何よりも大事にする大原高校の生徒はそれぞれ勝手に入れかわり、各々友人との談笑を和気あいあいと楽しんでいる。普段なら俺もそうしているところだが、久方ぶりの早起きで頭がぼんやりしている内に入れかわる機会を逸して、気がついたら校長先生が話し始めていた。

 入れかわり損ねたことを悔やみつつ右隣を見ると、なんと六組列には鈴谷さんが座っており、少し退屈そうにしている。後悔は一瞬で消え、むしろ入れかわり損ねて良かったと思いつつ、すぐさま話しかける。

「鈴谷さん、おはよ。入れかわり損ねた?」

「あ、坂上くん。おはよ。うん、ちょっとね」

「そっか、俺もそうなんだけど、鈴谷さんがいてよはっはへ」

 あくびが出て、最後の方は訳の分からない言葉になった。

「眠そうだね」

「うん。柄にもなく早起きをしたから」ちょっと君の膝の上で寝かせてくれないかい、という言葉はかろうじて飲み込んだ。「この前の試合どうだった?」

「シングルスは本戦の一つ手前で負けちゃったけど、ダブルスは本戦にいけたよ」

 嬉しそうに両手をグッと握った鈴谷さんのしぐさに癒される。

「おお、おめでとう。ペアは橋本さんだっけ?」

「そう。この前、木戸くんと大場くんに練習手伝ってもらったおかげかな」

「えっ?」

 ものすごい勢いで眠気が吹き飛んだ。

「テスト前の部活動禁止期間中に総合公園のテニスコートを取って練習したんだけど、あれ、坂上くん聞いてない?」

「いやあ、初耳だね」あの野郎ども。「どんな練習したの?」

「ミックスをやりながら、ダブルスの動きとか」

 ミックスという鈴谷さんの言葉で、やってはいけないミスをしたプロ選手のように叫びそうになると、ちょうど終業式が終わって生徒が立ち上がり始めた。

「本戦頑張ってね」

 と精一杯普通の声で言った俺の心のガットは縦三本、横五本くらいは切れていた。

「ありがとう。頑張る」

 鈴谷さんは教室へ戻る生徒の群れに飲まれて消えた。

 教室へ戻るために渡り廊下を歩いていると、後ろから我門がやって来る。

「めずらしく来なかったな。女とでも話していたのか?」

「まあな」

 木戸と大場め、黙っていやがって。どういう報復をしてくれようか。

 教室へ戻ると、ホームルームはいつものように中田先生が薄い内容を膨大な時間を使って話すので容易に終わらない。ようやく終わって帰ろうとすると、待ちかねたように、ブロ長が入って来た。体育祭モードなのか、髪を編み込んでいる。

「体育祭の連絡です。ウチのブロックは来週の月曜日からダンスの練習を始めます。皆、時間が許す限りじゃんじゃん来てねぇー」

 と中田先生も見習うべき簡潔な報告をして、ブロ長はボールを追いかけるボールパーソンのように慌ただしく去っていった。

 昼食を買いに行く前に部室へ寄ったが、木戸も大場も日野も四元さんもいなかった。先に買いに出たようである。

「昼飯どうするか?」

「んー、おばちゃんに行きますか」

 おばちゃんとは大原高校の近くにあるテイクアウト専門の弁当屋である。その名の通りおばちゃんが自宅で経営していて、これといった名称も看板もなく、その存在を知るには高校内に流布する噂のみが頼りという些か隠れ過ぎた名店である。メニューはオムライスとチャーハンの二つのみだが、二五〇円という高校生の財布を考慮した値段設定に加え、これでもかというくらいの高校生の胃袋を過信した山盛りによって大原高校内に少なからぬ常連客を抱えている。

 この弁当屋に、高校の目の前のパン屋、道一本向こうのローソンを加えた三つが、大原生の胃袋を賄う三大勢力であると言っても過言ではないが、テイクアウトを考えなければ、少し離れたところに大原高校の学生証で割引してくれるラーメン屋もあったりする。これだけ周囲の環境が良いので、常にエネルギー補給が十分な大原生はいきおい奔放な学校生活にブレーキをかけ損ねるのである。

「ダンス練とは、面倒だな」

 昼食を買いに学校の外へ出ると、我門がぼやいた。

「体育祭の練習を面倒とは、怠惰な奴だ」

「去年の文化祭の準備に、合計で僅か半日しか顔を出さなかったお前に言われたくない」

「今年の俺は違うぜ。ダンス練は皆勤を狙う」

「なんで、そんな気合入ってんだ?」

「しっかり覚えて、姉さんに手取り足取り教える義務があるからね、俺には」

「けっ、羨ましくもなんともねーぞ」

「そう羨むな。お前には彼女がいるだけいいだろうが」

 のらくらと歩いておばちゃんの店の前まで来ると、誰も並んでいない。さすがは通向けの店。あまりの空き具合に二五〇円では申し訳なくなりそうだ。

「すいませーん」開いた出窓から俺が声をかけると、おばちゃんはすぐに出てきた。「俺、オムライス」

「んじゃ、俺も」

「オムライス二つね。はい、ちょっと待っててね」

 おばちゃんは奥へ入り、料理を始める。

「それにしても、宮野先輩には本当に彼氏はいないのか?」

「いないねぇ。姉さんは旅に恋してるから」

「それじゃあ、お前の入り込む余地もねぇじゃん」

「それはどうかな」

「でたな、根拠のない自信。でもお前、彼女欲しがっている割には誰にも告白しないよな」

「中々一人に絞るのが難しくてよ。俺は女の子の魅力に聡いからねぇ。素敵な子が周りに溢れちゃって、もう」

「ただの女ったらしじゃねぇか。その無駄に広いストライクゾーンを縮めないと、他の奴らにどんどん取られていくぞ」

「うるさい」

 我門の言葉で鈴谷さんの言っていたミックスを思い出し、風の強い日にテニスをしているかのように気分が苛立ってくる。

「はい、お待ちどうさま」

 俺たちはオムライスを受け取って金を払った。

 部室に戻ると、日野と木戸と大場がガツガツと飯を食っていた。まことに残念ながら四元さんがいない。毎年五月にパリ郊外のローランギャロスで開催される全仏オープンテニスは四大大会の一つであり、その赤々としたクレーコートは歴史上数々の大番狂わせを生み出してきたので「魔物が棲む」とさえ言われている。そして今ここ、大原高校のテニス部の部室は四元さん不在のため、空気にはそのローランギャロスの赤土のごとく潤いがない上、魔物ならすでに俺の生活の番狂わせを生み出した阿呆が三人、飯をがっついているので、部室はローランギャロスのようだと言えるかもしれない。しかしながらレッドクレーではボールが弾むが、この部室で気分が弾まないことは明白である。というか、全仏オープンテニスに失礼である。あの大会はこんな不毛空間の何百倍も面白い。

「四元さんは?」

「バイトだって」

「誰か茶を作んないと」

「めんどい上に、野郎の作ったお茶を飲まなくちゃならないとは」

「女子のを一緒に飲まないか?」

「陣が試して、大丈夫やったらそれでいこか」

「まあ、無理でしょ。河内さんがキレて今後一カ月くらいコート使えなくなりそう」

「そうなったら、それはそれで面白そうだけどな」

「陣は、ますます女テニの注目を集められるんじゃない?」

 阿呆な会話を無視してオムライスをかきこむ。相変わらず、おばちゃんの弁当の量は半端じゃない。ペットボトルのお茶で飲み下しながら何とか食べきった。

「うし、練習するぞ」

「何で最近やけに気合入ってるの?」

 大場が不思議そうな顔をした。

「負けっぱなしが腹に据えかねるんだ」

「ホンマか?そんな柄やないやろ。どうせまた、女がらみやろが」

「黙れ。そして最後に部室を出る奴が茶を作れ」

「そうカッカすんなや、陣子。また、へばってまうで」

 からからと笑っている木戸を見て唐突に例のことを問い詰める義務があったことを思い出す。

「木戸コーチぃ、わたしある噂を耳にしたんですけど」

「何や?」

 木戸は、今度はどういう展開だろうか、と探るように紙パックのレモンティーを飲みながら聞いている。

「コーチがわたしの他にも特訓をつけてる女がいるっていう噂なんですけど、確か名前は鈴谷さんと橋本さん?」

 俺がここまで言った時、木戸はゲホゲホとレモンティーで咽た。

 ほほう、と我門と日野が興味深そうに声を上げる。

「あれぇ、大場コーチ、なんでそっぽ向いてんですか?噂だと木戸コーチと大場コーチでその二人とミックスダブルスをした、とか」

 木戸はまだ咽ている。大場がびくっと反応して振り返った。

「いやあ、それは単なる噂だろう、陣子ちゃん。真実とは限らないぜ」

「せ、せや、大体誰から聞いたんや?そないなこと」

「鈴谷さんから直接聞きましたー」

「お前らマジで放課後秘密特訓やってたのか」

 我門が半ば感心、半ば呆れるように言う。

「驚きだね」

「さあ、練習や、練習や。今日もビシバシ扱いたるで。覚悟せいや、陣子」

 木戸と大場がそそくさと部室を出て行くと、俺たちは大笑いした。

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