第15話

「あぁ、もう、最悪! 寝坊した!」

 バタバタとマンションの廊下を走りながら、陽菜は腕時計を見下ろした。時刻は七時半と、普通に職場に向かえば余裕で間に合う時間なのだが、今日は担当している営業の人が使う書類の作成を朝にしようと思っていたので焦っているのである。

 エレベーターが開き、マンションのロビーに躍り出た陽菜はイライラとその場で足踏みをしながらオートロックの扉を開ける。

 そして、扉の先の光景に目を見開いた。

 そこには、マンション住民のポストがあるのだが、どうにも一つだけ様子がおかしい。通常なら閉められているはずの長方形の扉は開け放たれており、その中にたくさんの紙ゴミのようなものが丸めた状態で詰まっている。入りきらなくなったのか、そのゴミは床にまで散乱している有様だ。

「なにこれ……」

 思わずそう呟いた瞬間、そのポストが自分の部屋のものだと陽菜は遅れて気がついた。顔を青くして駆け寄ると、本来入っているだろう郵便物は奥に奥に押し込められてしまっている。そのどれもが一回封が開いた状態になっていた。


◆◇◆


「陽菜先輩、元気ないですねー」

 朝礼を終え、いつものように仕事に取りかかった陽菜に芽依はそんな間延びした声を向けた。

 あれからどうにかゴミを片付け、出勤した陽菜は、作る予定だった書類をなんとか作り終えることが出来た。しかし、どうにもスッキリとしない気分のなのは今朝のあのポストを見たからだろう。

 まるで嫌がらせのようにゴミが詰め込まれているポストの状態を思い出して、陽菜は顔を再び青くした。昨晩帰ってきたときは何も無かったのだから、犯行はその後から朝にかけてということになる。

(ただのいたずらよね……? もしかして、片付けずに警察呼んだ方がよかったのかな? でも、大事にはしたくないし……)

 憂鬱な気分のまま息を吐き出せば、芽依が陽菜の隣に身を寄せてきた。その顔は陽菜とは反対にどこか楽しそうである。

「先輩。もしかして、あの後長谷川先輩と何かあったんですか?」

「はぁ?」

 耳元で囁かれた言葉に陽菜は思わず剣呑な声を出す。

「あれ、違いましたか? 先輩朝から顔色悪いし、なんか思い悩んでいる感じだったので、てっきりそうなのかと……」

「違うわよ」

 ふーと、息を吐き出しながらそう言うと、芽依は可愛らしく首を捻る。

「じゃぁ、なんで……」

「なんでもないわよ! ほら、良いから仕事する! この前の見積書、まだ提出してないでしょ? あれ、今日の午前中締め切りだからね!」

「えぇぇ! そうでしたっけ? 芽依、今から超特急で頑張ります!」

 警察官のように敬礼をして、芽依は小走りで自分のデスクへと帰って行く。その後ろ姿を見ながら、陽菜は自分へも発破をかけるように両手で頬を叩くのだった。


◆◇◆


 なんとか仕事を終え、陽菜が帰りの途についたのは、二十時を回った辺りだった。職場からマンションまでは電車と歩きで合計三十分ほどの道のりだ。手にはいつもの鞄の他に、コンビニの弁当が入ったビニール袋が握られている。

 暗く、すれ違う人もいない帰り道を陽菜は俯きながらとぼとぼと歩く。思い出すのは今朝の衝撃的な光景で、足取りは自然と重くなっていた。

(帰ってまたあの状態だったらどうしよう。流石に警察呼ばなくっちゃ駄目だよね……)

 等間隔に並ぶ街灯が暗い夜道を照らす。それ以外に道を照らす明かりは無くて、陽菜は身震いをした。いつも通っているはずのその通勤路が今日はどうにも恐ろしく感じられて仕方が無い。

(今日は駄目だわ……。もう早く帰ろう)

 そう思いながら、陽菜はいつもより少しだけ足早になる。その時、背後で自分では無い足音がした気がした。その音に思わず息をのむ。

 確かめるようにリズムを変えながら足を動かすと、それとは違うリズムの足音がまるで陽菜を追うように聞こえてきた。


 誰かがついてきてる。


 それを理解した瞬間、陽菜は後ろを振り返ること無く走り出した。恐怖が全身を埋め尽くす。冷や汗が背にも頬にも伝い、両手が震えてどうしようも無かった。どうか気のせいであって欲しいのに、後ろの足音も同じように走り出したのが確かにわかって、陽菜は泣きそうになった。

 その場から家までは走れば五分もかからない。しかし、今の陽菜にはその五分がとてつもなく長く感じられた。

 それから数分後、陽菜は無事マンションまでたどり着いた。建物の中に入ると、陽菜はへなへなと力なく座り込んでしまう。額には汗の玉が浮いて、両足はがくがくと震えてしまっていた。

「陽菜さん?」

「え?」

 降ってきた声に思わず顔を上げると、長谷川が不思議そうに陽菜を見下ろしていた。その顔はどこか陽菜を心配しているように見える。

「どうしたんですか? いきなり駆け込んできて……。汗、すごいですよ?」

 皺の無いハンカチを取り出すと、長谷川は陽菜の目の前にしゃがみ込み、彼女の額を拭いた。

「長谷川さん……」

「はい?」

「こ、こわかったっ――……」

 安心したのか、陽菜の両目からぽろぽろと大粒の涙が転がり落ちる。長谷川はその様子に驚いたように目を見開いた。

「何かあったんですか? もしかして、不審者にでも?」

「わか、ら……」

 視界がかすみ、嗚咽が喉の奥にまでせり上がってくる。陽菜は必死で目を擦って涙を止めようとするが、涙は後から後から溢れてとどまるところを知らないようだった。

「話は部屋でしましょうか。立てますか?」

 涙を拭いながら、長谷川はそう優しく聞いてくれる。陽菜はその声に、頷きながら足に力を入れた。しかし、陽菜は全く立ち上がれない。立ち上がれる気配さえ無い。どれだけ力を入れても、足はがくがくと震えるばかりだ。

「あ、あれ? あの、ごめんなさ……」

「失礼します」

「へ? きゃぁっ!」

 そう一言断って、長谷川は軽々と陽菜を持ち上げた。パンツスタイルなので下着が見えてしまう心配は無いのだが、どうしようも無く恥ずかしい格好に陽菜は顔を赤くした。

「お、降ろしてください!」

「降ろしたらちゃんと一人で帰れるんですか? 無理でしょう? 良いから今はこのまま運ばれててください」

 そう言って、長谷川はそのままオートロックを解除してエレベーターに乗り込んだ。陽菜は長谷川の首に腕を回しながら、まるで不安な子供がそうするかのように長谷川をぎゅっと抱き寄せるのだった。

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