無敵のキリコさん

@shiromiso

キリコさんとの出会い

 満員電車というものは実に不快だ。毎日これに乗るサラリーマンの気がしれない。歴史の教科書でアウシュビッツへ送られるユダヤ人の写真を見た。「ドイツ人による迫害を受けるユダヤ人。狭い車両にモノのようにすき間なく押し込められている」と書いてあったが、クラスメイトたちは「俺らの朝の通学バスよりマシじゃあねえか」と笑っていた。いわんやこの満員電車の惨状よ、我々は一億総アウシュビッツ送りにされているのだ。毎朝。そんなことはどうでもいい。今問題なのはキリコさんが痴漢を受けているということだ。この満員に乗じて。なんたる不幸。キリコさんは身長175cmに長い黒髪をなびかせうるわしきスーツに身を包んでいる。僕は163cmしかないから自然見上げる格好になるが、となりで揺られているキリコさんの顔を見上げると、困ったような、呆れるような、ずっとためいきをついた後のような顔をしている。僕が見つめているのに気が付くと、目を開けて、艶やかに笑い返してくれた。その目つきだけで僕は心臓を掴まれたようになる。慣れない。これだからキリコさんと目を合わせるのはあぶない。目線を下に落とすと、キリコさんのお尻から腰にかけて、何者かの手が当たっている。いや、満員電車だから手が当たるもなにも全員おしくらまんじゅうみたいになってるのだが、問題は手のひらが当たっていて、撫でまわすように動いていることなのである。紛れもない痴漢である。それも、キリコさんに。許せねえ。一体どこの不届き者、クソデブチビハゲモブおじさんか、と手の先を辿ってみると、意外や意外、あなたはダルビッシュなんちゃらさんですか、と言わんばかりの、ハーフ系の色黒のイケメン、端正な顔に鋭い目つき、整った髪形にヒゲはきれいに剃ってあって唇は退屈そうに真一文字に結ばれている。その眼はどこか遠くを見つめていて、ああ、かっこいい。イケメンだ。でもその手はキリコさんのお尻をなでなですべすべして止むことがない。なぜだ。僕は生まれてこのかた17年、イケメンは性犯罪をしないものだとばかり思っていたが、するのだ。なんということだ。しかもキリコさんに。許せねえ。しかしキリコさんはこれを告発する様子もなし、されるがままに撫でられている。ああ、もしかして、わざと許しているのでは。イケメンだから。ダルビッシュ似の顔をしているから。痴漢されてむしろ嬉しい、どうぞどうぞ、持ち帰ってください的な。ああ、なんてこった。そんな痴女がこの世にいるものか。エロ同人の世界にしか居やしないと思っていた。しかし目の前にいるのだ。それもキリコさんが。ああ、嘘だ、僕はこれから二つ先の駅でキリコさんと一緒に降りて、用事を済ませたらついでにお茶に誘って、何なら告白して、そしたらキリコさんはたぶん驚きながらも喜んでくれて、まあ、君みたいなかわいい男の子が、私に? なんて、それでそのまま大人のあれこれを教えてくれる、二人だけの課外授業、夜は更けて僕は大人の階段を一段登る、そうキリコさんと共に、となるはずだったのだ。それが、キリコさんは、僕よりこんなイケメン痴漢男のほうがいいのか。まさか。怒りで僕は拳をわなわなと震わせる。例のイケメンの顔を見る。やはり何か悟ったような、気取った俳優のような顔をしている。しかしその姿勢のいい肩から生えている腕は紛れもなくキリコさんの豊満なヒップを揉みしだき味わっている。ああ、もっと嬉しそうな顔をしろよ、おい! キリコさんがすっと顔だけ振り返った。流し目で、イケメンと目を合わせる。イケメンは驚いて一瞬固まる。その手も行き場を失い、お尻の曲線に沿った形のまま硬直する。僕も息を呑んだ。キリコさんは、頬を赤らめながら、まるでいま初めてのキスをしたばかりの女の子のように、潤んだ目で、彼に一瞥をくれ、何かをささやいた。いや、正確には、何かを言ったように見えたというだけだ。この電車の騒音の中でキリコさんが仮に何か言ったとしてもまともに聞こえるはずもない。キリコさんはそのまままた前を向いた。そしてあろうことか、彼の手に自分のお尻を押し付けるように、ああ、これは錯覚だ。電車の揺れのせいでそう見えるだけだ。そう言ってくれ。神よ。どうして僕は、まだほとんど会話もする前から、告白もしてないのに、というかちゃんと惚れてもいないのに、今日の朝会ってさっきまで少し事務的な会話をして電車に乗っただけなのに、好きな人を寝取られねばならないのか。寝てもないけど。悪い夢か。イケメンはキリコさんに一瞬見つめられたことで理性が吹き飛んだのか、もう演技もなにもない、楽しくてしょうがねえぜみたいな顔をしていた。その手は言わずもがなキリコさんのお尻、ふとももを撫でまわし、もてあそび、まるでこれからさらに何かするかのように愛撫していた。許さない、どうしてだ。どうしてこんなことになっているんだ。彼の手は、その勢いのまま、だんだんとキリコさんの前、大事なところで、擦り寄っていった。キリコさんは何も言わない、振り返りもしない。ただされるがままに目を瞑っている。その口元は、心なしか笑っているように見えた。笑っている? 僕は奇妙に思った。ついさっきの艶やかな顔つきとは違う、何か、何だろう、人を嘲るような笑顔だ。まるで「お楽しみはこれからよ」とでも言いたそうな顔をしている。イケメンの手が、モロに、キリコさんの秘部に触れた。スーツの上から、感触を味わおうと、その、キリコさんのキリコちゃんを探している。ほんの数秒まさぐって、その手が硬直した。そのときキリコさんが手を掴んだ。うっ、と短いうめき声を発して、イケメンは手をひっこめようとしたが、キリコさんが押さえつけているのか、手は離れない。なんだ、何が起こっているのだ、僕にはよくわからない。キリコさんはゆっくりと振り向いて、イケメンの耳元に顔を寄せた。イケメンは、もはやイケメンではない、顔は恐怖と混乱に歪んで今にも嘔吐しそうだ。キリコさんは彼の耳元で何かささやいた。彼の顔がサーッと青くなる。彼の筋肉質な肩、二の腕、大胸筋から、生気が抜けていく。キリコさんはじっと彼を見つめていた。彼はどこをも見ていない。数秒待って、キリコさんは彼の腕を離してあげた。彼はその手で吊り革を掴み、壊れた糸人形のように電車に揺られた。


ようやく駅についた。改札を出て僕はやっとキリコさんに話しかけた。

「キリコさん」

「うん?」

「さっきは、その、災難でしたね」

「ああ、まあね」

爽やかに答える様子がなんとも強かで、美しい。

一体、さっきの車内では何が起こっていたんだろう?

「あの男に、なんて言ったんですか?」

「あれね、『あんたの人生、ここで終わらせてやろうか』って」

それは、やばい。キリコさんの声で、あんな近くで、腕を拘束されて、ささやかれたら、ねえ想像してごらんよ。こんな美女にだよ。とてもやばい。僕なら喜んで人生終わらせてくださいってなっちゃう。ただまあ、あのイケメンにはちゃんと人生があって彼女がいて出世コースもあってだろうから、恐怖したろうなあ。うむ。


それから些細な用事を済ませて、僕はキリコさんに告白した。その経緯を書く必要はないと思う。なぜって、書いたほうがいいかしら。要は覚えてないのだ。ほとんどずっとキリコさんのことしか考えてなかった。なんでこんなに美しい人が現世にいるのだ。しかも僕の目の前に。初恋にして人生最後の恋、もうこんなに素敵な人には二度と巡り合えない、今日を逃せば一生僕はキリコさんの幻影に身を焦がれて生きていくのだと、そこまで思い詰めてしまったのだ。そういえばキリコさんと僕の出会う経緯を書いていなかった。県立桐山高校の文芸部に二年生二学期という中途半端な時期に入部した僕は、その最初の活動日から顧問の先生の雑用、二駅先の街まで原稿用紙の買い出しに付き合わされる。しかし部員にキリコさんと言われ慕われている美しき女性は、この田舎町の教員とは思われぬほど美しく、そして美しかったのであった―――。


僕とキリコさんは、二人して山ほどの原稿用紙を抱えて歩いている。

仮にも自分は男だというのにキリコさんのほうが多く荷物を持っている。なんたる不覚。しかし小中と運動部でなかった自分には圧倒的に筋肉が足りない。例のイケメン痴漢クソ野郎くらい筋肉があればなあと思う。

「あの、キリコさん」

「なんだ」

「好きです」

夕焼けが綺麗だった。なんだか何を言っても冗談で済まされそうな、それでいて、二人が信じればなんだって本当になりそうな景色だった。

「……ごめん」

キリコさんの透き通る声は、僕を拒絶しているというのに、心地よく響いた。ああ、僕はこの人に会えてよかった、一生の思い出にしようと思った。二人でユザワヤを歩いた思い出、二人で改札を通った思い出、あと、もうないけどさ、キリコさんのことを一生忘れないでいようと思った。文芸部も今日で退部だな、部員にはまだ名前も名乗ってないからなんとなく逆にセーフな気がする。うむ。

「ああ、待って待って、泣かないで」

僕は泣いていた。キリコさん、こんなに美しいのに。僕では不足なのだ。

「別に、君のことが嫌いなわけじゃないんだ」

ああ、そうなのだ。嫌いじゃなくても、好きにはなれないんだ。僕がここで告白さえしなければ、早まらなければ、もっと一緒に過ごせたのに。

「むしろ好きっていうか、付き合ってほしいというか」

ああ、うん、え? なに、今なんて言った? キリコさん?

「その、実は私、男なんだ」

うん??? …………?


そのまま黙って歩いて五分くらい経った。僕はいま聞いたことを頭の中で整理していた。キリコさんは顔を赤らめてうつむいている。


一体何をどうとらえていいやら、わからないが、今、キリコさんは、自分が男だと言ったんだろうか。この美しい声で。熱い唇、赤らんだ顔で。そのしなやかな体をくねらせて、自分は男なのだと。まさか。キリコさんが下を向いて歩いているのをいいことに、僕はキリコさんの体を盗み見る。何度見ても美しい。端正な顔立ちに、引き締まった筋肉、豊満なバスト、ヒップ、歩く姿は何とやら、ミケランジェロの彫刻が動き出したってこうはならない。これが、男だなんて、ねえ。

「それじゃあ、そのすらっとした足の間に、例のナニが生えてるっていうんですか」

「…………。うん」

キリコさんは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。ああ! 僕は何ていうことを言ったのだ。つい。うっかり。ぼんやりして心の声が洩れてしまった。

「ハハハ……」

もう笑うしかない。ちょっと、何が起こっているのか、よくわからない。キリコさんは恥ずかしそうな顔をして、ふいに目があった。丸い、うるんだ瞳、僕を見透かすような、何かを訴えて泣きだしそうな瞳。僕はあなたに恋をしている。

「キリコさんなら、男でも構いませんけどね」

なんて。

「ほんと?」

「ほんとです、だってこんなに綺麗ですし、なんでしょうね、これがおかしいって言うなら常識のほうが間違ってるんですよ、たぶん」

キリコさんが笑った。かわいい。


なんだか満足してしまって、ぼんやり歩いていると、夕日が落ちた。空気が急に冷たくなる。

「ああ、明日の部活なんだけどね」

「なんです?」

「ちょっと早くに来てくれないかな。ええと、9時に部室」

「わかりました」

そう言って、別れた後、僕は家でキリコさんのことを思い出していた。なかなか眠れない。なんだかキリコさんの不思議な一面を知ってしまった。これからどうなるんだろう?


微笑みながら眠るこの日の僕は、翌朝、自分がキリコさんに処女を奪われ気絶するまで犯され絶頂させられることを、まだ知らない。

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