第16話

 長谷川が陽菜を連れていったのは、自分の部屋では無く彼女の部屋だった。陽菜をソファーに座らせて、長谷川は目の前にコーヒーの入ったマグカップを置く。

「落ち着きました?」

「すみません。取り乱してしまって……」

 陽菜は砂糖もミルクも入っているその茶色い液体を見つめながら一つ頷いた。目元は少し赤いながらも、もう涙は止まっていて、口元には困ったような笑みさえも浮かべている。

 長谷川はそんな陽菜のそばに座り込んで、心配そうに彼女をのぞき込んだ。

「何があったか話してもらえますか?」

「別にたいしたことじゃ無いんで……」

「陽菜さん」

 まるで窘めるかのように長谷川は陽菜の名を呼ぶ。のぞき込んでくる視線は優しいが、その奥にはやはり心配が見え隠れしていた。

 陽菜は諦めたように息をつく。

「本当にたいしたことじゃないし、私の気のせいかもしれないんですが……」

 それでもいいですか? そう前置きをして、陽菜は今朝からの出来事を話し始めた。


「そうですか……」

 顎に手をやったまま考え込む長谷川を見上げて、陽菜は一息ついた。

「ゴミの件は子供のいたずらかもしれませんし、追いかけられたのだって、もしかしたら気のせいだったのかもしれませんけど……」

「もちろんその可能性もありますが、……怖かったですね」

 労れるようにそう言われて、目の端がじわりと熱くなる。流れそうになった涙をぐっと堪えれば、大きな手がゆっくりと陽菜の頭を撫でた。

 まるでその大きな手から熱が移るかのように、顔が熱くなってくる。思わず零れた一滴を慌てて袖で拭うと、長谷川の気配がふっと柔らかくなった。

「泣いても良いんですよ?」

「もう泣きませんっ!」

 半ばやけくそにそう言うと、「そうですか」と微笑まれた。その顔に先ほどとは別の意味で頬が熱くなる。

「それにしても、気のせいでは無かった場合は問題ですね……」

「え?」

「もしかしたら陽菜さんがストーカーされているという可能性も……」

「や、……いやいやいや! それはないですよ! 私別にモテませんし、告白されたのだって長谷川さん入れなかったら大学生の時が最後ですよ?」

 まるで恐れ多いかのように陽菜が首を振りながらその可能性を否定する。しかし、長谷川はそんな彼女を注意するように少しだけ声色を強くした。

「だとしても可能性が全くないってわけじゃ無いでしょう? それならば、しかるべき警戒をするべきです」

「……しかるべき警戒とは……?」

「本当にストーカーだという証拠が見つかれば警察にも力を借りつつ、部屋の鍵を増やすなど自分でも防衛策を取っていくのがベストでしょうが、それまでは一人にならないというのが得策でしょうね。会社に行ってる間や家に居る間は良いとしても、通勤時間や休日の外出時はしばらく誰かと一緒の方が良い」

 もっともな意見に陽菜は一つ頷いた。しかし、通勤時間をいつも誰かと一緒というのは難しいものがある。しかも、『ストーカーに遭ってるかもしれないから付き合ってほしい』というのはなんとも頼みにくい理由だ。一歩間違えば勘違い女とレッテルを貼られかねない理由である。

「通勤時間は俺が付き合いましょう。休日の外出は一人で出るのは我慢してもらわないといけないですが……」

 さも当然と長谷川がそう提案してきて、陽菜は目を瞬かせた。そして、勢いよく両手を振る。

「いやいや、それは悪いですって! 長谷川さんにそこまでして貰わなくても、家の近い誰かに頼みますよ! それに出来るだけ大通りを通って帰りますし!」

「家が近いと言う話なら、俺が一番近いのでは? それにどれだけ大通りを通ろうが、さっき君が人につけられたかもしれない道は通りますよね?」

「それはそうですけど……」

 確かにあの暗い道はどんなに遠回りして大通りを歩こうが結局は通ってしまう道だ。今日の事を思い出せば、誰かと一緒に帰るというのは確かにありがたい提案だった。しかも、長谷川なら男性でもあるので尚のこと心強い。

 しかし、陽菜は難しい顔をしたまま考え込んでいるばかりで、長谷川の提案には難色を示しているようだった。

「どうかしましたか? 俺では不満ですか?」

 しびれを切らしたように長谷川がそう聞いてきて、陽菜は眉を寄せたままの顔を上げた。そして、ゆっくりと首を左右に振る。

「別にそう言うわけじゃ無いんですけど、なんか悪いなって……。営業さんって、この時期特に忙しいじゃないですか? 長谷川さんは担当件数も多いですし、補助の立場からすればこれ以上長谷川さんに余計な仕事は増やしたくないって言うのが正直なところで……」

「なんでこんなところで仕事モードなんですか……。それに、君を助けたいって気持ちは俺の思いでもあるんですよ。だから……」

「そ、それも、実は理由の一つで!」

 長谷川の声をかき消すように発せられた声に長谷川は首を傾げる。そんな長谷川を後目に陽菜は言葉を続ける。

「いや、なんか、私まだ告白の答えも出してないのに、長谷川さんのそういう気持ちに甘えるのもいかがなものかと思いまして……」

 消え入りそうになる言葉尻に陽菜の迷いと羞恥心が見て取れた。どうやら陽菜には、長谷川に送って貰うということが彼の好意を利用しているように思えるのだろう。

「それなら、こうしましょうか。俺が付き添って帰った日は一緒に夕食を食べましょう。陽菜さんは帰り道安心して帰れますし、俺は君を口説く口実が出来る。どうですか? これならお互いに利点があるでしょう?」

「え!? でも、それじゃぁ……」

「……なんですか? まだ何か不服が? それとも……」

 一緒に食事をするのが嫌なのかと聞きそうになった長谷川は、陽菜が発した言葉に目を丸くした。

「私、別に長谷川さんとご飯食べるのとか嫌じゃ無いので、私の不利益になることが一つも無いですけど……、それでもいいんですか……?」

「…………」

「……長谷川さん?」

 伺うような陽菜の声に長谷川は少しだけ間を置いた後、陽菜の耳に届くか届かないかぐらいの小さな声を出した。

「……好感度がいくらか上がってるようでよかったです」

「は?」

「独り言ですよ。……もちろん構いませんよ? 君の不利益にならないんなら俺としても嬉しいですから。では、しばらくの間それでよろしくお願いしますね」

「はい。私の方もよろしくお願いします」

 そう返事をすると、長谷川がにっこり笑う。

「では、今日からですね?」

「え? でも今日は、私お弁当買って……って、あれ?」

 陽菜は帰宅途中、コンビニで弁当を買ってきている。その事を思い出しての発言だったのだが、どうにもそのお弁当が見当たらない。

 陽菜が自分の荷物の周りを探していると、長谷川が陽菜の隣にあったビニール袋を持ち上げた。

「こんなぐちゃぐちゃのお弁当食べるんですか? 君も物好きですね?」

「あ……」

 ビニール袋の中でお弁当はしっちゃかめっちゃかになってしまっていた。走った衝撃からか、蓋は開いていて、ビニールの方におかずやご飯が飛び出してしまってる。

 そのビニール袋を受け取りながら陽菜はぐったりと項垂れた。

「……もったいないので食べられるところは食べます」

「じゃ、俺も手伝いますよ。だから君は俺の食事の方を手伝ってください」

 その言葉に陽菜は思わず頷く。


 そうして、その日から陽菜と長谷川は一緒に通勤することになったのだった。

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