その川沿いの道で

マフユフミ

第1話

そこから見える景色は決してきれいなわけでも懐かしいわけでもなくて、

でもただ通り過ぎてしまうにはあまりにも儚く思えて、

ほんの少しだけと足を止めてキラキラ輝く水面にそっと目を向けてみた。



その川沿いの道で。



あの日。

どうしてそんなことを思ったのか、いまだにわからない。

なんのきっかけもない。なんの意味もない。

それでもどうしても思ってしまったあの日。

ただ一人、人気のない学校の屋上でフェンスにもたれながら風に吹かれていて。

ときおり吹き付ける木枯らしに身を震わせながら、

ゆるく結んだマフラーに口元までうずめて、

ああ、一人きりなんだ。そんな風に思った。

それは寂しいわけでも感傷的になったわけでもなく、

ひどく冷静に理解したのだ。

自分を取り巻くものが「孤独」であることに。

その理解は決して不快ではなかった。

これまでなんとなく居心地の悪かった自分の立ち位置に、

妙に決着がついた気分だったから。

そして、自分が「孤独」であるならば、なおのこと許されると思った。

常に目をそらしていた衝動を自分のものにすることを。

私は消えてしまいたいのだ、と。


死にたい、ならまだ積極的でいいのかもしれない。

私の衝動はひどく漠然としていて、受動的だ。

積極的に死を選ぶのではない。

ただここからいなくなりたいのだ。

自分という人間のあとかたをすべてなくして。

最初からこの存在をなかったことにしたい。

逃げなのだろうか。

ここにいたくない自分が尻尾を巻いて逃げ出したいだけなのだろうか。

それでも常にその衝動はつきまとう。

だから、密やかな賭けをする。

車道ギリギリのところを歩いてみたり、

不安定な崖の斜面を降りてみたり、

ただの偶然を装った死の匂いをかぎ分ける。

自分の存在をかけて。

そんな日々の中、今日のこの結論に至ったとき。

私は至極冷静に、これで賭けに勝てるかもしれないと思った。

授業をさぼって偶然足を踏み入れた屋上で、

偶然もたれたフェンスが壊れかけていて、

偶然吹いた強風にあおられた体が投げ出され、

地に叩きつけられる未来。

邪魔するものは何もない。傷つけるものも何もない。

きっと起き抜けのような浮遊感が全身を包むだろう。

最高の運と偶然と宿命が重ならない限り、

流れる血が赤いのを私の思考は見るだろう。

きっと痛みは感じない。私はものすごく幸福で。

アスファルトのベッドの上に、この身を横たえるのだ。


そして私はかすかに微笑んで、来るべき未来にむけて歩き出した。

そっと目を閉じる。

ずっと孤独だったけれど、それがつらかったわけではない。

それはきっと、私が孤独に取り込まれぬよう周りにいてくれた誰かのおかげで、

ただぬくもりに馴染めなかった自分が悪いだけ。

どんなにあたためてくれようと、それを信じ切れなかった自分が弱いだけ。

だからどうか哀しまないで。

私を失うことに、どうか苦しまないで。

錆びたフェンスの金網に手をかける。

その冷たい感触を感じながらこれまで私を取り囲んでいた世界を思い浮かべ、

ありがとう、とつぶやいた。


屋上に吹き付ける風は一定ではなく、突然吹き荒れてはしんと静まり返る。

次に強風が襲い掛かってきたときが、私がそれを決行するときと決めた。

金網を握る手に力が入る。

怖くない。楽しくもない。

ただ静かにその時を待つ。

心はとても凪いでいる。

現実世界に対して非常に居心地の悪かった、ここ数か月が嘘のようだ。

どこからか枯れ葉が舞い降りてくる。

こんなに力なくふわふわと、

カラカラの葉っぱは誰にも気づかれず屋上に着地する。

私もこんな風になりたい。

ただ風に吹かれて、その存在を希薄にして、

そっと着地してしまいたいのだ。

誰にも気づかれなように。

そして風は吹いた。

突然の強風は私の背中を押す。

錆びついてもろくなっていた蝶番は私の体重を支え切れるわけがなく、

金網のフェンスもろとも私の体は宙を舞った。


…はずだった。


実際は、空間へ飛び出そうとする瞬間、

どこからともなく手をひかれた私が叩きつけられたのは屋上のコンクリートで。

「何してるんだ!」とか

「このボケが!」とか、

聞きなれた、私の周囲にいてくれた人たちの声で散々罵声を浴びせられながら、

それでもその声にはどことなく涙が混じっていて。

何が何だか分からなくなった私も、

なぜか蛇口が壊れたかのように涙が大量にあふれてきて、

「ああ、結局ここにいるんだ」

そんなことを思った。

いろんな人たちに抱きしめられながら、

精神的に疲れ切っていたのかそのまま気を失いかけた私の目に飛び込んできたのは、

重たく垂れこめた雲の隙間から、うっすら太陽の光が差し込む光景だった。

それは妙に神聖な雰囲気で、あまりにも美しく、

こんなきれいなものがある世界なら消えてしまうのはもったいないのかもしれない、

なんて思えるほど儚くて、微笑んだまま私は意識を手放した。

目覚めたとき、私は保健室のベッドに寝かされていた。

最初に目に入ったのは、揺れる白の合間に舞うキラキラした光で、

それが風に踊る窓辺のカーテンからこぼれる日の光であることに気づいたのは、

隣に座っていた友人が目覚めた私に絶叫したときだった。


いまこの川沿いで思うのは、

あの日の私がなんと幼く馬鹿げていたのかということと、

それでもなんて必死に孤独に対しあがいて苦しんでいたのかという愛おしさ。

はっきり言って、私の孤独感はあのあとも消えてはいない。

どれだけ心配されていたのか、どれだけ愛されていたのか、

そんなこととは別次元の問題で、延々私の中に孤独は居座り続けるのだ。

でも、それをひっくるめて自分なのだ、と今の私は言える。

川沿いに吹く風は、あの日の気まぐれな風に似ていて、

キラキラ輝く水面は目覚めたとき見た窓辺の光に似ていて、

そんな全ての連続が、きっと今の私を作っている。

人々に囲まれているのに孤独を感じることに、

罪悪感を持つのはやめよう。

孤独のなかにあるからこそ、生きていることが尊いのだとわかる。

そんな自分の感覚を信じよう。

私は生き残ってしまったのではなく、

生きることを選んだ。

全て後付けの結果だったとしても、私はそう思い生きていく。


そんな決心をした。その川沿いの道で。







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その川沿いの道で マフユフミ @winterday

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