第8話 壊れたママの足りない部品

壊れたママの足りない部品(1/2)

 そのとき、私は本当にぼんやりしていたから、その男の子が言った、

「お姉さん――――に似てるね」

 という言葉の、一番肝心な部分を聞き逃したのだった。


「ごめん、何に似てるって言ったのかしら?」


 その声があまりに幼く可愛らしかったので、それが母性本能とでも言うべきなのか、私は振り向いて聞き返した。そして、その声よりもはるかに可愛らしい男の子の佇まいに思わず顔をほころばせた。


 どこの私立学校プレパラトリーの生徒だろう。金色の髪に真夜中色ミッドナイト・ブルーのブレザーが良く映え、胸の小さなネクタイがその可愛らしさにほんの少し大人びた雰囲気を加えている。


 私譲りの明るい茶色の髪に、夫譲りの青い目をしていたに違いない私たちの息子にも、この制服はさぞかし似合っただろう――無意識にそんな考えが頭に浮かび、私はひとりで傷ついてくちびるを噛んだ。


 私の――いや、私たちの息子は、もうこの世にいない。いないどころか、彼はこの世界に本当に存在したかも定かではない。なぜなら、彼は私のお腹の中で死んでしまった。出てくるべき世界に出る前に、その心臓を止めてしまったのだ。


 ふくらみかけた私のお腹は、病院で再び小さくなった。息子だった血と肉の塊は銀色の洗面器に掻き出され、医者は私にしばらくの安静を指示すると、忙しそうにどこかへ行ってしまった。ベッドで仰向けになった私の隣には夫がいて、無言で私の手を握っていた。


 そうして、私たちの息子はこの世から消えてしまったのだった。けれど、これが何のための手術だったのか、息子はどこへ行ってしまったのか、頭ではわかっていたというのに、同時に、私はなぜか、いつまでも彼の産声が聞こえてこないことを不思議に思っていた。


『私たちの息子はどうしたのかしら。静かに眠っているのならいいけれど』


 夫はその半年後、私との結婚を終わらせる意志を告げたときに、『あのときの君の言葉が耳を離れない』と、そう言った。そのとき初めて、私は彼もまた同じように苦しんでいたのだという事実を思い知らされた。


 私たちが再び立ち上がるためには、あの産まれてくることもできなかった息子の死を忘れなければならなかった。けれど、同じ悲しみの沼に囚われた私たちは、手を取り合っても、やはりそのまま沈むだけなのだった。


 私は離婚に同意した。そして、そのまま、風に落ち葉が別々の方向に吹かれるように道を分かつた。


 職歴のなかった私は、引っ越し先の都会――ロンドンの食料品店で雇ってもらい、細々と暮らしていた。体重は落ち、不幸が仮面のように顔に張りついて離れなかったため、皆は私を夫に逃げられたか、それとも夫を亡くしたのだと言い立てた。もしくは、気狂い男マッド・ジョン――いまロンドンで立て続けに起こっている婦女連続殺人事件の生き残りだとも噂した。


 けれど、新聞に載せられたマッド・ジョンから逃げ延びた被害者の話というのは、後に目立ちたがり屋の狂言だったと判明したし、もしほかにそんな人間がいたとしても、それは私のことではなかった。


 それに、私がもしその殺人鬼に捕らえられたとしても、特段抵抗もせずに殺され、彼の好きな部位を切り取られるに任せたに違いなかった。彼は殺した遺体の一部を切り取ってどこかに保管し、ほかのすべては捨てるのだ。


 神の教えでは、自殺した者や罪を犯した者は地獄へ落ちるが、そうでない人間たちは天国へ行くことができる。だから、マッド・ジョンに捕らえられ、殺されるという事態は、私にとって僥倖だった。そこから逃げるはずもない。


 つまり、私の噂をする彼女たちは幸せで、子供を亡くすという不幸がどんなものか、想像もつかないのに違いなかった。そして、仕事のないときは、こうして日がな公園のベンチで惚けている私を題材に、あらぬ物語を創り上げているのだった。


「お姉さん、大丈夫?」


 思考に心を奪われていると、男の子が私を覗き込んだ。――青い大きな目。長いまつげ。


 ダミアン、息子につけるはずだった名前が喉まで出かかり、ため息で誤魔化す。


「大丈夫よ。……それにお姉さんなんて呼んでも何も出ないわ、ごめんなさいね。キャンディひとつ持ってないの」

「僕がキャンディを欲しがるような子供に見える?」


 すると、彼は怒ったように胸を張った。ああ、その小さな背中に手を回し、力の限りに抱きしめたい。衝動が私を襲い、胸がぎゅっと切なくなる。すると、何を思ったのか、彼は私の手を無造作に握り、引っぱった。


「どこへ行くの?」

立ち上がりながら慌てて聞くと、

「僕の家」

いっぱしの男のような笑顔で、彼は答える。手の力は緩まない。


 もちろん、相手は小さな子供だ。その手を振りほどこうと思えば、簡単だ。


 けれど、私はそうしなかった。小さな子供の頼みに、大人が力で断ってはいけない。これも母性本能なのだろうか、それとも息子の面影を重ねているだけなのか、私は彼の望みに応えたくて必死だった。


 当然、配慮するべき事実が胸に突き刺さってはいたが、その唯一の懸念にも、彼は、

「僕のママは、いないんだ」

 そう言って、私の心を籠絡したのだった。




 まるで草原を駆けるように、彼は軽々と伸びやかに小道を走り、やっとのことでそれに追いついた私が見たものは、美しい庭に囲まれたこぢんまりとした家だった。


 黒い鉄柵に絡みついた薔薇は大輪の花を咲かせ、その間からは小さな白い花が、どこからかすがすがしいミントの香りも漂ってくる。


 その向こう側に建つ家は灰色で、北側の屋根には苔が厚く生えていたが、それもまた趣の一つとして訪れた人々の目を楽しませるに違いなかった。


「こっちだよ」

 見とれていると、せっかちに声が呼んだ。


「待って」

 彼が開けた門をくぐり、私は庭へと足を踏み入れた。


 外側からは手入れがされていると思った庭は、しかし中から見ると草が絡まり合っており、それをうまく飛び越えようとして、

「痛っ」

 薔薇の棘に腕をひっかかれた。白い肌を赤い血が伝う。すると、

「大丈夫?」

 青ざめた男の子が飛んできて、私の傷に口をつけた。だめよ、と諭す暇もなかった。


 彼の舌が肌を行き交った。動物が瀕死の子供を舐めるような、その必死な舌使いから、もしかしたら彼の「ママ」は薔薇の棘に刺されて死んだのかもしれないと思った。


 薔薇は毒を持ってはいない。けれど、その傷口から黴菌が入れば、死んでしまうこともあるかもしれない。昔はそうして人が死んだものだと、亡くなった母が言っていた。だから、彼女は幼い私が土で転んで傷をつくるたび、まるで死に神を見たような顔で傷口を消毒したのだった。


「もう平気よ」


 許していると、いつまでも傷を舐めていそうな彼を、私はたしなめた。彼は顔を上げた。青ざめていたその頬は、健全な薔薇色を取り戻していた。

「大丈夫」

 繰り返すと、

「でも、気をつけなきゃ」

 彼はそう言って、機敏すぎる動作で立ち上がり、家の戸口まで駆けた。そこで振り向く。


 私も立ち上がり、彼の後に続いた。そういえば、と父親のことを聞いていないことに気がついた。


「あなたにママはいないのね。それなら、パパは?」

「いない」

 彼はすぐさまそう答え、少し目を逸らすようにしてから、

「……いまは」

 と付け加えた。


「お父様がいらっしゃらないのに、お家に上がっていいのかしら」

 私が聞くと、

「いいよ。誰でも入れていいって言われてるんだ」


 その言葉が本当なのか嘘なのか、私に判断する術はなかった。彼は緊張した面持ちでこちらを見つめている。


「……お邪魔します」


 私は小さくそう言うと、家の中へ足を踏み入れた。男の子はほっとしたような顔をした。その可愛らしい表情を見て、私は彼をよろこばせたいがために、その望み通りにしたのだということを改めて理解した。そして、亡くなってしまったのだろう彼の母親に思いを馳せた。


 私と私の息子を隔てたのも死であったように、それはこの世で一番強い絆でさえも容易く切断する力があるのだと言えた。どんなことをしても、死んだ人間は決して戻らない。そこに一片の希望も許さないもの、それが死なのだ。


「ここがリビング。向こうがキッチン。それからこっちが僕の部屋だよ」

 男手一つの生活にしては整然とした家の中を、彼は案内して回った。


「二階は屋根裏部屋だけで、物置になってる」

 階段を見つけて、それを見上げた私に彼は言った。


「もう何年も入ってないから、埃だらけなんだ」

「そうなの……」


 何気なく頷いたとき、ギイ、床板が軋むような音がした。私たちは二人とも身動きしていないというのに、だ。それも、音は足元ではなく、見上げた屋根裏部屋から聞こえたような気がした。


「いま、上で音がしなかった?」

 私が首をかしげると、

「ううん、気づかなかったけど」

 彼は私から目を逸らすようにして肩をすくめた。


「ネズミか何かがいるのかも」

「ネズミ?」

「うん、ネズミ」

 強がっているようなその言い方に、怖いのだろうかと、私は思わず笑みを漏らした。


「幽霊かも?」

 怯える彼が可愛くて、いたずらっぽくそう言ってみる。

「幽霊なんかいないよ」

「本当に?」

「いないってば」

「そうかな」


 しかし、からかっているうちに、今度は可哀想になり、

「じゃ、見てきてあげる」

 私は素早く階段を上った。階段の上には廊下と、その先には扉が続いている。長年使っていないというのは本当らしく、廊下には薄く埃が積もっている。と、私はそこにあるものを見つけてどきりとした。


「お姉さん」

 ぐいと肩を引かれ、振り返ると、怒った顔の彼が私を見つめていた。


「あ……ごめんね、うそうそ。幽霊なんかいなかったよ」

 咄嗟に私はそう言って、階段を降りた。しかし、頭からはいま見たものが離れなかった。


 それは埃に浮かび上がった足跡だった。彼の足よりも明らかに大きく、かといって男のものとも思えないそれは、この家に父子以外の誰かの存在を思わせる、不気味な刻印だった。


「ねえ、この家って……」

 何も見なかった振りをして、私が聞こうとすると、

「僕、お姉さんに見せたいものがあるんだ」


 それを遮って彼が言った。青く大きな目が刹那、別の生き物であるかのようにピカリと光った。


「……見せたいものって、ここにあるの?」


 一旦家の外に出て裏手に回り、地面の跳ね上げ式の扉の向こうをのぞき見ると、そこには地下への石段が続いているようだった。私がためらっていると、それを気にも留めずに彼はさっさと暗闇に消えてしまう。


「ちょっと待ってよ」


 私は穴の中に声をかけると、おそるおそる足を踏み出した。暗闇が視界を奪った。それでも手探りで階段を降りきる。地下室特有の湿り気のある空気が肌にべたつく。


 そこは薄暗い空間だった。ネズミの死骸が腐ったような、嫌な臭いもする。


「ねえ、私、あんまりここにいたくないわ……」


 窓のない部屋と低い天井が圧迫感をもって迫ってくる。と、そのとき私はその嫌な感じを忘れてハッと息を呑んだ。


 そこには写真が並んでいた。どれも同じ、女の人の写真だ。一人のものもあれば、男性と一緒に写ったもの、赤ん坊を抱いたものもある。金髪に大きな青い目をした赤ん坊。彼は、いま、私の目の前にいる男の子に違いなかった。


「それが、僕のママ」

 いつのまにか隣にいた男の子がぽつりと言った。


「お姉さんに似てるでしょう?」

 写真の中、目を細めて笑う彼女は、確かに私によく似ていた。


『お姉さん――――に似てるね』


 遅ればせながら、私はあのとき彼が何と言ったのかをやっと理解した。お姉さん、ママに似てるね――彼はぼんやりとベンチに座っていた私にそう言ったのだ。


 けれど、彼は私が肯定の言葉を口にする余裕も与えなかった。


 ちくり、腰の辺りに痛みが走った。と思うと、部屋がグルグルと回り出し、私はその場に崩れ落ちた。

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