秋葉原 その5

赤いベレー帽の女がいた。

 柵のとこにしゃがんでいて、片手で柵を掴み、片手で腹の下に回していた。

肩が激しく上下していた。ぐぅぐぅぐぅと何かの音がする。

「え?」

 あんまり見かけない情景に向かおうとしている足が止まった。

なんか近寄ってはいけない気持ちがする。

女の動きがゆっくりとなるまで待ってみることにする。


 少しして、女はその姿勢のまま、顔を俺の方に向けた。

「え?笑ってるの?」

 思わず突っ込んでしまった。

そう、女は笑っていた。

赤い目から涙を流しながら笑っていた。

この姿勢、何が起きたのかと思ったらお腹を抱えて笑っているだけだったのだ。

「そりゃ笑うわよ。なによあの男」

 ソプラノのような透明感のある声で女は言い、立ち上がろうとするも、くらくらしたのか、再び座り込んだ。

どうすれば分からない俺は待つことにした。

「ちょっと!気が利かないわね。手はどうしたのよ?」

 キッと俺をにらみ、女はその真っ赤な唇からきつい言葉を発した。

「手って?」

「私が立ち上がらないのは立ちくらみのせいよ。男なら手を差し伸べる場面でしょ」

「ご、ごめん」

 なぜかVRの中で赤いベレー帽に怒られるという経験をしている俺は、恐る恐る近づいて右手を差し伸べた。

「よいっしょ」と俺の手を掴まれたので、力を入れて、引っ張ると、女は立ち上がった。

が、すぐに腰を曲げて左手で頭を押さえた。

どうやら立ちくらみが治ってなかったらしい。

そういえば、ここって、まだVRだよな。

VRって物を触れるんだっけ?

今、この女、俺の手を掴んだんだけど、俺はそれを実感出来ている。

普通の人が掴んだと同じ感触だった。

でも、車の中で斉藤さんが説明しているときには、VRの次の課題は、如何に見えるだけの技術を触れる技術へ昇華することだ、って言っていたような。

それに、周りを見回しても、先ほどと同じ景色が見えてる。

が、俺が覚えている限り、このVRヘッドセットを設置している二メートル四方の空間は壁ギリギリのところであった。

つまり、俺がさっき立っている場所から女のしゃがんでいる場所まで、三メートルはあったので、どこかにぶつかるはずだから、ゆっくりと歩いて行ったのだが、何もない。

今も、柵の向こう側に左手を伸ばしても、何も当たらない。

おかしい。昨日の池袋の体験コーナはすぐに何かにぶつかったのに。


「なぜだ?」

「ん、何がなの?」

 女の方を向くと、立ちくらみがようやく治ったらしく、女はまっすぐ立ってななめ上向きに俺を見ていた。

必然的に俺は斜め下を向くことになる。

こう見ると、百六十センチぐらいかも。

この女の背は。

視線が合い、少し垂れ目の中にある真っ赤な瞳に思わず吸い込まれそうになる。

ドキッとなり、無理やり柵の向こう側に顎をしゃくった。


「いや、なんで、ここがぶつからないのかなって思ってね。本当は壁に設置している棚があるはずなんだが」

 そういいながらも俺の左手は柵の上を行ったり来たりしている。

女は左手で俺の右手を掴み直すと、自分の右手で柵の上に手を出した。

なぜ手を変える?

「知らないわ。私がいた時からこうだったわ」

 そう答えた女は俺が繋がれた手に視線を向けているのに気づき、くすっと笑った。

「なによ、繋いじゃいけないの?」

「えっと、もう立ったんじゃないの?」

「立ったけど?」

「いや、だったら、離してくれてもいいんじゃないかな」

「うーん、後でね、ってか、夫婦なんだから、自分の夫の手を繋いじゃいけないっておかしくない?」

「あ、そうか、夫婦ならしょうがないな」

 そう納得するように頷いた俺は、何かがおかしいことに気付いた。


「!!」


 それに気づくと、俺は思わず両手を上げて一歩下がった。いきなり掴んでいた手を外されて、女は唇をとんがらせて文句を言ってくる。

「ちょっと、なんで離すのよ」

 びっくりしすぎて女の顔を穴が開くほど見ている俺は何も返事ができなかった。『夫婦』。今、この女は夫婦と言ったよな。ってことは、俺が夫でお前が妻か?その夫婦か?

「もしもーし?」

 右手を俺の顔で左右に振り、目の前の女は俺の反応を待っているようだ。

「えっと」

 のどを振り絞り、ガラガラ声で確認してみる。

女は先ほどとは違う笑顔をしていた。

「えっと、いつ、いつ夫婦になったのかな?」

「ん?そこから?」

 カラカラと音を立てて女は笑った。

「私からのプレゼントをもらったでしょ。陽明山で」

「プレゼントって」

「これよ」

 そう女は左手を差し出すと、手のひらを見せた。

まるでぽんと音がしたかのように、急にそこにはあの赤い小包が現れた。

「!!それは」

「これを拾ったじゃない。これ、私の結婚納金なのよ。それを一部使っちゃったんでしょう。その時よ。だから、台湾の風習で言うと、私たちは夫婦で合っているわ」

 そう言われ、俺は返す言葉に困った。


確かに、現地で、同僚の呉には警告された。

その後の警察署でも年配の李警官に言われた。

でも、その時には昔の風習だから気にスンナとも言っていた。

それに、ナイトマーケットのお寺にいた、慈明僧は何かを手伝うと言っていたが、何だっけ?

いやいや、その前に、これは死んだ人と結婚する風習で、結婚したら俺も死んじゃうってことか!?

 顔から暖かい血が引いていくのを感じながら、俺ののどはもっとカラカラになった。

ということは、目の前にいるこの女は幽霊か?何か言わないと口を開く。

「あ、あ、あれ?そういえば、名前聞いてなかった」

「あぁ!あ、そうだったわ。あるおじいちゃんに、辛抱強くねって言われたのだった。小包の中に差し込んであるお守りにも書いてあるけど、見てなかったでしょう。しょうがないわね」

 一瞬女が般若の顔になった気がしたが、気のせいだったかも。

目の前でにっこりしている女は貴族ドラマで見るように、両手でスカートをつまみ、両膝を少し落としてお辞儀っぽく言った。

「私の名前はリンエイよ。よろしくね」

「リンエイ……、どこかで聞いた名前かも」

「そう、いい名前でしょう」

「うん、いいと思う。でも、リンエイって、その、ゆ、幽霊なんでしょう?」

「ん、私?違うよ」

「え?違うの?」

「違うよ。どこから見て、こんな可愛いのが幽霊だと思ったの?」

 俺の前でわざとらしくくるりと右に向かって一回転するリンエイ。

長いスカートが回る力に沿って浮き上がる。

細い白い足が見えてまだどきっとした。

急いで視線を顔に戻すと、そこには、はにかむように笑ったリンエイがいて、可愛かった。

顔が真っ白で、瞳と唇がすごい赤いというコントラストが幽霊にしか見えないが、俺の会社でも見たことがないほどの可愛さだった。


でも、そもそも幽霊じゃないのなら?あれ?

「いや、でも、でも、あの赤い小包、死んだ人のためじゃないの?」

「そうだけど、私は死んでないわ」

「でも」

 それでも、何か言おうとしたら、リンエイが片手を出して、俺の口を塞いだ。

あれ、これって、女がやるやる行動なんだっけ?

「でもじゃないわよ。慈明僧から何も言われてないの?」

「慈明僧を知っているの?」

「当り前でしょう。私、大変だったのよ。あなたをそこまで誘導しなくちゃいけないのが」

「慈明僧から何か手伝おうかって言われたけど」

「手伝ってじゃ確かに、分からないわね。その時に会話はどういうのだったのよ」

 だんだん興奮してくるリンエイに、俺は慈明僧を疑っていたことを言った。

とたんに般若の顔がそこに現れた。

「なんですって!?慈明僧が私を助けてくれたから私は死ななかったのよ。せっかく私が戻れるように手配してくれるってのに、あなたはどうして、そういうアホなことをするの!」

 興奮しすぎたのか、リンエイの周りから熱気が飛んできた。

「そんなこと言われたって、俺だって初めて慈明僧に会ったんだから、警戒するのは当たり前だろう」

「もう、辛抱強くなりなさいって言われても、限界があるんだけど、私」

 文句言いながらも怒りを抑えてくれたらしいリンエイ。

ごめんごめんと拝むようにジェスチャーを取る俺。

続きを話そうとしたら、リンエイが突然姿勢を固くしたのが分かった。瞬時に俺に近づくと、まじめな顔で言った。

「誰か来る。いい、私を復活させることができるのは慈明僧だけだわ。他の誰にもできないの。理由は今教えられないわ。だから、私とのやり取りに関しては何も言わないで。それと、お金は使い切ってもいいから、明日すぐに台北に戻って慈明僧を探して」

 その後、チュッと俺の唇に何かが当たると、リンエイは俺から離れるように後じさりし、スーッと消えた。

「お願いね。あなた」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る